飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年2月 飛鳥(甘橿丘・豊浦・宮跡・石舞台)

2010年03月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年2月11日(水)、飛鳥>
 飛鳥6回目の散策。
今回は家族で訪れ、飛鳥のポピュラーな名勝地をサイクリングで回った。
真冬だったが好天に恵まれ風もなく穏やか、空気も澄んでいるため、遠くの景色の見通しが年間を通してもこの時期が一番良く、出かけるには大好きな季節である。
飛鳥サイクリングも2回目なので道も慣れてきて、地図もなしでスイスイ回れるようになってきた。

コース:飛鳥駅・・・鬼の俎厠・・・亀石・・・甘橿丘・・・豊浦寺跡・・・甘橿坐神社・・・飛鳥資料館・・・浄御原宮跡・・・水落遺跡・・・板蓋宮跡・・・石舞台・・・飛鳥駅


飛鳥駅


鬼の雪隠(せっちん)
道の両側に大きな石造の「鬼の爼」と「鬼の雪隠」が在る。これは大昔、旅人が飛鳥の平田に差し掛かると、鬼が旅人を捕まえ、爼で料理をして食べた後、満腹になり雪隠でウンチをしたとの伝承がある。しかし、実際は西へ 約15キロ程行った二上山から巨石を切り出し、欽明天皇の陪塚(ばいちょう)として使われていた横口式石槨(せつかく)の基底石と、蓋(ふた)石と云われている。


鬼の俎(まないた)


亀石
道の脇に花崗岩で造られた長さ3.6m、幅2m、高さ2m、重さ40トンの「亀石」が南西を向いて寝ている。伝承によると、これは大昔、まだ飛鳥が湖の底だった頃、明日香村川原の鯰と対岸の當麻の蛇が喧嘩して、川原の鯰が負け、その結果、湖の水を蛇に取られて干上がって、仰山の亀が死に、その供養の為の物で、この「亀石」が西の葛城市當麻町の方を向くと洪水が起こり、明日香村が泥沼に成ると云われている。しかし、本当の所は何の為に造られたのか、今もって謎の石像なのである。


真神が原を抜けて甘橿丘に向かう 前方に飛鳥寺が見えてくる


甘橿丘の展望台に到着 耳成山(左)・香具山(右)を背に


甘橿丘から畝傍山を望む


甘橿丘から耳成山を望む


甘橿丘中腹にある万葉歌碑 →万葉アルバム


甘橿丘下ったところの茶屋で休憩


豊浦寺跡
現在向原寺と呼ばれる小さなお寺の周辺に豊浦寺があった。
ここは我国最初の女帝であった推古天皇が即位した豊浦宮があったところ。


向原寺本堂南側では、豊浦寺講堂の版築跡の遺構が常時公開されている。画像の石敷き部分が豊浦宮の遺構だとされ、その上層が講堂の建築にあたって施された版築になるようだ。




豊浦の文様石
文様の特徴は、飛鳥石神遺跡から出土した須弥山石に似ているとされているが、
元々の用途はまったく分かっていないようだ。


甘橿坐神社
向原寺(豊浦寺跡)の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」。推古天皇らを祀っている。


境内に自然石の立石がある。これは飛鳥地方に見られる石造遺物の一種で祭祀遺跡あるいは結界石の遺稿ではないかと思われる。
また、この神社の特殊行事として、クガダチの神事がある。


飛鳥資料館
入った正面に展示されている飛鳥京の立体地図


資料館庭園にある酒舟石の複製


水落遺跡 旧飛鳥小学校わきにある
660年5月(斉明天皇6年)中大兄皇子が日本初の「漏刻(ろうこく、水時計)」を造り、天智天皇に即位して後、設置したもの。


発掘風景 石神遺跡発掘中(4次)


板蓋宮跡
643年(皇極2年)4月末から政治を行った「伝飛鳥板蓋宮(でんあすかいたぶきノみや)跡」。645年(皇極4年)6月12日中大兄皇子(後の天智天皇)が、母の皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を中臣鎌足らと諜殺し、大化改新をやり遂げた所。今は井戸を復元して史跡公園となっている。


石舞台
横穴式の石室を持つ方形墳で、日本書紀推古天皇34年に記載された蘇我馬子大臣の桃原墓と云われ、「石舞台」の名の謂われは古墳上部の封土を失い、むき出しになった巨大な天井石の上で、狐が女に化けて舞を見せたと云う説と、旅芸人が大きな石組みの上で芸を披露し、舞を優雅に舞ったと云う説が有る。




石舞台近くの万葉歌碑 →万葉アルバム

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