飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1986年10月 飛鳥(越・佐田から桧隈へ)

2010年02月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年10月12日(日) 飛鳥(岩屋山古墳-中尾山古墳)>

 飛鳥駅の西側に広がる越と佐田の岡は訪れる人も少ない静かなところ、そこから飛鳥の桧隈の里を経て話題の高松塚を回りました。

コース:飛鳥駅・・・岩屋山古墳・・・牽牛子塚古墳・・・マルコ山古墳・・・束明神古墳・・・岡宮天皇陵・・・桧隈寺跡・・・文武天皇陵・・・高松塚古墳・・・飛鳥駅


越の村落


岩屋山古墳
近鉄飛鳥駅の裏側にある越の集落の中にある。
研磨された花崗岩の切石を積んだ精緻な石室を持つ古墳として知られている。
「岩屋山式」石室の標準的な存在である。


牽牛子塚古墳
終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれている。
被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力のようだ。


真弓の丘
近鉄飛鳥駅の西方に広がる低い丘陵地帯が真弓の丘。草壁皇子(くさかべのみこ)が眠っている。
万葉歌”外に見し 真弓の岡も 君ませば 常つ御門と 侍宿(とのい)するかも”(草壁皇子に勤めていた舎人が皇子が亡くなり葬られた時に歌った歌)。


マルコ山古墳
奈良県で初めて発見された六角形墳として有名。
築造は7世紀末~8世紀初め、終末期の古墳。被葬者は不明だが天智天皇皇子・川島皇子の墓の説がある)


佐田の岡
”朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし”
(人麻呂追悼挽歌)


束明神古墳
春日神社の境内にある八角形墳で、草壁皇子の墓という説が有力である。
中央部に墳丘をつくった大規模な終末期古墳。 


岡宮天皇陵(草壁皇子墓)
のどかな田園を望む緑濃い真弓の丘の中腹にある。
現在「公式に」草壁皇子の陵とされているのが、この岡宮天皇陵。


桧隈の里(ひのくまのさと)
桧隈の里は飛鳥時代に百済から来られた渡来人が多く住んだ里。
明日香の里に当時「飛鳥寺」「川原寺」「山田寺」、そして数々の天皇の御殿や施設が造られたが、それらの建築物は全て渡来人の技術によるものだといわれている。


桧隈寺跡
ここは7世紀に建立された東漢(ヤマトノアヤ)氏の氏寺があったところ。
西側に中門があり、その門を入ると正面に塔、左手に講堂、右手に金堂が配置されていた。 現在は大きな礎石が草むらに残り、柵に囲まれて重要文化財の十三重の石塔が建っている。


於美阿志(おみあし)神社
檜隈寺跡に祀られている於美阿志神社。
早くから飛鳥に根づいたと思われる東漢(ヤマトノアヤ)と呼ばれる人々の祖・阿智使主(アチノオミ)氏を祀るとされている。


文武天皇陵
天武天皇と、持統天皇の孫である文武天皇は24歳で若死にし葬られている。


文武天皇陵付近から越・真弓の岡方面を望む


高松塚古墳
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見され有名になった。


高松塚古墳(右)と刈入れ前の田んぼが連なる風景
発見から14年しか経っていないので、まだひなびた田園風景が見られる映像。
現在では歩道や周辺が整備されたため自然の面影がなくなったのが残念である。


中尾山古墳
高松塚古墳に向かう途中にある八角形の古墳。八角形ということは天皇陵である
可能性が高い。文武天皇の陵墓ではないかとの説が有力。

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