飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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1987年9月 高円・田原の里

2010年05月13日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年9月:万葉の大和路を歩く会「み魂しずまる高円・田原の里」>

奈良盆地の東方約6km、標高390mほどの山間部にある田原(たわら)と呼ばれる地域には、志貴皇子の墓である田原西陵や、その子の光仁天皇の田原東陵がある。また高円(たかまど)山の西麓に建つ白毫寺(びゃくごうじ)は、志貴皇子の山荘跡を寺としたものと伝えられている。志貴皇子ゆかりの地が今回の中心である。

 コース:近鉄奈良駅=田原・志貴皇子墓-光仁天皇田原東陵-太安麻呂墓-柳生街道・峠の茶屋-滝坂道-白毫寺-近鉄奈良駅
講師:武庫川女子大学教授 清原和義氏


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓
志貴皇子は天智天皇の皇子で光仁天皇の父であり、万葉の歌人としても名高い。
 「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」(巻8─1422)
壬申の乱後の天武朝に天智の皇子が生きるのはむずかしく、まして母が采女であったことも肩身が狭かったろう。しかしこのことが志貴皇子により透明な世界と、身の安全をもたらした。


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓


光仁天皇田原東陵:志貴皇子のむすこ
田原西陵から東に約2キロの光仁天皇田原東陵
宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没し、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活した。それが志貴皇子の息子、つまり、天智天皇の孫にあたる白壁王=光仁天皇であった。


田原の里は稲刈りの真っ只中だった




太安万呂の墓(S54発見)
太安万侶の墓誌が出土した場所は田原西陵の近くである。


太安万呂の墓の茶畑からの展望 奈良時代の貴族の奥津城であった田原の里風景


太安万呂の墓
太安万呂の墓誌が発見されたのは1979年1月22日。高松塚の壁画発見も大ニュースだったが、この墓誌発見もそれに劣らぬ価値のあるものだった。太安万呂は『古事記』の編者として知られているが、この墓誌発見によって、彼の実在が証明され、安万呂の没年を養老7年(723)7月7日と記した『続日本紀』の信憑性も確かめられたのである。墓誌に書かれていたのは、「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万呂以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の41文字。伝承が出土品によって証明された幸福な例である。


太安万呂の墓の茶畑のコスモス


柳生街道を峠の茶屋を目指して歩く


峠の茶屋(柳生街道から滝坂道への分岐点)
創業してから約180年という古い茶店だが、老夫婦二人で作られる草餅はヨモギの香りも高く、なかなかに美味。


柳生街道・滝坂道へ入る


春日山石窟仏
滝坂の道が奈良奥山ドライブウェイと交わる少し手前にあり、石切峠にさしかかる坂の左手になるため、石切峠の穴仏とも呼ばれている。


柳生街道の道標と石だたみ
この道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたという。


切られ地蔵
荒木又右右衛門がためし斬りしたと伝えられる首切り地蔵


白毫寺
高円山のふもとにあり、境内からの展望は大変すぐれている。雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ、鎌倉時代に再興された。とくに道照が中国から宋版一切経の摺本を持ち帰ってからは一切経寺とも呼ばれ、庶民信仰の場として栄えた。現在は本堂と御影堂などが残っている。


白毫寺は萩の名所でもある
石段の参道両側には萩がビッシリと植えられている。


白毫寺本堂


五色椿
境内には天然記念物の五色椿が植えられており、奈良三名椿の一つとして有名である。


志貴挽歌(笠金村)の歌碑 高円山を望む   →万葉アルバム
境内広場の南側の片隅に「万葉歌碑」が建てられている。
歌碑には『高円(たかまど)の野辺の秋萩いたずらに 咲きか散るらむ見る人無しに』と刻まれている。この歌は、霊亀元年(715年)9月、志貴皇子が亡くなったときに笠金村が詠んだとされる歌で、萩をこよなく愛でたといわれる志貴皇子の心情がよくでている。


講師:清原和義氏の説明風景


左:三笠山、右:高円山
白毫寺をあとにして、奈良行きのバス停付近より。

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