茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや君が袖振る
=巻1-20 額田王=
茜色に輝く紫草が栽培されている天智天皇御領地の野で、あなたが私に袖を振っているのを、野の番人たちに見られてしまうではありませんか、という意味。
天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催された。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事だった。その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に歌を贈った。
それに大海人皇子(のちの天武天皇)が答えた歌がある。
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば
人妻ゆゑにあれ恋ひめやも
=巻1-21 天武天皇=
紫のように美しい君よ。君を憎く思うのなら、人妻なのにどうしてこんなに想うものか、という意味。
額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入った。この歌の贈答には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心、そして、大海人皇子の大胆で率直な男心がみごとに表現されている。
この2つの歌は万葉集の中でも屈指の歌であり、最も人気の高い歌のひとつである。
ムラサキ
ムラサキは上代の紫色の染料に使われ、これで染めた紫色は最も喜ばれた色彩だった。
夏に白色の花を開く。今では数も少なくなりつつある。
「蒲生野」の写真は蒲生野にある太郎坊宮本殿付近から撮ったもの。今は豊かな水田地帯に変わっている。中央の横に長い小山が万葉歌碑が建っている船岡山である。
「船岡山の万葉歌碑」は、自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板になっている。船岡山は蒲生野の真っ只中にあり、近江鉄道市辺駅からすぐのところにある阿賀神社のうしろに位置している。