飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年3月 多武峰から吉野へ

2010年03月11日 | 思い出の大和路探訪
<1987年3月15日(日) 多武峰から吉野へ>
万葉の大和路を歩く会「よき人の吉野山路訪ねて」に参加した記録。
 
 奈良時代に天皇が吉野詣でで行幸したコースを辿る旅である。

コース:近鉄桜井駅=多武峯・談山神社・・・・冬野・・・・竜在峠・・・・滝畑・・・・志賀
    =六田・柳の渡し=近鉄下市口駅 (徒歩約8km)
講師:甲陽学園高校教論 山内英正さん

多武峯・談山神社から志賀までは山道を徒歩。その他は貸切バスで移動した。
日本三大美林でもある吉野杉に覆われた山道を歩き回り、帰宅後に花粉症にかかったことがわかった思い出のある旅だった。
吉野杉の花粉を相当吸ったようで、この時以来現在に至るまで花粉症はおさまらないようだ。
それでも、ひなびた飛鳥から吉野路へ続く味わいのある散策をすることができた良い旅だった。



談山神社入り口
ここは、大化の改新でお馴染みの中大兄皇子、中臣鎌足が日本の将来について語りあったといわれる談い(かたらい)山がすぐ後ろにありその頂上には大化の改新の談合の碑が立っている。談山神社という名前はこの故事に由来している。


十三重石塔
談山神社の駐車場から南門へ向かう途中、右側に折れる道がある。
そこを少し登って行くと、十三重石塔が建っている。
淡海公墓所と伝えられる十三重石塔である。


人麻呂歌集の歌碑 →万葉アルバムへ




談山神社十三重塔
桜の開花まであとわずかだった。桜の満開時は人でごったがえすらしい。
鎌足の死後、摂津阿威山に葬られていた亡骸をここ、多武峰に移して建てられたお墓で、678年に完成し。しかし戦火に焼け落ち、写真の十三重塔は1532年の再建。この塔は現存唯一の十三重塔(重文)だそうだ。


談山神社拝殿
1520年に建てられたこの拝殿の中に、鎌足公の描かれた多武峰マンダラがある。


石垣と下乗石
西門跡で、飛鳥方面への門があったところ。立派な石垣と下乗碑がある。


談山神社から冬野へ向かう道から 飛鳥を望む


冬野
左方多武峯から30分程の登り道を経て、畑から登って来たT字路にでる。
真っ直ぐ村を過ぎて行くと竜在峠に出る。
眺望の素晴らしい場所。ここでしばしの休憩。
冬野はわずか三戸の村だそうだ。標高約六百米の山上に静かにたたずんでいる。
 かつて本居宣長は長谷寺から多武峯を経て冬野を通り、竜在峠越えで吉野に入っている。
「はるかに山蹄をのぼりゆきて、手向に茶屋あり。やまとの国中見えわたる所也」と 『管笠日記』 の中に宣長が記した冬野は、今は行きかう人もなく鳥のさえずりと、谷から湧き起こる風の音だけが響いているだけである。


冬野にて 桃の花


冬野を過ぎる


竜在峠付近
冬野からは屋根伝いに吉野に分け入って、約一時間で竜在峠に着く。
峠は展望もきかないので峠らしい感じがしない。
これより三百米先の雲井茶屋跡を経て吉野の滝畑へ通じている。


竜在峠にて
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ雪は降りける
間なくぞ 雨は降りける その雪の時なきが如
その雨の間まきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し
その山道を    (天武天皇 卷1-25)

西暦671年、壬申の乱の前年に大海人皇子(後の天武天皇)が妃(後の持統天皇)ほか、わずかの舎人たちを伴って越えたであろう峠の一つに、この竜在峠が考えられている。


滝畑
竜在峠南方の集落で、明治時代までは街道の要所だった所だそうだ。


吉野川 六田(むった)
音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川
六田の淀を 今日見つるかも (卷7-1105)

大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ、かつての「柳の渡し」付近。
平安時代に醍醐寺の僧が初めて渡し場を開いたと伝えており、以来吉野山から大峰を経て熊野へ駆ける、修験者の水垢離(みずごり)場(水を浴び身体を清める場)として尊ばれてきた。
大正までは舟や徒歩(かち)で川越えをしたものだった。
従ってこの付近は、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客でにぎわい、又吉野川をくだる”筏”のたまり場でもあったので、宿屋や茶店が建ち並んで、宿場町としても栄えた所である。


六田(むった)の河原で講師の話を聞く

ここから歩く会で用意された貸切バスで近鉄下市口駅へ着き、解散になった。

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