それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

映画の評論と、国語の授業

2010-11-20 15:42:48 | 日記


写真は僕がいる大学の図書館。火災報知機が鳴ったので、みんな出てきています。

すごい人数でしょ。

最近、よく火災報知機が鳴るのです。

本当に火災になったら、た、大変!!研究ができなくなってしまう!!

毎回、デマなのでいいのだけど、一体何が反応しているのでしょうか。

それにしても、研究が壁、壁、壁。必死です。必死で研究しています。




さて話はかわりますが、一部で熱狂的な支持を受けているライ○スターの宇○丸さんの映画評論。

僕も大好きだ。

彼の評論を聞くと、いつも高校の国語の勉強を思い出す。

彼の評論において、脚本の良し悪しを測る基準のひとつが、登場人物の行動の「動機」。まさにそれは高校の「小説」の問題で問われることだ。

つまり大前提として、登場人物の行動には十分な「理由」がある。書き手はその理由を「説明」によってではなく、台詞やふとした仕草で示す。

これが非常に大事なことなのである。



1、理由や動機を説明セリフ以外で描くことの失敗

ところが、多くの映画(邦画)では十分に登場人物の行動の「理由」「動機」を、「説明ゼリフ」という最悪の手段以外で、なかなか観客に伝えていない。

「理由なく、なんとなく行動する登場人物」。これによって観客はそこに感情移入できず、その映画は価値を減じる。

かといって、独り言で説明するのもリアリティを減じる。「ああ、腹減った。飯でも食おうかな。」というセリフから食堂に入るシーン、とか。これはコントである。

「理由」「動機」の説明失敗の原因には、ほかに「状況と書き手の都合の不一致」というものがある。

リアリティのある状況、ドラマティックな状況。これとストーリーを進める上での、あるいはメッセージやテーマに伴う「筆者の都合」が一致しない時がよくある。

そうすると、状況に見合わない不可解な登場人物の行動というものがあらわれてしまう。

例えば、救命救急士が被災者の救助よりも自分の恋人との電話を優先するラブストーリー、とか。これもコントである。

だから、批判される隙が出来てしまう、というのである。



2、カタルシスの有無

もうひとつのパターンが「カタルシス」の有る無しである。

物語全体が、あるひとつの行動(例えば、忠臣蔵で言うところの「討ち入り」)への動機を高め、徹底的にその行動を抑圧することで、最終的に実現されるその行動(討ち入り)によって、観客はすっきりする。

このカタルシスが高ければ高いほど観客はすっきりする。

これは動機や理由の話とも関わる。リアリティが高まれば高まるだけ、最後のカタルシスも高まる。

カタルシスを増加させる要素は他にもあって、映画が社会規範や現実から逸脱することも重要である。

これはみんなが何となく求めていることだ。いわゆるトリックスターという奴である。社会の空気を読まないで、規範や権威を茶化したりする人々。

こうした人たちの行動を見ることで、人々は自らガス抜きする。



今ここに書いたことは、映画評論に関する話のごくごく一部である。

しかし、僕はここで強調したいのだが、高校生にはちゃんとした映画評論を聞かせるべきだということである。

ちゃんとした映画評論は、国語の授業よりも下手をすると効果的だからだ。

おしまい



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