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社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

アニメ「東のエデン」:危機と改革

2013-04-07 16:03:37 | コラム的な何か
ここ最近は、なんとなくアニメ「東のエデン」(2009年)を見ていた。

この作品はTVシリーズと映画を合わせてちょうどオチが付くようになっており、その映画も前・後編になっており、なかなかずっしりくる長さだった。

とにかく評判が良くて、今さらここに書くこともないのかもしれないが、しかし、今この時期に書くべきこともあるかもしれないとふと思ったのである。



あらすじは、以下。

2010年に日本に10発のミサイルが落ちたが、奇跡的に死者は出ていなかった。政府は全くこうした危機を察知できず、内閣は解散に追い込まれた。

それを発射した犯人も何も真相が分からないまま、人々はふたたび重苦しい日常の空気のなかで生活していた。

主人公、森美咲はアメリカでの卒業旅行で「滝沢朗」と名のる青年と出会い、大学の友人とともにとんでもないトラブルに巻き込まれ、そしてミサイル事件を含む、近年の一連の事件の真相を知ることになる。



この物語で出てくるモチーフは、「ニート 対 上がりを決め込んだおっさん」、「ミサイルによる社会的危機(非日常) 対 社会の重たい空気、閉塞感(日常)」、「衰退する日本」といったものであった。

2000年代は格差(経済&世代間)の話題でずっともちきりで、このアニメの意識の一部もそこにあったように見える。確かにその点は今も意味はあるのだけれども、ニートが活躍する展開は村上龍の『希望の国のエクソダス』(2000年)のそれに近く、正直、少し古臭く見えてしまった。

村上龍が現在、『オールド・テロリスト』(連載中)で描いているように、我々の意識はもう少し具体的な「危機」のイメージに傾いている。

言うまでもなく、2011年に震災があったからだ。

大規模な地震だけでなく、津波、さらに原発事故と、きわめて明確な危機がこの国で起きた。

確かに2011年の危機によって、我々日本に生きる者たちは非日常を体験することになった。だが、ここで言う「非日常」とは災害の影響を間接的に受けたものだけにとってのものだ。災害に直接の影響を受けた人たちはもはや「非日常」ではなく、明確な「危機」のなかにいたのであり、いるのである。

「東のエデン」が描いたミサイル危機の後の奇妙な日本社会の状態は、「非日常/日常」という言葉で言い表せる。

「東のエデン」のなかで何度も語られるのは、「あれだけの危機のあとでさえ、日本は全く改革に向かっていない」、というフレーズだ。

震災の後の日本は、まさに「東のエデン」が描いたとおりになってしまった。

ただ、決定的にこのアニメと現実が違うのは、震災をきっかけに生じた原発事故はまだ終結していないということと、何より信じられないくらい多くの人命が震災で失われたということである。

つまり、そこまで深刻な危機だった(である)にもかかわらず、「東のエデン」よろしく、日本は根本的な変化を体験しなかった。

民主党政権が倒れ、自民党政権に戻っただけだった。エネルギー政策に変化はなく、これまでの政党政治にも変化がなかった。



けれども、一体どういう変化が期待できたというのだろうか。そもそも「革命」が必要なのだろうか?

状況は江戸末期のアナロジーでなど語れない。なぜなら、我々には改革のための大きな物語を発見できていないからだ。

「東のエデン」のなかで最終的に滝沢が主張するイメージも、全く漠然としている。

そもそも日本に「上がりを決め込んだおっさん」などいるのだろうか?確かに既得権益というものはある。

だが、そういう既得権益というものが、ニートと対立して存在しているのではなく、むしろ既得権益がニートを支えていると言った方が的確のように思える。また、既得権益のなかにいる人々が楽をしているかというと、そうでもない。

例えば、TPPで問題の農業だが、あれこそ既得権益のかたまりのようなものだ。

けれど、農家が農業の既得権益で楽をしているわけではない。多くの農家は保守的であり、そのシステムを支える農協のような存在はもっと保守的だ。

日本の農業はジリ貧だとよく指摘されるが、改革に向かう内発的な力はあまりにも僅少なのである。

エネルギー政策はどうだろう。原発の問題になれば、もう少し「上がりを決め込んだおっさん」に近い存在は見えてくるかもしれない。

本当にコストに見合っているのか分からない原発、電力供給の独占状態を維持したい電力会社とその周辺、自然エネルギーに回らない投資・・・云々。こうなると「東のエデン」のイメージには近いかもしれない。ただ、ニートと対立関係にあるわけではないが。

つまり既得権益というものは確実に存在しており、確かに改革が必要な領域は沢山あるのだが、実際、そこに必要なのは「革命」というよりは、理論的な「改革」だと言ってよい。

要するに、「東のエデン」は極端なのだ。物語だから極端でいい。

だが、現実は少し違う。領域ごとに「議論」が必要だ。

TPPの反対派は議論することを拒否している(支持派はどうだろうか)。

原発の問題では、支持派と反対派が双方に議論を拒否している。

結論ありきの宗教戦争だ。



「東のエデン」では、終盤、「愚民 対 ごく少数のエリート」という構図が出てくる。

官僚出身のエリートの敵役は、愚民は国家によって管理せよ、と主張する。

滝沢はこれに対して、国民は自由であるべきで、そこから新しいエネルギーが出てくる、と主張する。

この二分法はあまりにも古典的なものだが、問題はこの二分法ではないように思える。

日本社会のなかで人々を自由にしていないのは、国家というより社会だ。

日本人の大半は愚民というわけではなく、エリートがあまりエリートらしくない、という方が適切なような気がする。

日本全体の功利の増加のために、政策を徹底して合理化するためのエリートの層が果たしてどれほど明確に存在するのか。

確かにエリートは存在し、それは再生産されがちなのだが、階級ではない。サブカルチャーが完全に分断していない。

エリートにしか分からないゲームや行動様式、エリートにしか分からない言葉、エリート同士だけで構成される結社、というものが日本ではあまり見当たらない。

また、自己顕示欲の異常な強さ、自分のイメージを徹底して実現するための冷淡さ、さらに全体の利益を追求するための徹底した合理性、にもかかわらず、人の心を動かすようなレトリックの華麗さ、そうした特徴をすべて備えているリーダーを日本人はイメージできない。

これに対して、英米のリーダーの在り方はこれに近い。マッチョで、冷淡で、合理的で、しかも雄弁なのである。

こういう人間が何百人もいて、それらがそれぞれにグループをなし、社交を通じてゆるやかにつながっている。そして、大衆から完全に断絶している。

この階層のなかの人々は、ユーモアがあって、自由で、独創的であればあるほど好かれ、そして嫌われる。

研ぎ澄まされたエリートには、そうした友敵の関係を乗り越えるだけでの精神的な強さと強靭な権力欲がある。

こういう人々が国を動かしていくような社会は、きわめて強い社会だろう。

つまり、もし日本の改革に必要なものがあるとしたら、エリートの作り直しということだと思うが、そのやり方はまだ全くもって不明である。

そして、日本人がそんなエリートを好むとは到底思えない。

それでも日本人が陳腐な「宗教戦争」を乗り越えて、合理的な改革にすすめるとしたら、そこに存在する推進力は一体何だろうか?

「東のエデン」ではない別の物語があるとすれば、そのイメージから語りなおす必要がある。

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