それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

アイデンとティティ、トラとウマ:ばらばらに走っていけ

2010-07-09 04:45:03 | 日記
そういえば、昨日はワールドカップを見る前に友人とアイデンティティについて話をした。

アイデンティティというものについて悩まなければならないのは、産業社会の流動性のゆえであると、ある本を高校生のときに読んで教え込まれた。

本当かどうかは分からないが(閉鎖的な伝統的農村社会に生まれたことないし)、でも、たしかに僕はアイデンティティというものについて悩んでいた。

自分になりたい、という願いはいつだってあるけれど、最近は調子が良くてずっと考えていない。

院生になってから、少し調子づいた時期があったが、そのあと評価と自分のギャップ(自分は全然実力ないのに評価が先行、という思い込み)に少し悩んだりして、ずっと自分を消したいと思っていたが、今はずいぶん落ち着いたのだと思う。

恥ずかしいが、この留学は大きな転機になったと思う。

アイデンティティの問題として考えていなかったが、そういう思考というのは、結局、そういう問題なのかなと思う。

ただ、ずっと前から思っているのは、アイデンティティが本当に問題になるのは危機のときだということ。

自分の存在が脅かされていると考えたとき、人は自分の過去を懸命に掘り出して、本当か嘘か分からないものを床の間に飾って拝みだす。

個人でも国家でもそうだ。伝統も過去も歴史も、現在によってつくられる。

そう思っているから、自分は本当にかなり沈んだときでないかぎり、つまりちょっと沈んだときぐらいは、「現在」を問題にする、しようとする。できているかは分からない。

自分の研究もそうだが、過去や歴史を大事にしたい。しかし、それは現在から始まった問題提起が基礎にある。

現在と過去の相互作用を僕は丁寧に解きほぐしたい。

友人には全く違う、関係ないことを話してしまった。

自分の頭の中を話すのは難しい。でも、すべて言えないことと引き換えに、話すことは聞くことのみならず、その人の息使いから表情、それを超えたものまで共有できる。

だから、しょうがないね。

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