それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

サッカー、サッカー、サッカー

2012-06-27 23:34:28 | イギリス生活事件簿
しつこいようだが、僕の家ではとにかくヨーロッパのサッカー大会が(この表現もどうかと思うけど)盛り上がっている。

昨日は、スペイン 対 ポルトガル

今日は、イタリア 対 ドイツ

無論、応援するのはスペイン、イタリアだ。

ドイツに至っては憎き敵として認識されており、非常に可哀そうでもある。

とにかく、財政改革などなどの件でドイツは恨まれているわけだが、そもそもイタリアもスペインもギリシャも身から出たサビなのであって、むしろドイツは彼らを支えてきたと言ってもいいのであって、なんとも不条理としか言いようがない。

だからこそ、なんだか笑えてしまう。



僕はサッカーには暗く、どちらかと言うと避けてきたと言ってもよく、日本代表のいかなる試合もほとんど興味がなかった。

しかし、このフラットでヨーロッパのこの大会を見ないというのは、まったく市民権はく奪に相当するような扱いで(そもそも外国人ですけど)、さすがの僕も見ないわけにはいかないのである。

このフラットで唯一、サッカーにそれほど興味を示してこなかったのがイタリア人のバレンティーナで、その点において僕はとても親近感を覚えていた。

ほか3人は完全にサッカー狂であって、全くもって、ついていけないのである。

しかし、イタリア対ドイツの試合に関しては然(さ)にあらず。バレは熱狂に熱狂を重ねる応援ぶりで、歌うは叫ぶは、とても大忙しの様子であった。

確かにこの試合はど素人の僕にとってすらも面白く、見ていて楽しかった。

村上龍は『悪魔のパス 天使のゴール』のなかでこう書いている。

「あんなに広い場所で、しかも足で、ディフェンスもたくさんいる中で、ボールが狭いゴールが入るなんてことは、そもそもが奇跡なんだ。

選手は奇跡を起こすために練習するし、観客はそのたった一回の奇跡に感動するためにサッカーを見るんだ。」



ゴールがあまりにも奇跡的であるため、そのプレイは本当に美しいものが多い。

パスからシュートに至るまでのほんの数秒の間、オフェンスもディフェンスも含め、どの選手もきわめて合理的に動きながら、しかし、ある瞬間、誰かがその合理性を超越する神がかり的なプレイを実現してしまうことによって、ボールはゴールに吸い込まれていく。

いつでも奇跡が起こるわけではない。

スペイン対ポルトガルの試合のように、最後の最後までその奇跡が起きず、欲求不満になってしまうことも多い。

けれど、その次の試合のたった一度の奇跡が、まるでそれまでの不満を解消してしまうのだから、とても不思議である。



僕はこんな少しの、ほんのわずかなイギリスでの経験をきっかけに、サッカー好きになろうとする自分を恐れているし、それだけは何としても避けたいと思っている。

そんな安易なかたちでサッカーに傾くなどというのは、サッカーファンに失礼なのであって、断じてそんなことは己に禁じるのである。

そういうわけで、これまでも、そしてこれからも僕はサッカー好きにならないのであるが、ただ、教養として少しずつ勉強するべきではないかと思っている。