それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

バレンティーナの思想

2012-06-16 14:25:36 | イギリス生活事件簿
僕がどうしてバレと一定程度の距離を保とうとしているのか、その説明がとても乱雑だったことを反省し、少しだけその後の話を書く。

バレはとても僕が思うところの「女性らしい」人間だ。

彼女はものすごくロマンチストで、情に厚い。

他方、非常に打算的なところもあり、使えるモノやヒトを最大限に使う。

この一見矛盾しそうなふたつの原理が彼女のなかで仲良く働いている。

打算とロマンが組み合わさるとどうなるかというと、辻褄のきちんと合う物語が彼女のなかで生成され、それに沿って行動することになる。

僕は彼女の語る物語がしばしば半分フィクションであることに、ある日、気がついた。

それは非常に興味深いものだった。

アレックスはこう証言している。

「彼女はドラマのなかの女王なのさ。」

バレンティーナの打算とロマンの組み合わせは、彼女の周りに色々なドラマを生み出す。それはとても面白く、また目が離せない。

僕はその物語の熱心な観察者となった。



ただ、僕はたとえそれが親友というものであろうと、そのなかの当事者にだけはなりたくない。

ところが、徐々にその当事者に彼女が僕を勝手に引きいれようとしているのが分かった。

それは言いかえれば、とても仲良くなったということでもあるのだが、僕はそこまで仲良くなりたくないのと、もうひとつ重要なことなのだが、フラット内の秩序をとにかくバランスよく保ちたかった。

僕がネットの件を持ちだした結果、彼女の頭のなかで僕の位置がエースと同じところまで降格し、フラットは再び僕の理想とする秩序に戻った。

エースと僕は1セットと見なされ、ちょうど良くなった。

もうすぐ僕は帰国する。そうしたら、僕はイギリスでのことをすべて一度記憶の奥の棚に仕舞いたい。ちょっと楽しみ過ぎた。