蓮如が布教した越前の吉崎は越前最北端の坂井郡内に位置し、中世には建前的には、大和興福寺大乗院領の河口荘細呂宜郷下方吉久名に属していた
(『雑事記』文明6年12月20日条、『蓮如上人遺文』99)が、実際には領主権は及んでいなかった。入会地であった。
吉崎は古来から白山信仰の聖地であったが、この地が一躍有名になったのは、文明3年(1471年)本願寺蓮如が山頂を「ひきたひらげ」(轢き平らげ)て小さな坊舎を構えてからである(金津町吉崎願慶寺所蔵の延宝5年「越前吉崎古跡図之写」では4間4面)。
蓮如は長禄元年(1457年)に父存如の死によって本願寺八代目の住持となった。43歳の時であった。継職当初から新たなる宗派・教団の形成を意図し精力的に活動した。この蓮如の下にまっ先に馳せ参じたは、湖西の堅田と湖南の金森・赤野井の人々であった。
まず、比叡山が蓮如の人気に怯えだした。寛正6年(1465年)、比叡山の衆徒が、蓮如らが
「仏像・経巻を焼失し、神明和光を軽蔑」するのは見過ごせないと、東山大谷の本願寺を攻撃し破却した(寛正の法難)。蓮如らは逃散し、湖西・湖南の一帯を転々とした後、北陸へ下ったのである。
吉崎山(通称御山)は高さ33メートル余、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた面積約2万平方メートルの小丘である。吉崎選定にあたっては、
村民共有の「虎狼のすみなれし」山であったからである。これは、後の、摂津国石山御坊などと共通する地理的環境であった。1465年4月上旬に近江を発ち、京都を経由して北陸へ入り、吉崎坊舎の建立が7月末であった
(『蓮如上人遺文』26)。つまり、かなり慎重に異を運んだのである。滋賀県多賀町照西寺に「吉崎山絵図」が伝えられている。この絵図を転写し注記を加えたものに、新潟県上越市本覚坊所蔵の古図(享保18年)がある。
蓮如は、敷地内に多屋を数多く建てた。多屋とは蓮如側近や大坊主分の詰所や参詣者の宿泊施設ではあるが、実際には、山野での生活に必要な物資を置く所、あるいは戦乱を避けるための避難所であった。そして、後に、本願寺派は、宗主が住む寺を数多く建てたが、蓮如の商いに寺内を解放する手法が踏襲された。寺内への民衆の立入りを禁じた諸宗派の名刹寺院の境内とは異なり、本願寺派の寺院は、広く一般の人びとに開放され自由な商工業が育っていった。
蓮如の吉崎滞在は文明7年までのわずか4年間であった。
吉崎の蓮如は、六字名号というご本尊を表す書き付けを1日に2、300幅も書き続けたこともあった。文明5年3月には、
親鸞の、『正信偈』と『和讃』を合本化して木版印刷紙、朝勤でその読誦を始めた(「本願寺作法之次第」)。本願寺ではそれまで中国浄土教の祖師といわれる善導の『
六時礼讃』などを読誦していたが、
畿内に大きな勢力をもつ仏光寺派や北陸の一大勢力たる三門徒派などの親鸞の法系を継ぐ他の門流は、かなり早くからこの『正信偈』と『和讃』を用いていた。蓮如もこれへの追随に踏み切ったのだろう。
また、不特定多数に提供可能な教典を採用し、それを広く一般の人びとへ公開しその読誦を求めていった。この文明版とよばれる『正信偈和讃』の版木は、民間の側で作られた「町版」と想定されている。このことは、
本願寺が一方的に下付したり取り返したりする意思のないこと、版権や販売権を独占する意思のないことを宣言したものとみなされる。これは、まるで、ルターである。
御文(御文章)も、真宗教義をわかりやすく人びとに伝える目的で作られたもので、蓮如は
「あまねく披露候へく候」とその公開を求め、さらに語りかける息づかいまで聞こえるような、蓮如の声そのものとして拝受するように求め、そのために文章を片仮名で表記している。各種の教典類のうちでは冊子形態の御文が最も汚れている。各頁の左右の端には、必ずといってよいほど手垢・土垢が付着しているからである。「土」とともに生きた当時の坊主衆・門徒衆がじかに手にした教典、それが御文だった。
本尊類・教典類が特定の僧侶に独占されることなく不特定多数の人びとの前に開放され、しかもそれら
本尊類・教典類を「学習」するのではなく、自身の五感でもって「体感」するよう説く蓮如は、急速に支持者を増やしていった。また、毎月2度の親鸞忌・前住忌の法会が月例行事として行なわれており、その行事に出仕する者は単なる一時的な参拝者扱いでなく、寺院・道場の宗教行事役を担う基本的構成員(衆)としての身分を与えられた。
北陸・東海一帯の多数の寺院の「由緒書」には、先祖が吉崎へ行ったことが書き記されている。どの由緒書にも他宗派の場合に多々見受けられる奇瑞による開創伝承などの記載はほとんどなく、もっぱら、蓮如に会って帰依して改宗したという、ほぼ紋切り型の文言が列記されている。
それら由緒書に記される「帰依」とは、納得したということを、「改宗」とは今後このやり方で「毎月ノ会合」(『蓮如上人遺文』33)をやっていこうと決意したことを語っている。
蓮如は継職当初から、本願寺になじまない種々の本尊・絵像類を「川ニナカシ」(川に流し)ていた
(「東寺執行日記」寛正6年3月23日条)。阿弥陀如来と他の諸神・諸仏・諸菩薩との混在を否定していたからである。この事実は山門側の怒りをかうこととなり、東山大谷破却の直接的原因となった。また「寛正の法難」の最中に、本願寺と高田門徒との間に大きな亀裂が生じた。高田系の「越前国門徒中」が、蓮如らの「無碍光衆」の邪法を退治することはこのうえなく悦ばしいと山門側へ弁明したからである
(専修寺文書一号)。
蓮如の説く「仏法」とは、王法(政治支配秩序の理念)を支え王法から支えられている仏法ではなく、唯一阿弥陀如来によってのみ保証されるという、いわば狭義の仏法である。従来の正統的仏法観は、鎮護国家や郷土の安穏・五穀豊饒を祈念する王法的仏法観であった。蓮如はこの伝統的な仏法観と訣別し、信心為本を唯一の「仏法」であるとした。そして従来の王法的仏法を真宗的な狭義の仏法の範疇に含めることを拒否し、それを別な次元の王法・世法に属するものと位置づけた。つまり、王法的仏教の存在は認めるが、また、諸神・諸仏はそうした王的仏法に含めてもよいが、自分たちの信仰はこれとは、まったく別の阿弥陀様だけのものであると断言したのである。この主張は、数世紀にわたって当然のこととみなされてきた一般的な宗教観を否定することに等しかった。
吉崎へ僧俗が急激に集まり一大社会勢力となるにつれ、現地の大名勢力や既存の諸宗派との摩擦が生じてきた。蓮如は文明5年9月ごろから、大野郡平泉寺や坂井郡豊原寺などの諸宗への誹謗禁止、守護・地頭への軽視の禁止、「仏法」と「王法」の分離と王法の尊重という緊急声明を次つぎと「御文」のうえで表明していった
(『蓮如上人遺文』34、38、54、59)。しかし
阿弥陀如来以外の「諸神・諸仏・諸菩薩を尊重せよ」といいつつ、実際には、それらは
、「仏法」の項目からは除かれたままであった(『蓮如上人遺文』七九)。これでは、諸神・諸仏・諸菩薩を護持することで自らの正当性を謳い続けてきた既存の諸宗派・諸権力の激しい反発は必至であった。なお御文の「掟章」などのなかで、たびたび表記される
「有限年貢所当等均等に沙汰せしむ」べしという発言がある。しかし、これは、限定的な「先例」は遵守すべきであるが、
無限定な「新例」は不当・非理であるとの認識にもとづいた発言と一般に考えられている。
私の下宿から大学に通う古い街道筋に平慶寺という浄土真宗本願寺派のお寺がある。昔、後白河上皇の子と言われる市島入道が、平泉寺に流されてきた。ある日、平慶寺のある地域で過ごしているうちに、この地で没した。弔うために、お付きの層が、平泉寺の平の一字を取って平慶寺と名付けた天台宗の寺を建立した。之に感謝した
後白河上皇は、平慶寺一円の地を「御領ヶ島」と名付けて知行地として地域に下された。これが五領という地名の由来である。
しかし、この寺は、文明15年8月、時の住職が浄土真宗に帰依して、以後、浄土真宗の寺となったとされている。
入道が葬られた地は、「帝王三昧」と呼ばれ、寺が管理している。
このように、おそらくは、一向一揆の荒れ狂った歴史がそうさせたのであろうが、越前では、天台宗から浄土真宗に鞍替えした寺は結構多い。
平泉寺との絡みで言えば、下宿から東の方向に(大学は西の方向)行ったところに、上合月という地区がある。ここに、「五輪塔」といういささか不気味な箇所がある。私は早朝にジョギングしているのだが、ここだけは気持ち悪くて避けて通る。つまり、こういうことである。
ここは、織田信長と手を結んだ平泉寺の勢力と、朝倉義景軍とが戦った時に、村人たちが戦死した兵士たちを弔った場所と伝えられている。小石ひとつにも祟りがあると恐れられ、この一角は手付かずのまま残されている。
兼定島は、怨霊の渦巻く地域である。
1つ解せないことがある。蝉の声が著しく少ないのである。なぜかは不明。極端に少ない。もしかして、鴉が多すぎて、蝉は食べられてしまうのだろうか。
不気味ですらある。 気持ち悪いことと言えば、兼定島にも嫌な伝説がある。人柱である。これも変な放しである。見知らない人が村の寄り合いに入っていた。
昔、兼定島では、堤防を何度も造った。しかし、何度も何度も水が出る度に切れた。そこで、村の寄り合いで人柱を入れようということになった。誰に入ってもらうかでまた寄り合いをした
。「明日、この堤防を相撲取りが通るから、その人に入ってもらおう」となった。あくる日、村人たちが堤防の下に穴を掘って待っていると、一人の相撲取りが通りかかった。村人たちが有無を言わせず捕らえて、穴に入れて埋めはじめた。相撲取りは、村人たちに言った
。「私は、人柱になってこの堤防を守ります。それで、お願いです。私の命日には、ここで角力をやってください」と。見ると、その相撲取りは、昨夜の寄り合いで人柱のことを決めた人だった。変なの。
人柱供養塔はいまもある。