消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 5

2006-08-18 20:29:47 | 世界と日本の今

  株式交換によるM&A

 

 「いい品物をやすく売ればもうかる」というのはウソです。実際は宣伝力なども含めた力です。本当の意味で自由競争が行われているわけではありません。現実にもうかるのは、企業を商品のごとく売買するM&A(企業の合併・買収)です。特に許し難いのは株式交換による合併・買収です。自分の会社の株価(時価総額)が相手企業の株価(時価総額)より高ければ、一銭も払わずに、株式交換で相手企業を乗っ取ることができるのです。一時、ライブドアの株の時価総額がNTTの時価総額を上回り、ホリエモンは「時代の寵児」として持ち上げられました。

 

 株式交換は九九年の商法改正で可能となり、M&Aの手段として使われるようになりました。ただし、外国企業には認めていませんでした。しかし、アメリカの要求に従い、〇三年から条件つきで外国企業にM&Aを認めました。〇七年からは全面解禁となります。具体的には、アメリカ企業の日本子会社が、親会社の株と日本企業の株を交換することによって、合併・買収できるのです。いわゆる三角合併です。現金で買収することもできます

 

 さらにM&Aをしやすくするために、会社を分割して切り売りすることも自由化されました。それで、ダイエー本体から福岡ドームを切り離すことが可能になり、福岡ドームはコロニー・キャピタルに分割買収されました。

 

 そのうち、日本のメディア、製薬会社などが、軒並み買収されることになります。銀行もねらわれます。「日本の銀行が株の持合う制度はおかしい」と批判され、銀行は自己資本以上に関連会社の株を保有できなくなりました。〇四年三月のことです。銀行は持ち株を手放さなければならず、安定株主を失い、M&Aに対する抵抗力が弱まります。アメリカ企業によるM&Aの完全自由化を迫っている時にです。そのタイミングの良さに、怒りを感じませんか。

 

 私は最近『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』という本を出しましたが、アメリカに買い漁られる日本にしていく政治家とは何なんだろうか、と憤りを感じます。

 

 以下次号


ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 4

2006-08-17 11:33:44 | 世界と日本の今
前回の続き
規制緩和・売られる医療

 アメリカの要求を実現しやすくするために、政策決定の過程も変えられました。これまでは、各省庁ごとに各界で構成される審議会が開かれ、省庁案が作られました。それが閣議で決定され、国会に提出される仕組みでした。不十分ではあれ、各界の声が反映されました。それがブッシュ・小泉になると、まず日米首脳会談で決定し、内閣府がそれをまとめ、内容ごとに各省庁に具体化させる仕組みに変わりました。

 具体的には、経済財政諮問会議によるトップダウン方式です。この経済財政諮問会議で最も大きな力をもっていたのが竹中平蔵でした。もう一つは規制改革・民間開放推進会議です。議長は宮内義彦オリックス会長、村上ファンドの最大のスポンサーです。これまでもとんでもない規制緩和を進めてきましたが、さらに刑務所の民営化や税金徴収の民営化まで計画しています。税金の徴収が民営化されれば、民間会社は四兆円で買い取って四十兆円の税金徴収に躍起となるでしょう。サラ金の取り立てのような事態も起こります。「官から民へ」の「民」とは中小零細企業のことではありません。実際は、官よりも何倍も大きな大企業に力が集中することです。その民に、上級の国家公務員が天下りする。

 特にとんでもないのは、保険分野の規制緩和、医療の民営化です。最近のテレビは、アメリカの保険会社のコマーシャルばかりやっています。アリコジャパンアメリカンホーム・ダイレクトも、世界最大の保険会社AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)のグループです。日本の生命保険会社は見る影もない。これには裏があります。一九九六年の日米保険協定です。

 保険には三つの分野があります。第一分野は終身保険などの生命保険、第二分野は自動車や火災などの損害保険、第三分野はガン保険、医療保険、障害保険です。

政府は外資が参入しやすいように、保険分野の大幅な規制緩和を行い、さらに生命保険と損害保険の相互参入も約束しました。そして、何ということか、今後の成長が見込まれる第三分野については、外資と日本の中小保険会社の進出だけを認め、日本の大手保険会社(子会社を含む)や簡保の進出を禁止すると約束したのです。規制緩和という新たな規制です。このような日本政府を売国奴と言わずして何と言うべきでしょうか。

 日本の医療制度のすぐれたところは国民皆保険制度で、すべての国民がなんらかの公的健康保険への加入が義務づけられていることです。

 誰でも同じレベルの医療サービスが受けられ、しかも収入の少ない人は保険料が安く、収入が高い人は保険料が高い。さらに医療への株式会社参入を認めず、財力によって医療へのアクセスが不平等になる混合診療を禁止しています。国民の命と健康を守るために、日本では「医療機関は金もうけをしてはいけない」というのがモットーです。その結果、日本は医療費が世界で最も低く、しかも平均寿命が世界で最も長い国になっています。

 しかし、外資の医療保険会社にとって、公的な健康保険は金もうけのじゃまになります。政府は国家財政の赤字を理由に、医療制度を次々と改悪し、保険料引き上げ・給付引き下げで、国民の不安感を増幅してきました。民間の医療保険に入っておかないと、公的な健康保険だけでは心配だ。そんな不安を意図的にあおり、多くの国民が外資の医療保険に加入する構図をつくっています。

 さらに、規制改革・民間開放推進会議は、規制緩和の名で混合診療の解禁を主張してきました。構造特区第一号として認定された神戸の先端医療産業特区で、混合診療をはじめようという動きがあります。これに神戸市医師会が反対し、厚労省も反対しました。ところが経済財政諮問会議は、厚労省に反対するなとくぎをさしました。政府は、国の財政が苦しいので健康保険制度をなし崩しにしたい。ほとんどの公的医療機関は赤字なので、民営化してもうかるようにしたい。政府の医療改革の方向は、「医療の民営化」です。

 李啓充という人がいます。ハーバード大学医学部助教授も務めた人で、アメリカに住んでおり、日米双方の医療制度をよく知っています。彼は日本政府がアメリカをモデルに日本の医療制度を変えようとしていることに警鐘をならし、「医療は市場経済になじまない、民営化してはいけない」と訴えています。

 アメリカには日本のような国民皆保険の公的健康保険制度はなく、国民が加入するのは任意の民間医療保険です。医療保険は金もうけですから、病気の経験がある人は保険料が高くなり、あるいは医療保険に入れてもらえません。保険料に応じて受ける医療サービスも異なり、安い保険料の人は限られた医療しか受けられません。映画「ジョンQ」はその一例です。前述したように国民の一六%、四千万人が保険料を払えず、医療保険に入っていません。盲腸の手術が百万円もします。最高の医療を受けられるのは、高い保険料を払った金持ちだけです。「医療は金しだい」というのがアメリカで、貧乏人にとっては地獄です。

 医療費が世界で最も低く、最も長寿の、世界に冠たる医療制度を、医療費が最も高く、寿命が短いアメリカの医療制度に変えようとするのは許し難いことです。これが小泉政権の「医療改革」の中身です。

以下次号

ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 3

2006-08-16 15:36:50 | 世界と日本の今

 前回の続き

  金融自由化の陰謀

 

 素人つまり大衆相手の商売はもうかります。一生に一度の買い物といわれる住宅など、素人相手の消費財はとてももうかります。しかし、プロ相手の商売はもうかりません。たとえば製鉄や造船などは、巨大な図体の割にはもうかりません。顧客がトヨタなどのプロだからです。トヨタは世界中の鉄の価格を調査し、最低価格でしか買わない。そこそこのもうけしか許さない。しかし、なくてはならない産業です。

 

 長期の投資を必要とするこのような産業のための特別な銀行が、日本長期信用銀行日本興業銀行日本債券信用銀行でした。無記名にすることで、金持ちに長期の債券を買ってもらい、二十年とか三十年という長期の資金を、重厚長大の産業にまわしてきました。他方で、中小企業向けの融資には、地域密着型の信用組合や信用金庫があり、その監督は地元市町村にまかせました。最も力の強い都市銀行には一年以上の定期預金は認めないという具合に、それぞれの企業がバランスよく成長できるように、金融機関のすみ分けがありました。金融機関は一つも倒産しませんでした。第一勧銀富士銀行は世界一たくさんの預金を集め、一流銀行でした。

 

 ところが、アメリカが日本の金融市場でもうけるため、金融自由化を迫ってきた。バランスのとれたすみ分けは「護送船団」と批判された。自己資本比率の低い日本の銀行をねらい、金融機関の自己資本比率は八%以上というBIS規が決められた。銀行は「貸し渋り」「貸しはがし」に走り、中小零細企業は倒産に追い込まれた。「預金は借金だ」と言われ、預金をたくさん集めた銀行は三流銀行ということになった。

 

 もうからない産業に融資してきた長期信用銀行が、真っ先に血祭りに上げられた。破たんした長銀には政府の金が八兆円も投入され、負債が整理された。アメリカ政府の斡旋を受けた米投資会社リップルウッドが、それをわずか十億円で買った。しかも、長銀の債権が不良債権になれば、政府が弁償すると約束した。それが現在の新生銀行です。新生銀行はそごうなど多くの企業を倒産(不良債権化)させ、政府の弁償でぼろもうけした。十億円の元手で二千二百億円の利益を手にした。まさに「ハゲタカ・ファンド」です。

 

 日本長期信用銀行の破たんに始まって、二十一もあった都市銀行がわずか三つになりました。信用金庫、信用組合は多くが破たんさせられ、市町村から国の監督に移されました。銀行や信用金庫などへの不安をあおる世論操作によって、預金は郵便貯金に流れました。その郵便貯金をアメリカの金融会社が使えるように郵政民営化が行われました。これこそ陰謀だと思います。


本山美彦 福井日記 36 8月15日という奇妙な日

2006-08-15 00:12:40 | 時事

 8月15日は、重大事件の重なる奇妙な日である。以下、ウィキペディアによる。

 西暦に直した8月15日にあった歴史的事件

 

1534年 - イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。

1549年(天文18年7月22日) - フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。

1863年(文久3年7月2日) - 薩英戦争

1869年(明治2年7月8日) - 明治政府が蝦夷地に開拓使を設置

1914年 - パナマ運河開通

1945年 - 天皇自身によってポツダム宣言受諾の決定を日本国民に知らせるラジオ放送(玉音放送)が行われる(終戦の詔勅が出されたのは前日の8月14日、降伏文書に調印して正式に受諾をしたのは9月2日)。

1947年 - インド・パキスタンがイギリスから独立。

1948年 - 大韓民国成立

1960年 - コンゴ共和国がフランスから独立。

1969年 - 米・ニューヨーク州サリバン郡ベゼルでウッドストック・フェスティバル開幕、17日までの3日間ロックの野外コンサートが行なわれた。

1971年 - ニクソン米大統領が金とドルの交換の一時停止を発表。ニクソン・ショック。

1974年 - 在日韓国人文世光による韓国の朴正煕大統領暗殺未遂事件起こる。大統領自身は無事だったが陸英修夫人が流れ弾で死去(文世光事件)。

1986年 - 新自由クラブ解散、多くの議員は自民党に復党する。

誕生日

1769年 - ナポレオン・ボナパルト、フランス皇帝(+ 1821年)

1835年 - エドワルト・シュトラウス、作曲家(+ 1916年)

1887年 - ポール・メリル、天文学者(+ 1961年)

1890年 - ジャック・イベール、作曲家(+1962年)

1892年 - ルイ・ド・ブロイ、物理学者(+ 1987年)

1938年 - フレデリック・フォーサイス、小説家

忌日

1907年 - ヨーゼフ・ヨアヒム、ヴァイオリニスト(* 1831年)

1949年 - 石原莞爾、軍人(* 1889年)

1953年 - ルドウィッヒ・プラントル、物理学者(* 1875年)

1967年 - ルネ・マグリット、画家(* 1898年)

1996年 - 丸山眞男、政治学者(* 1914年)

記念日・年中行事

対日戦勝記念日(連合国)

盂蘭盆(日本)

聖母の被昇天の祭日 (世界各地) 聖母マリアが死ぬことなく、生きたまま天にあげられたことを記念するカトリック教会の祝い日。  

 キリストの誕生日がコンスタンチヌスによって12月25日にかえられたのだから、マリア昇天もミトラ教の影響があるかと思って調べてみたが不発であった。いずれにせよ、劇的な日としてクリスチャンには意識されているのであろう。


本山美彦 福井日記 35 蓮如が民衆の心をつかめた理由

2006-08-14 11:14:55 | 神(福井日記)
 蓮如が布教した越前の吉崎は越前最北端の坂井郡内に位置し、中世には建前的には、大和興福寺大乗院領の河口荘細呂宜郷下方吉久名に属していた(『雑事記』文明6年12月20日条、『蓮如上人遺文』99)が、実際には領主権は及んでいなかった。入会地であった。

 吉崎は古来から白山信仰の聖地であったが、この地が一躍有名になったのは、文明3年(1471年)本願寺蓮如が山頂を「ひきたひらげ」(轢き平らげ)て小さな坊舎を構えてからである(金津町吉崎願慶寺所蔵の延宝5年「越前吉崎古跡図之写」では4間4面)。蓮如は長禄元年(1457年)に父存如の死によって本願寺八代目の住持となった。43歳の時であった。継職当初から新たなる宗派・教団の形成を意図し精力的に活動した。この蓮如の下にまっ先に馳せ参じたは、湖西の堅田と湖南の金森・赤野井の人々であった。

 まず、比叡山が蓮如の人気に怯えだした。寛正6年(1465年)、比叡山の衆徒が、蓮如らが「仏像・経巻を焼失し、神明和光を軽蔑」するのは見過ごせないと、東山大谷の本願寺を攻撃し破却した(寛正の法難)。蓮如らは逃散し、湖西・湖南の一帯を転々とした後、北陸へ下ったのである。

 吉崎山(通称御山)は高さ33メートル余、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた面積約2万平方メートルの小丘である。吉崎選定にあたっては、村民共有の「虎狼のすみなれし」山であったからである。これは、後の、摂津国石山御坊などと共通する地理的環境であった。1465年4月上旬に近江を発ち、京都を経由して北陸へ入り、吉崎坊舎の建立が7月末であった(『蓮如上人遺文』26)。つまり、かなり慎重に異を運んだのである。滋賀県多賀町照西寺に「吉崎山絵図」が伝えられている。この絵図を転写し注記を加えたものに、新潟県上越市本覚坊所蔵の古図(享保18年)がある。

 蓮如は、敷地内に多屋を数多く建てた。多屋とは蓮如側近や大坊主分の詰所や参詣者の宿泊施設ではあるが、実際には、山野での生活に必要な物資を置く所、あるいは戦乱を避けるための避難所であった。そして、後に、本願寺派は、宗主が住む寺を数多く建てたが、蓮如の商いに寺内を解放する手法が踏襲された。寺内への民衆の立入りを禁じた諸宗派の名刹寺院の境内とは異なり、本願寺派の寺院は、広く一般の人びとに開放され自由な商工業が育っていった。

 蓮如の吉崎滞在は文明7年までのわずか4年間であった。

 吉崎の蓮如は、六字名号というご本尊を表す書き付けを1日に2、300幅も書き続けたこともあった。文明5年3月には、親鸞の、『正信偈』と『和讃』を合本化して木版印刷紙、朝勤でその読誦を始めた(「本願寺作法之次第」)。本願寺ではそれまで中国浄土教の祖師といわれる善導の『六時礼讃』などを読誦していたが、畿内に大きな勢力をもつ仏光寺派や北陸の一大勢力たる三門徒派などの親鸞の法系を継ぐ他の門流は、かなり早くからこの『正信偈』と『和讃』を用いていた。蓮如もこれへの追随に踏み切ったのだろう。

 また、不特定多数に提供可能な教典を採用し、それを広く一般の人びとへ公開しその読誦を求めていった。この文明版とよばれる『正信偈和讃』の版木は、民間の側で作られた「町版」と想定されている。このことは、本願寺が一方的に下付したり取り返したりする意思のないこと、版権や販売権を独占する意思のないことを宣言したものとみなされる。これは、まるで、ルターである。

 御文(御文章)も、真宗教義をわかりやすく人びとに伝える目的で作られたもので、蓮如は「あまねく披露候へく候」とその公開を求め、さらに語りかける息づかいまで聞こえるような、蓮如の声そのものとして拝受するように求め、そのために文章を片仮名で表記している。各種の教典類のうちでは冊子形態の御文が最も汚れている。各頁の左右の端には、必ずといってよいほど手垢・土垢が付着しているからである。「土」とともに生きた当時の坊主衆・門徒衆がじかに手にした教典、それが御文だった。

 本尊類・教典類が特定の僧侶に独占されることなく不特定多数の人びとの前に開放され、しかもそれら本尊類・教典類を「学習」するのではなく、自身の五感でもって「体感」するよう説く蓮如は、急速に支持者を増やしていった。また、毎月2度の親鸞忌・前住忌の法会が月例行事として行なわれており、その行事に出仕する者は単なる一時的な参拝者扱いでなく、寺院・道場の宗教行事役を担う基本的構成員(衆)としての身分を与えられた。

 北陸・東海一帯の多数の寺院の「由緒書」には、先祖が吉崎へ行ったことが書き記されている。どの由緒書にも他宗派の場合に多々見受けられる奇瑞による開創伝承などの記載はほとんどなく、もっぱら、蓮如に会って帰依して改宗したという、ほぼ紋切り型の文言が列記されている。それら由緒書に記される「帰依」とは、納得したということを、「改宗」とは今後このやり方で「毎月ノ会合」(『蓮如上人遺文』33)をやっていこうと決意したことを語っている。

 蓮如は継職当初から、本願寺になじまない種々の本尊・絵像類を「川ニナカシ」(川に流し)ていた(「東寺執行日記」寛正6年3月23日条)。阿弥陀如来と他の諸神・諸仏・諸菩薩との混在を否定していたからである。この事実は山門側の怒りをかうこととなり、東山大谷破却の直接的原因となった。また「寛正の法難」の最中に、本願寺と高田門徒との間に大きな亀裂が生じた。高田系の「越前国門徒中」が、蓮如らの「無碍光衆」の邪法を退治することはこのうえなく悦ばしいと山門側へ弁明したからである(専修寺文書一号)。

 蓮如の説く「仏法」とは、王法(政治支配秩序の理念)を支え王法から支えられている仏法ではなく、唯一阿弥陀如来によってのみ保証されるという、いわば狭義の仏法である。従来の正統的仏法観は、鎮護国家や郷土の安穏・五穀豊饒を祈念する王法的仏法観であった。蓮如はこの伝統的な仏法観と訣別し、信心為本を唯一の「仏法」であるとした。そして従来の王法的仏法を真宗的な狭義の仏法の範疇に含めることを拒否し、それを別な次元の王法・世法に属するものと位置づけた。つまり、王法的仏教の存在は認めるが、また、諸神・諸仏はそうした王的仏法に含めてもよいが、自分たちの信仰はこれとは、まったく別の阿弥陀様だけのものであると断言したのである。この主張は、数世紀にわたって当然のこととみなされてきた一般的な宗教観を否定することに等しかった。

 吉崎へ僧俗が急激に集まり一大社会勢力となるにつれ、現地の大名勢力や既存の諸宗派との摩擦が生じてきた。蓮如は文明5年9月ごろから、大野郡平泉寺や坂井郡豊原寺などの諸宗への誹謗禁止、守護・地頭への軽視の禁止、「仏法」と「王法」の分離と王法の尊重という緊急声明を次つぎと「御文」のうえで表明していった(『蓮如上人遺文』34、38、54、59)。しかし阿弥陀如来以外の「諸神・諸仏・諸菩薩を尊重せよ」といいつつ、実際には、それらは、「仏法」の項目からは除かれたままであった(『蓮如上人遺文』七九)。これでは、諸神・諸仏・諸菩薩を護持することで自らの正当性を謳い続けてきた既存の諸宗派・諸権力の激しい反発は必至であった。なお御文の「掟章」などのなかで、たびたび表記される「有限年貢所当等均等に沙汰せしむ」べしという発言がある。しかし、これは、限定的な「先例」は遵守すべきであるが、無限定な「新例」は不当・非理であるとの認識にもとづいた発言と一般に考えられている。

 私の下宿から大学に通う古い街道筋に平慶寺という浄土真宗本願寺派のお寺がある。昔、後白河上皇の子と言われる市島入道が、平泉寺に流されてきた。ある日、平慶寺のある地域で過ごしているうちに、この地で没した。弔うために、お付きの層が、平泉寺の平の一字を取って平慶寺と名付けた天台宗の寺を建立した。之に感謝した後白河上皇は、平慶寺一円の地を「御領ヶ島」と名付けて知行地として地域に下された。これが五領という地名の由来である。

 しかし、この寺は、文明15年8月、時の住職が浄土真宗に帰依して、以後、浄土真宗の寺となったとされている。入道が葬られた地は、「帝王三昧」と呼ばれ、寺が管理している。



 このように、おそらくは、一向一揆の荒れ狂った歴史がそうさせたのであろうが、越前では、天台宗から浄土真宗に鞍替えした寺は結構多い。

 平泉寺との絡みで言えば、下宿から東の方向に(大学は西の方向)行ったところに、上合月という地区がある。ここに、「五輪塔」といういささか不気味な箇所がある。私は早朝にジョギングしているのだが、ここだけは気持ち悪くて避けて通る。つまり、こういうことである。



 ここは、織田信長と手を結んだ平泉寺の勢力と、朝倉義景軍とが戦った時に、村人たちが戦死した兵士たちを弔った場所と伝えられている。小石ひとつにも祟りがあると恐れられ、この一角は手付かずのまま残されている。

 兼定島は、怨霊の渦巻く地域である。

 1つ解せないことがある。蝉の声が著しく少ないのである。なぜかは不明。極端に少ない。もしかして、鴉が多すぎて、蝉は食べられてしまうのだろうか。不気味ですらある。 気持ち悪いことと言えば、兼定島にも嫌な伝説がある。人柱である。これも変な放しである。見知らない人が村の寄り合いに入っていた。

 昔、兼定島では、堤防を何度も造った。しかし、何度も何度も水が出る度に切れた。そこで、村の寄り合いで人柱を入れようということになった。誰に入ってもらうかでまた寄り合いをした。「明日、この堤防を相撲取りが通るから、その人に入ってもらおう」となった。あくる日、村人たちが堤防の下に穴を掘って待っていると、一人の相撲取りが通りかかった。村人たちが有無を言わせず捕らえて、穴に入れて埋めはじめた。相撲取りは、村人たちに言った。「私は、人柱になってこの堤防を守ります。それで、お願いです。私の命日には、ここで角力をやってください」と。見ると、その相撲取りは、昨夜の寄り合いで人柱のことを決めた人だった。変なの。人柱供養塔はいまもある。


ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 2

2006-08-13 16:48:32 | 世界と日本の今
前回の続きより

戦争は金もうけ

 象徴的な話をします。

 私は九・一一テロを陰謀ではないかと疑っています。なぜ、ペンタゴンに突入したボーイング機の残骸が、いまだに発見されていないのか。飛行機の残骸が見つかってないのに、なぜ乗っていた「テロリスト」のパスポートだけが、紙でてきているのに燃えもせずに出てくるのか。世界貿易センタービルが一瞬で解体したのは熱で溶けたからだというのに、なぜペンタゴンの建物は溶けなかったのか。陰謀だという確証はありませんが、疑うべき状況がたくさんあります。

 また、九・一一の直前に、父ブッシュカーライル社のアジア担当責任者として、ビンラディン一族を集めて投資をすすめていました。「カーライル社に先行投資すればもうかる」とでも言ってたのでしょう。ビンラディン一族は中近東の石油利権とゼネコンを握る大富豪で、アメリカ南部に住んでいました。カーライル社は、軍事産業に投資する金融会社です。軍事産業を統括する企業としてアメリカで最大級で、ブッシュの他にカールーチやワインバーガーなどの元国防長官が役員に名をつらねています。そしてテロが起こり、子ブッシュが犯人はオサマ・ビンラディンだと発表しました。当然、ビンラディン一族を拘束して取り調べるのが常識です。それなのに、チェイニー副大統領の命令で、ビンラディン一族をただちにリヤドへ逃がしました。これは一体どういうことなのか。

 もう一つ。関西にはすでに二つの空港があるのに、神戸空港ができました。採算がとれるはずもないのになぜできたのか。神戸空港のある神戸市は神戸医療産業都市で、世界最先端の再生医療が行われ、衛星中継で米スタンフォード大学とつながっている。この神戸医療産業都市をつくったのはアメリカのベクテル社です。ベクテル社は原子力発電、石油関係、防衛・宇宙、建設、医療産業などあらゆる分野を手がけている巨大企業で、CIA長官や国務長官を輩出し、ブッシュ大統領の一大スポンサーです。湾岸戦争後のクゥエート復興やコソボ紛争後の復興事業、イラク戦争で燃えた油田の消火を請け負った会社で、アラブでは「死の商人」と呼ばれています。将来、台湾海峡で問題が起こった場合、負傷した米兵を飛行機で運びこみ、治療することを想定しているのではないのか。神戸再生医療都市に、ベクテル社による軍事と医療の結びつきを感じてなりません。

 戦争は金もうけです。背後で莫大な金が動いています。アメリカのGDPは日本の三倍ですが、軍事費は日本の十二倍です。それほど莫大な金がペンタゴンに集まる。その金にありつこうと、ペンタゴンを中心に利益共同体ができあがっているわけです。一握りのエリートや企業の金もうけのために、圧倒的多数の人々が犠牲になっていいのでしょうか。

以下次号

本山美彦 福井日記 34 若狭の新羅神社

2006-08-13 10:05:41 | 神(福井日記)
 若狭(ワカサ)の名前の由来は、朝鮮語のワカソ(往き来)であると言われている。若狭には、新羅・加耶系氏族に連なる伝承が多く、神社の祭祀氏族としては、秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。先に、秦氏を大秦というシリアから来た一族だとの説を紹介したが、新羅説の法が圧倒的に多い。新羅説を採れば、海のパタの連想が生きてくる。



 若狭では、明確に「新羅」と名を打つ神社は存在しない。それらしき臭いを残して別表記されている。敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。これらに加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったと言われている。

 日本の大和王朝は3期あった。初代から応神天皇以前までを第一王朝、応神から武烈天皇までを第二王朝、継体天皇から現代までを第三王朝と呼んでいる。三王朝のうち、第二、第三が若狭・越前との関係が深い。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったことの反映であろう。ただし、第一王朝は神話に属するので、実在を確かめることができるのは、第二王朝以降である。

 継体の時代は、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖の西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

 日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされた。  「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)。

 先に触れた「気比(けひ)神宮」は、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。延喜式の式内社で、祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。『福井県神社誌によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。

 気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったとされる。阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であった。都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味している更に、額に角をもつ人は武人を形象化したものであるという説もある。北海道余市町のhttp://www.tamabi.ac.jp/gurafu/akiyama/TOP_NEWS4.htmlには角の生えたヒトの絵が残っている。

 新羅は、中世に入り、白城と表記され、さらに、白木となった。これは、新羅が西方の国で、五行思想では西方が白色であることによる(水野祐『日本神話を見直す』)。

 山中襄太『地名語源辞典には「白木」は「新羅来(しらき)」の意らしい、としている。橋本昭三『白木の星』によれば、南北朝の時代、敦賀の金ケ崎に城があった頃の「白木」の地名は、当時の文書の中では「白鬼」となっていると言う。

 今庄町にも「白鬼」という地名がいくつかあった。これは、この地域一帯に共通の文化があったことを示すものである。

 白木明神を祭る「白城神社」(祭神鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)尊)は沓見にある「信露貴彦神社」などと共に新羅系の旧社と言われている(『福井県の歴史散歩』山川出版社、『敦賀市史』)。『敦賀郡神社誌』『遠敷郡誌』及び『今庄町誌』等によれば、当社は敦賀郡の式内社「白城神社」であり、俗に「白木明神」「鵜羽大明神」と尊称されている。

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれている。『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊、は神武天皇の父とされており、稲飯命は神武天皇の兄に当る。神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

 白城神社の神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社がある。  

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。現今の新嘗祭に相当する。また、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

 祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。 「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)。

 『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

 「信露貴神社」の祭神は、が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、孫が稲飯命である。

 敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。「菅浜(すがはま)神社」は、元々は「須可麻神社」であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。「スカ」とは古代朝鮮語で「村」を意味すると言う。この神社の祭神は、正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
 
『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命(神功皇后)であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である。息長氏は、先述のように、湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力をもっていたと言われている。

 今庄町の名前の変遷は面白い。この地は、元、新羅と言っていた。これが、白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わった。

 東小浜駅の少し東側を遠敷川がほぼ南北に流れている。川は滋賀県境にある百里ケ岳から発して小浜湾に注いでいる。川の中流の下根来という村に「白石神社」がある。
 
遠敷郵便局の近くに、「若狭媛神社」がある。この神社の近くに、遠敷川の清流が巨岩に囲まれて淵をなすところに「鵜の瀬」という場所があり、「鵜の瀬大神」が祭られている。この巨岩の上に「若狭彦の神」(「彦火火出見尊」(ひこほほでみ))と「若狭姫の神」(「一の宮夫婦神」)が降臨されたと言われている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来である。「彦火火出見尊」は「彦火火明命」(ひこあめのほあかり)であり、「山幸彦」である。「素盞鳴尊」の子神で、大和の最初の大王といわれている「饒速日(じぎはやひ)尊」である。この鵜の瀬が、東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の「遠敷神社」の「遠敷明神」は、「若狭姫神社」の祭神・「若狭姫神」(「豊玉姫命」)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。二月堂の「若狭井」ことはすでに説明した。

「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦10年(791)9月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。

本稿は、出羽弘明「新羅神社考―「新羅神社」への旅」(福井1~5)の研究に大きく依拠している。
 

ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 1

2006-08-12 09:46:13 | 世界と日本の今
 本日から「福井日記」、「古代ギリシャ哲学」とは別に、久々の連載を掲載します。なお、連続して読まれたい方は「世界と日本の今」のカテゴリーをクリックしてください。-編集部

貧しさが戦争に駆り立てる

 とんでもない金持ちもいないし、とんでもない貧乏人もいないのが豊かな社会です。貧しい国ほど、少数のとんでもない金持ちが栄耀栄華を誇り、圧倒的多数の人々が貧困に苦しんでいる。

 戦前の日本は、ものすごい豪邸がある一方で、庶民はろくな家に住んでいなかった。圧倒的な人々が貧しかった。特に農村では大地主が栄耀栄華を誇るかげで、小作人たちは極貧の生活にあえぎ、娘たちは遊郭に売られ、次男三男は軍隊に入るしかなかった。
 志願兵の圧倒的多数は東北など貧しい農家の出身でした。彼らは妹たちが遊郭に売られているときに、東京の金融資本が栄養栄華を極めているのを目にして、五・一五事件二・二六事件に走った。彼らは「打倒、資本主義」でした。中国を占領すれば貧しさから脱却できると、権力側に利用され、侵略戦争に駆り立てられました。

 国民を戦争に駆り立てたのは理屈ではありません。国家のために軍隊に入ったのではなく、飯が食えるから軍隊に入ったのです。理屈や思想教育はその後です。

 戦後、日本を占領したアメリカが行った改革は、第一が農地改革です。農地を解放し、小作人に農地を与えた。第二が教育改革です。金持ちの子どもや少数のエリートしか入れない旧制中学を廃止して、中学までを義務教育とし、教育費を無料にした。第三が労働組合や市民団体の自由化です。日本が再び、アメリカに対抗するような軍国主義となるのを許さない。それがアメリカの占領政策でした。

 現在のアメリカは徴兵制ではなく志願兵です。しかも、米兵のほとんどが中南米の出身者や黒人、つまり貧しい人たちです。彼らが軍隊に志願するのは大学に入るための奨学金、推薦を受けるためであり、アメリカの市民権を得るためです。貧しさから脱出するためです。イラクで戦争に参加する恐怖や人間としての悲しみに耐え、生きながらえてアメリカに帰って後の生活の保障を選択したのです。貧しさが若者たちを戦争に駆り立てているのです。

 アメリカには、戦前の日本と同じような戦争の構造があります。ごく少数のとんでもないエリートと圧倒的多数の非エリートが存在している社会、これが今のアメリカです。億万長者のビル・ゲイツは彼一人で、アメリカの全労働者の収入の半分を持っています。アメリカの労働者の圧倒的多数は、この二十年間、給料がまったく上がっていません。それどころか、日本のような健康保険制度がないので、医療保険に入ることができない人たちが一七%、四千万人もいます。「ジョンQ」という映画がありました。主人公はリストラで医療保険が高額の医療に適用されず、最愛の息子が心臓病の手術を受けることができない。そこで病院を占拠するという映画です。

 アメリカの権力は、アメリカ人を豊かにするのではなくて、少数のエリートだけが世界の富を独り占めするのに奉仕している。そのために軍隊の強化が必要になる。作り出された貧しさが若者を軍隊に駆り立てる。軍隊はこのように構造的に作り出されているのです。

 以下次号

本山美彦 福井日記 33 弥勒菩薩

2006-08-11 12:11:28 | 神(福井日記)
 司馬遼太郎 「兜率天(とそつてん)の巡礼」(『ペルシャの幻術師』文春文庫、所収)によれば、幾たびか中国の皇帝の末裔と称する一団の人々が日本に到来したという伝説があるが、これは、景教徒の秦氏の作り話である可能性が高いという。


 漢民族は、ローマを中心とする勢力圏を大秦と呼んでいた。『後漢書』巻八十八『西域伝』に「その人民皆長大にして平正、中国に類するものあり。故に大秦という」とある。これがローマ帝国を指すのか、アンテオケ(安都城)を首都とするシリア地方を指すのかはまだ分かっていない。秦氏は、日本の天皇と拝謁したとき、大秦から来たと説明したが、大秦の存在を知る日本人は皆無であった。始皇帝が創った秦を連想するのが精一杯であった。大秦という言葉を聞いた天皇が「秦」(はた)氏を名乗れと命令したかのであろうが、秦氏が日本で秦の始皇帝の末裔として自らを宣伝したのは、どうせ日本人に説明しても分からないのだから、始皇帝の子孫ということにしておこうというのが真相であろう。シリア出身であることを説明しても大した意味をもたないのだったら、史上有名な皇帝の名を使う方が得策だと判断したのであろう。中国から移住してきた集団の多くは漢の王族の末裔だと名乗ったものである。

 通常、秦氏は、朝鮮半島から織物技術を携えて太秦にやってきたというが、これは変である。そもそも、織(はた)から連想して秦を「はた」と読ませようとしたのだろうが、そもそも、秦という漢字には織物の意味はない。秦を「はた」と読ますのはこじつけである。いわんや、「太秦」を「うずまさ」と呼ばせるにはかなり無理がある。

 秦氏は、「日本書紀」に記されているように天皇に絹織物を献上した。そのうづたかく積まれたかたちから「うづまさ(兎豆麻佐)」という姓を与えられ、そこから「うづまさ」という地名伝承が生まれたということになっているのだが、地名学者は違った見解を持っている。



  吉田金彦・姫路獨協大学教授は『京都の地名を歩くで、「うづまさ」の「うづ」は宜しい所を意味する「宜津」から、「まさ」は秦氏一族の中心的人物であった河勝の勝(かつ・まさる)からきているのではないかとされている。また語源的には秦氏の族長に対する尊称である「貴勝(ウツマサ)」からきているとの説も紹介されている(www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/chimei)。

 司馬の小説では、赤穂の比奈の浦に到着した秦氏は、播磨平野の開発を成功させた後、本拠を山城に移した。その地に一族の主力となる「太秦」(うずまさ)を開いた。秦氏は、太秦の地にも大闢(ダビデ)の社を建てた。これが、大避の社、そして大酒神社となった。これは、太秦広隆寺の摂社である。



 山城で絹織物で成功した秦氏を支援していたのが、聖徳太子である。当時、大和を事実上支配していたのは蘇我氏であった。蘇我氏との政治的折衝に必要な資金を秦氏が聖徳太子に贈っていたというのが、司馬のこの小説の想定である。

 秦氏は、太秦の広隆寺を聖徳太子に寄進した。安置されているのは、周知のように弥勒菩薩である。弥勒菩薩は、仏教の世界では、釈迦入滅後5億7600万年(中国の伝承ではこれよりはるかに長く56億7000万年)を経て地上を救済するために使わされる菩薩である。この思想は比較的シリアの思想に近い。

 仏説によれば、天は9つある。その1つが「兜率天」(とそつてん)である。この兜率天に座って、下界を見、釈迦入滅後の5億年を思索で過ごすのが弥勒菩薩である。兜率天の一日は人間界の400年に相当し、住人の平均年齢は4000歳である。秦氏にとって、弥勒菩薩がイエスであり、兜率天がキリスト教における天国として映ったのかも知れないと司馬は言う。

 兜卒天は、欲界の天道のうち、下から5番目の天で、弥勒菩薩が将来登場する場所という意味で、弥勒浄土とも呼ばれている。この欲界の上には色界があり、欲界と色界で1世界を構成している。1世界が1000個集まって小千世界、小千世界が1000個で中千世界、中千世界が1000個で大千世界といい、この3つの千世界を総称して三千大世界という。

 色界は、輪廻から脱して迷いや欲などは無い世界ではあるが、まだ物質から逃れることのできないでいる。この色界の上に無色界というものがある。ここは肉体や物質を超越した精神活動の世界であって、ここは「想いも想わざるも何もあらず」の世界である。無色界の一番上にあるのが有頂天(うちょうてん)である。

 そして仏の世界は、欲界、色界、無色界といった三界のさらに上にある解脱した世界である。

 弥勒菩薩はインドではマイトレーヤと呼ばれ、ゾロアスター教のミトラ神に対応している。ミトラ信仰自体は、ゾロアスター教よりも古く、契約の神・天空神・光明神で、又冥界の裁判官でもあった。

 ゾロアスター教やキリスト教の最後の審判は、ミトラ教の影響で生まれたものと思われる。

 日本では天空に近い山の上に弥勒浄土があるという信仰が中世の頃からあった。弘法大師は、亡くなる時、自分はこれから弥勒菩薩のいる所へ行って、5億7600万年後に弥勒菩薩とともにこの世に戻って来る、と言ったという話が伝わっている

 広隆寺の境内には比奈の浦と同じように、イスラエルを想定させる「やすらい井戸」がある。また摂社の大酒神社の神は三体である。大和朝廷の氏神、天照大神、藤原氏の氏神、春日大神、そして、秦氏の氏神、大避大神である。

 最後に、放送作家の丘真奈美さんのウエブ・サイトから引用させていただきたい。いささか重複するがご容赦。同士は無断引用を禁止されていないようなので、勝手に引用させていただく。

 「京都を古代史的に考える立場から(全6回) 放送作家/超古代史ジャーナリスト丘 真奈美、第2回 京都超古代逍遥 太秦の謎② 牛祭 」

 太秦には、「牛祭」という祭りがある。「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」と並ぶ京都三奇祭の1つで、毎年10月10日に広隆寺で執行される。牛に乗った摩咤羅神(またらしん)という白塗りの神様に、四天王と呼ばれる4人の鬼が、太秦の各町内の代表者を引き連れて、夜闇の中、木嶋坐天照御魂神社(このしまいますあまてるみたまじんじゃ)〔蚕の社(かいこのやしろ)〕まで練り歩く。広隆寺の境内に戻ってから、薬師堂の前のかがり火の中でダラダラと妙な御祭文を読み上げ、最後はこの不思議な集団が追われるようにお堂の中に逃げ込んで終わる。

 牛祭の由来は、寺伝によると「1021年。恵心僧都71歳の時に夢にてお告げを受け、摩咤羅神を御祭神に厄除神事を行った」のが始まりとされる。一般的に広隆寺の祭りと認知されているが、実は寺の隣の大酒(おおさけ)神社の祭り。御祭神は秦氏である。大酒神社の酒という字は元々「辟」という漢字であり、かの景教博士・佐伯好郎氏が面白い解釈をしている。旧約聖書の登場人物・ダビデのことを漢字で「大辟」と書く事から、ここはダビデを祭った社だという。また、付近にある古代史ファンの名所である「いさら井」という井戸はイスラエルの井戸と言ってる。真偽はともかく、問題は摩咤羅神の正体である。

 京都名勝史によると「慈覚大師が唐に行った帰りに歓請してきた外来の神」だという。今でも比叡山に祭られている。最初のヒントが外来の神様だという事。次の謎が牛。友人であるオカルト作家は、その牛を「バール神」と解いた。この神は「牡牛」で象徴され、遙か古代メソポタミアの伝説から発祥し、宗教となった。

 私は、「ミトラ神」に着目したい。これはメシアの登場や復活・救済、そしてその大祭の日がクリスマスという点でキリスト教と似ている。これは古代イランで生まれ、インドにも伝播、やがて弥勒菩薩として仏教にも登場する。ミトラの救済の証は、屠られる牡牛の血で象徴される。都名所図絵を見ると、摩咤羅神は現在の様な白塗り面ではなく、天狗の面を被っている。天狗は外国人を表している気がする。現在の面は、日本画家・富岡鉄斎の作。彼は途絶えていた牛祭を復興させた人物である。

 最後の謎が御祭文を読み上げるラストシーン、節分の追儺式と同じく、厄払いの儀式である。追儺は中国の「儺式」がルーツで、方相氏という主神が迫力ある呪文で悪魔を追い出すもので、黄金の4つ目の仮面を被っていたという追儺が日本に伝播した頃、呪文は陰陽師が唱えた。面白いのは、その御祭文の内容。詳細は割愛するが、前段では秦山府君なる道教・陰陽道の人間の処罰や生死を司る神が登場するし、後半には「鼻が落ちる死病」など奇妙な単語が並んでいる。これをダラダラと読み、鬼を追うように摩咤羅神は薬師堂に中へ走り込み祭りは終わる。

 こうして牛祭を分析すると、バール神・ミトラ神・方相氏・秦山府君…と、実に沢山のオリエントの神々が同居し、救済・復活・悪魔払いという盛り沢山の内容を含んでいる。実に単調な祭りだが、何か引き込まれて飽きさせない理由は、ここにあるのかもしれない。牛祭については、京都チャンネル・京都魔界案内2「牛祭ドキュメント」でも伝えている。

【参考文献】

古代秘教の本」   学研

ミトラス教」    フェルマースレン/著  小川英雄/訳  平凡社
秦氏の研究」    大和岩雄/著   大和書房

日本の祭りと芸能」 諏訪春雄/著   吉川弘文社
太秦を論ず」    佐伯好郎
道教の本」     学研

ギリシャ哲学 19 ネストリウス派キリスト教(景教)

2006-08-10 12:54:38 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 フランシスコ・ザビエルの日本上陸400年を祈念した行事が日本各地で行われていたとき、産経新聞京都支局宗教担当の記者であった司馬遼太郎は、京都太秦(うずまさ)の秦氏(はたうじ)が、ネストリウス派の末裔であったというA.G.Gordonの説を基に太秦の遺跡を調査した記事を書いた。すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡をを残していること自体が奇跡だ」という彼の記事は内外に大きな反響を与えた。これが、無名時代の彼の兜率天(とそつてん)の巡礼』の原型になった。これは、寺内大吉と司馬遼太郎によって創刊された同人誌『近代説話』の第2号(昭和32年(1957年)12月)に発表された。

 ネストリウス派キリスト教は、5世紀のコンスタンチノープルで、イエスの母を「神の母」と呼ぶことを反対したことによって、追放されたネストリウスが起こしたキリスト教分派である。この派の一団は、コンスタンチノープルを捨て、東方のペルシャに勢力を得、さらに、東方に向かって西域や中国に入った。中国では景教と呼ばれた。中国に入らずに日本に到着したネストリウス派もいたというのが、ゴードンの説である。

 この説を踏襲した司馬は、『兜率天の巡礼』で空想歴史小説を書いた。ペルシャ(中国では安息と表記されることもあった)からインドに入り、インド東海岸から海路、日本の赤穂、比奈の浦についた秦氏が、景教徒であったという。彼らは、この地にダビデの礼拝堂を建てた。これを大闢(だびで)と言った。中国語では、ダビデは大闢と表記される。これが、比奈の浦の大避神社である。さらに境内に井戸がある。「いすらい井戸」という。イスラエルを想起させる名称である。さらに、一族は京都の太秦に居を移し、京都を開発するという奇想天外なストーリーを司馬は展開した。

 司馬を無名時代から高く評価していた海音寺潮五郎も、司馬の『兜率天の巡礼』よりも前に、ゴードン説に刺激されて、長編歴史小説『蒙古来る』(文春文庫)を昭和28年から29年にかけて新聞の連載小説で書いている。

 文永・弘安の両役前後の日本とユーラシア大陸を扱った『蒙古来る』は、蒙古軍によって、故国を追われたペルシャの美姫、景教徒のセシロヤが、海路、アラビア、中国沿岸を経て、日本に辿り着く物語である。

 日本では、セシリヤは傀儡子(くぐつ)の一団に身を隠す。傀儡子というのは、幻術、奇術を生業とする漂泊民である。そこで、セシリヤはペルシャの音曲やペルシャの幻術を披露したのである。

 海音寺の小説では、ゾロアスター教の秘儀も紹介されている。ゾロアスターの僧たちは、陶酔的な音曲を奏で、大麻を駆使して幻術、曲芸を披露する。こうした技が日本に伝来し、傀儡子、山伏、忍者に受け継がれた。こうしたことが、小説では語られ、当時の日本人にペルシャ・ブームを起こさせたのである。

 西暦431年8月4日、キリスト教史に残る最初の大宗教会議が東ローマ帝国のコンスタンチノープルで開かれた。この会議においてネストリウスの追放が決議されたのである。彼の意見はもとより、彼の説明を記した書物のすべては焼却された。

 ネストリウスは、当時、アンテオケ教会閥と言われていた派閥に属していた。この派閥は、マリアを神の母とすることに異を唱えていた。この派閥に対抗していたのが、アレキサンドリア教会閥である。マリア信仰は、女神信仰というギリシャの土俗信仰と結びついたものである。ギリシャに活動拠点を置くアレキサンドリア教会閥が、マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであった。

 キリルという僧正がアレキサンドリア閥の代表者であり、アンテオケ教会閥の代表がネストリウスであった。ネストリウスは、西シリアの貧しい農家出身であった。テオドル監督の引きでコンスタンチノープルの教父にまでなった。性格の穏和な人であったとされている。

 キリルは、それと正反対の激しい性格の人であった。原始キリスト教会の敵の一つはギリシャ哲学であった。当時、新プラトン学派のハクペシアという名の美貌の女哲学者がいた。非常に評判の高い人で、多くのアレキサンドリア市民の心を捉えていた。キリルは彼女を拉致して、教会内で貝殻で削り殺し、死体を寸断した上で、キナロンの地で焼いた。こうした残酷な男が、死後、聖者の称を与えられた。

 そのキリルがネストリウスを葬り去ろうとした。百人の美女をコンスタンチノープルに送り込み、ネストリウスの悪口を言って回らせた。コンスタンチノープルの宮廷の女官たちを買収して、ネストリウスを教父にいただく限り、皇帝、皇妃、高官たちが天国の門に入ることはできないであろうと、街角で演説させた。

 8月4日の大会議では、ネストリウスを支持するアンテオケ教会閥の議員団が会場に到着しないうちに、会議を成立させ、会場の議員の背後には武装した無頼漢を立たせ、「新しいユダを追え、しからずんば、後ろを見よ」と、キリル僧正は言った。後ろには無頼漢が短剣をちらつかせていた。

 ネストリウスは、正式の討論ではなく、キリルの卑劣な陰謀によって追放された。ネストリウスは、カトリック教会から永遠の追放処分を受けたのである。ネストリウスは、生まれ故郷の西シリアに監禁され、彼を慕う者たちは、東ローマの支配権を逃れ、東方に逃亡した。景教徒と呼ばれる流浪者たちがこのときに生まれた。

 彼らが去った100年後、ジャスチニアン帝治下で編纂された『ローマ法全典コーデッキス』第1巻第1章第1節には、彼らが極悪人であると規定されている。彼らの子孫は、故郷に帰還すればただちに死罪に付するとされていた。

 彼らが流浪して唐の首都、長安に辿り着くのは7世紀の中頃であった。当時の長安は毎年4000人を超える外国の使節がやってくる国際都市であった。

 当時の皇帝、太宗の好意で長安での滞在を許された景教徒たちは、西域との交易に従事しつつ、滞在が許可されてから3年後(貞観12年)、長安の西に大秦寺を建立することができた。金の官吏、楊雲翼は、廃墟になってしまった大秦寺を偲んだ詩を残している。それによれば、同寺は、緑碧の瓦屋根、天を突く白亜の塔をもっていたとされる。

 武宗の治下、会昌4年、武宗は、大秦寺を破壊し、寺の僧俗が国外追放された。武宗は仏教を徹底的に弾圧したのである。彼の廃仏毀釈令は過酷なものであった。壊された寺院の数は4万6000、追放された僧は20万人を超えた。この会昌4年をもって、景教徒たちは歴史の文献から完全に姿を消した。ヨーロッパ人たちは、カトリック教会の峻厳なネストリウス派抹殺政策のお陰で、景教徒の存在すら知らなかった。

 それから約1000年が経った明の天啓5年(1625年)、昔の長安、つまり、西安において、「大秦景教流行碑」なる黒色半粒状の石灰岩の碑が発見された。発掘したのは、西安の農夫であり、それをヨーロッパに知らせたのは、アルバレー・スメドレーというカトリックの宣教師であった。



 碑の大きさは、高さ9フィート、幅3フィート6インチ、暑さ10.8インチ、重さは2トンもある巨大なものであった。碑頭には、2匹の蛟竜の彫刻が施され、蛟竜は、十字架の紋章を抱いている。碑文は漢文とシリア文字で刻まれている。景教が大唐の皇帝の庇護を受けていかに興隆したかが書かれている。おそらくは、大秦寺の門前に立っていたものであろうとされている。

 この碑が本物であるかどうかは、長年の疑問であった。なによりも、ヨーロッパ人たちは、上述のように、景教の存在自体を知らなかった。さらに、中国の擬史癖という悪習によって、この碑もそうした偽物の類であろうとして詳しい調査は行われなかった。

 そうした風潮に一撃を与えたのが、高楠順次郎氏である。時代も随分下って1894年のことである。同氏は、『通報』というフランスの東洋史専門誌に「大秦寺の僧景浄に関する研究」を発表し、全世界の東洋学会から注目された。同氏の論文によって、この碑が景教の大秦寺のものであることが確認されたのである。

トップ画像の出所