司馬遼太郎 「兜率天(とそつてん)の巡礼」(『ペルシャの幻術師』文春文庫、所収)によれば、幾たびか中国の皇帝の末裔と称する一団の人々が日本に到来したという伝説があるが、これは、景教徒の秦氏の作り話である可能性が高いという。
漢民族は、ローマを中心とする勢力圏を大秦と呼んでいた。『後漢書』巻八十八『西域伝』に「その人民皆長大にして平正、中国に類するものあり。故に大秦という」とある。これがローマ帝国を指すのか、アンテオケ(安都城)を首都とするシリア地方を指すのかはまだ分かっていない。秦氏は、日本の天皇と拝謁したとき、大秦から来たと説明したが、大秦の存在を知る日本人は皆無であった。始皇帝が創った秦を連想するのが精一杯であった。大秦という言葉を聞いた天皇が「秦」(はた)氏を名乗れと命令したかのであろうが、秦氏が日本で秦の始皇帝の末裔として自らを宣伝したのは、どうせ日本人に説明しても分からないのだから、始皇帝の子孫ということにしておこうというのが真相であろう。シリア出身であることを説明しても大した意味をもたないのだったら、史上有名な皇帝の名を使う方が得策だと判断したのであろう。中国から移住してきた集団の多くは漢の王族の末裔だと名乗ったものである。
通常、秦氏は、朝鮮半島から織物技術を携えて太秦にやってきたというが、これは変である。そもそも、織(はた)から連想して秦を「はた」と読ませようとしたのだろうが、そもそも、秦という漢字には織物の意味はない。秦を「はた」と読ますのはこじつけである。いわんや、「太秦」を「うずまさ」と呼ばせるにはかなり無理がある。
秦氏は、「日本書紀」に記されているように天皇に絹織物を献上した。そのうづたかく積まれたかたちから「うづまさ(兎豆麻佐)」という姓を与えられ、そこから「うづまさ」という地名伝承が生まれたということになっているのだが、地名学者は違った見解を持っている。
吉田金彦・姫路獨協大学教授は『京都の地名を歩く』で、「うづまさ」の「うづ」は宜しい所を意味する「宜津」から、「まさ」は秦氏一族の中心的人物であった河勝の勝(かつ・まさる)からきているのではないかとされている。また語源的には秦氏の族長に対する尊称である「貴勝(ウツマサ)」からきているとの説も紹介されている(www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/chimei)。
司馬の小説では、赤穂の比奈の浦に到着した秦氏は、播磨平野の開発を成功させた後、本拠を山城に移した。その地に一族の主力となる「太秦」(うずまさ)を開いた。秦氏は、太秦の地にも大闢(ダビデ)の社を建てた。これが、大避の社、そして大酒神社となった。これは、太秦広隆寺の摂社である。
山城で絹織物で成功した秦氏を支援していたのが、聖徳太子である。当時、大和を事実上支配していたのは蘇我氏であった。蘇我氏との政治的折衝に必要な資金を秦氏が聖徳太子に贈っていたというのが、司馬のこの小説の想定である。
秦氏は、太秦の広隆寺を聖徳太子に寄進した。安置されているのは、周知のように弥勒菩薩である。弥勒菩薩は、仏教の世界では、釈迦入滅後5億7600万年(中国の伝承ではこれよりはるかに長く56億7000万年)を経て地上を救済するために使わされる菩薩である。この思想は比較的シリアの思想に近い。
仏説によれば、天は9つある。その1つが「兜率天」(とそつてん)である。この兜率天に座って、下界を見、釈迦入滅後の5億年を思索で過ごすのが弥勒菩薩である。兜率天の一日は人間界の400年に相当し、住人の平均年齢は4000歳である。秦氏にとって、弥勒菩薩がイエスであり、兜率天がキリスト教における天国として映ったのかも知れないと司馬は言う。
兜卒天は、欲界の天道のうち、下から5番目の天で、弥勒菩薩が将来登場する場所という意味で、弥勒浄土とも呼ばれている。この欲界の上には色界があり、欲界と色界で1世界を構成している。1世界が1000個集まって小千世界、小千世界が1000個で中千世界、中千世界が1000個で大千世界といい、この3つの千世界を総称して三千大世界という。
色界は、輪廻から脱して迷いや欲などは無い世界ではあるが、まだ物質から逃れることのできないでいる。この色界の上に無色界というものがある。ここは肉体や物質を超越した精神活動の世界であって、ここは「想いも想わざるも何もあらず」の世界である。無色界の一番上にあるのが有頂天(うちょうてん)である。
そして仏の世界は、欲界、色界、無色界といった三界のさらに上にある解脱した世界である。
弥勒菩薩はインドではマイトレーヤと呼ばれ、ゾロアスター教のミトラ神に対応している。ミトラ信仰自体は、ゾロアスター教よりも古く、契約の神・天空神・光明神で、又冥界の裁判官でもあった。
ゾロアスター教やキリスト教の最後の審判は、ミトラ教の影響で生まれたものと思われる。
日本では天空に近い山の上に弥勒浄土があるという信仰が中世の頃からあった。弘法大師は、亡くなる時、自分はこれから弥勒菩薩のいる所へ行って、5億7600万年後に弥勒菩薩とともにこの世に戻って来る、と言ったという話が伝わっている。
広隆寺の境内には、比奈の浦と同じように、イスラエルを想定させる「やすらい井戸」がある。また摂社の大酒神社の神は三体である。大和朝廷の氏神、天照大神、藤原氏の氏神、春日大神、そして、秦氏の氏神、大避大神である。
最後に、放送作家の丘真奈美さんのウエブ・サイトから引用させていただきたい。いささか重複するがご容赦。同士は無断引用を禁止されていないようなので、勝手に引用させていただく。
「京都を古代史的に考える立場から(全6回) 放送作家/超古代史ジャーナリスト丘 真奈美、第2回 京都超古代逍遥 太秦の謎② 牛祭 」
太秦には、「牛祭」という祭りがある。「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」と並ぶ京都三奇祭の1つで、毎年10月10日に広隆寺で執行される。牛に乗った摩咤羅神(またらしん)という白塗りの神様に、四天王と呼ばれる4人の鬼が、太秦の各町内の代表者を引き連れて、夜闇の中、木嶋坐天照御魂神社(このしまいますあまてるみたまじんじゃ)〔蚕の社(かいこのやしろ)〕まで練り歩く。広隆寺の境内に戻ってから、薬師堂の前のかがり火の中でダラダラと妙な御祭文を読み上げ、最後はこの不思議な集団が追われるようにお堂の中に逃げ込んで終わる。
牛祭の由来は、寺伝によると「1021年。恵心僧都71歳の時に夢にてお告げを受け、摩咤羅神を御祭神に厄除神事を行った」のが始まりとされる。一般的に広隆寺の祭りと認知されているが、実は寺の隣の大酒(おおさけ)神社の祭り。御祭神は秦氏である。大酒神社の酒という字は元々「辟」という漢字であり、かの景教博士・佐伯好郎氏が面白い解釈をしている。旧約聖書の登場人物・ダビデのことを漢字で「大辟」と書く事から、ここはダビデを祭った社だという。また、付近にある古代史ファンの名所である「いさら井」という井戸はイスラエルの井戸と言ってる。真偽はともかく、問題は摩咤羅神の正体である。
京都名勝史によると「慈覚大師が唐に行った帰りに歓請してきた外来の神」だという。今でも比叡山に祭られている。最初のヒントが外来の神様だという事。次の謎が牛。友人であるオカルト作家は、その牛を「バール神」と解いた。この神は「牡牛」で象徴され、遙か古代メソポタミアの伝説から発祥し、宗教となった。
私は、「ミトラ神」に着目したい。これはメシアの登場や復活・救済、そしてその大祭の日がクリスマスという点でキリスト教と似ている。これは古代イランで生まれ、インドにも伝播、やがて弥勒菩薩として仏教にも登場する。ミトラの救済の証は、屠られる牡牛の血で象徴される。都名所図絵を見ると、摩咤羅神は現在の様な白塗り面ではなく、天狗の面を被っている。天狗は外国人を表している気がする。現在の面は、日本画家・富岡鉄斎の作。彼は途絶えていた牛祭を復興させた人物である。
最後の謎が御祭文を読み上げるラストシーン、節分の追儺式と同じく、厄払いの儀式である。追儺は中国の「儺式」がルーツで、方相氏という主神が迫力ある呪文で悪魔を追い出すもので、黄金の4つ目の仮面を被っていたという追儺が日本に伝播した頃、呪文は陰陽師が唱えた。面白いのは、その御祭文の内容。詳細は割愛するが、前段では秦山府君なる道教・陰陽道の人間の処罰や生死を司る神が登場するし、後半には「鼻が落ちる死病」など奇妙な単語が並んでいる。これをダラダラと読み、鬼を追うように摩咤羅神は薬師堂に中へ走り込み祭りは終わる。
こうして牛祭を分析すると、バール神・ミトラ神・方相氏・秦山府君…と、実に沢山のオリエントの神々が同居し、救済・復活・悪魔払いという盛り沢山の内容を含んでいる。実に単調な祭りだが、何か引き込まれて飽きさせない理由は、ここにあるのかもしれない。牛祭については、京都チャンネル・京都魔界案内2「牛祭ドキュメント」でも伝えている。
【参考文献】
「古代秘教の本」 学研
「ミトラス教」 フェルマースレン/著 小川英雄/訳 平凡社
「秦氏の研究」 大和岩雄/著 大和書房
「日本の祭りと芸能」 諏訪春雄/著 吉川弘文社
「太秦を論ず」 佐伯好郎
「道教の本」 学研
漢民族は、ローマを中心とする勢力圏を大秦と呼んでいた。『後漢書』巻八十八『西域伝』に「その人民皆長大にして平正、中国に類するものあり。故に大秦という」とある。これがローマ帝国を指すのか、アンテオケ(安都城)を首都とするシリア地方を指すのかはまだ分かっていない。秦氏は、日本の天皇と拝謁したとき、大秦から来たと説明したが、大秦の存在を知る日本人は皆無であった。始皇帝が創った秦を連想するのが精一杯であった。大秦という言葉を聞いた天皇が「秦」(はた)氏を名乗れと命令したかのであろうが、秦氏が日本で秦の始皇帝の末裔として自らを宣伝したのは、どうせ日本人に説明しても分からないのだから、始皇帝の子孫ということにしておこうというのが真相であろう。シリア出身であることを説明しても大した意味をもたないのだったら、史上有名な皇帝の名を使う方が得策だと判断したのであろう。中国から移住してきた集団の多くは漢の王族の末裔だと名乗ったものである。
通常、秦氏は、朝鮮半島から織物技術を携えて太秦にやってきたというが、これは変である。そもそも、織(はた)から連想して秦を「はた」と読ませようとしたのだろうが、そもそも、秦という漢字には織物の意味はない。秦を「はた」と読ますのはこじつけである。いわんや、「太秦」を「うずまさ」と呼ばせるにはかなり無理がある。
秦氏は、「日本書紀」に記されているように天皇に絹織物を献上した。そのうづたかく積まれたかたちから「うづまさ(兎豆麻佐)」という姓を与えられ、そこから「うづまさ」という地名伝承が生まれたということになっているのだが、地名学者は違った見解を持っている。
吉田金彦・姫路獨協大学教授は『京都の地名を歩く』で、「うづまさ」の「うづ」は宜しい所を意味する「宜津」から、「まさ」は秦氏一族の中心的人物であった河勝の勝(かつ・まさる)からきているのではないかとされている。また語源的には秦氏の族長に対する尊称である「貴勝(ウツマサ)」からきているとの説も紹介されている(www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/chimei)。
司馬の小説では、赤穂の比奈の浦に到着した秦氏は、播磨平野の開発を成功させた後、本拠を山城に移した。その地に一族の主力となる「太秦」(うずまさ)を開いた。秦氏は、太秦の地にも大闢(ダビデ)の社を建てた。これが、大避の社、そして大酒神社となった。これは、太秦広隆寺の摂社である。
山城で絹織物で成功した秦氏を支援していたのが、聖徳太子である。当時、大和を事実上支配していたのは蘇我氏であった。蘇我氏との政治的折衝に必要な資金を秦氏が聖徳太子に贈っていたというのが、司馬のこの小説の想定である。
秦氏は、太秦の広隆寺を聖徳太子に寄進した。安置されているのは、周知のように弥勒菩薩である。弥勒菩薩は、仏教の世界では、釈迦入滅後5億7600万年(中国の伝承ではこれよりはるかに長く56億7000万年)を経て地上を救済するために使わされる菩薩である。この思想は比較的シリアの思想に近い。
仏説によれば、天は9つある。その1つが「兜率天」(とそつてん)である。この兜率天に座って、下界を見、釈迦入滅後の5億年を思索で過ごすのが弥勒菩薩である。兜率天の一日は人間界の400年に相当し、住人の平均年齢は4000歳である。秦氏にとって、弥勒菩薩がイエスであり、兜率天がキリスト教における天国として映ったのかも知れないと司馬は言う。
兜卒天は、欲界の天道のうち、下から5番目の天で、弥勒菩薩が将来登場する場所という意味で、弥勒浄土とも呼ばれている。この欲界の上には色界があり、欲界と色界で1世界を構成している。1世界が1000個集まって小千世界、小千世界が1000個で中千世界、中千世界が1000個で大千世界といい、この3つの千世界を総称して三千大世界という。
色界は、輪廻から脱して迷いや欲などは無い世界ではあるが、まだ物質から逃れることのできないでいる。この色界の上に無色界というものがある。ここは肉体や物質を超越した精神活動の世界であって、ここは「想いも想わざるも何もあらず」の世界である。無色界の一番上にあるのが有頂天(うちょうてん)である。
そして仏の世界は、欲界、色界、無色界といった三界のさらに上にある解脱した世界である。
弥勒菩薩はインドではマイトレーヤと呼ばれ、ゾロアスター教のミトラ神に対応している。ミトラ信仰自体は、ゾロアスター教よりも古く、契約の神・天空神・光明神で、又冥界の裁判官でもあった。
ゾロアスター教やキリスト教の最後の審判は、ミトラ教の影響で生まれたものと思われる。
日本では天空に近い山の上に弥勒浄土があるという信仰が中世の頃からあった。弘法大師は、亡くなる時、自分はこれから弥勒菩薩のいる所へ行って、5億7600万年後に弥勒菩薩とともにこの世に戻って来る、と言ったという話が伝わっている。
広隆寺の境内には、比奈の浦と同じように、イスラエルを想定させる「やすらい井戸」がある。また摂社の大酒神社の神は三体である。大和朝廷の氏神、天照大神、藤原氏の氏神、春日大神、そして、秦氏の氏神、大避大神である。
最後に、放送作家の丘真奈美さんのウエブ・サイトから引用させていただきたい。いささか重複するがご容赦。同士は無断引用を禁止されていないようなので、勝手に引用させていただく。
「京都を古代史的に考える立場から(全6回) 放送作家/超古代史ジャーナリスト丘 真奈美、第2回 京都超古代逍遥 太秦の謎② 牛祭 」
太秦には、「牛祭」という祭りがある。「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」と並ぶ京都三奇祭の1つで、毎年10月10日に広隆寺で執行される。牛に乗った摩咤羅神(またらしん)という白塗りの神様に、四天王と呼ばれる4人の鬼が、太秦の各町内の代表者を引き連れて、夜闇の中、木嶋坐天照御魂神社(このしまいますあまてるみたまじんじゃ)〔蚕の社(かいこのやしろ)〕まで練り歩く。広隆寺の境内に戻ってから、薬師堂の前のかがり火の中でダラダラと妙な御祭文を読み上げ、最後はこの不思議な集団が追われるようにお堂の中に逃げ込んで終わる。
牛祭の由来は、寺伝によると「1021年。恵心僧都71歳の時に夢にてお告げを受け、摩咤羅神を御祭神に厄除神事を行った」のが始まりとされる。一般的に広隆寺の祭りと認知されているが、実は寺の隣の大酒(おおさけ)神社の祭り。御祭神は秦氏である。大酒神社の酒という字は元々「辟」という漢字であり、かの景教博士・佐伯好郎氏が面白い解釈をしている。旧約聖書の登場人物・ダビデのことを漢字で「大辟」と書く事から、ここはダビデを祭った社だという。また、付近にある古代史ファンの名所である「いさら井」という井戸はイスラエルの井戸と言ってる。真偽はともかく、問題は摩咤羅神の正体である。
京都名勝史によると「慈覚大師が唐に行った帰りに歓請してきた外来の神」だという。今でも比叡山に祭られている。最初のヒントが外来の神様だという事。次の謎が牛。友人であるオカルト作家は、その牛を「バール神」と解いた。この神は「牡牛」で象徴され、遙か古代メソポタミアの伝説から発祥し、宗教となった。
私は、「ミトラ神」に着目したい。これはメシアの登場や復活・救済、そしてその大祭の日がクリスマスという点でキリスト教と似ている。これは古代イランで生まれ、インドにも伝播、やがて弥勒菩薩として仏教にも登場する。ミトラの救済の証は、屠られる牡牛の血で象徴される。都名所図絵を見ると、摩咤羅神は現在の様な白塗り面ではなく、天狗の面を被っている。天狗は外国人を表している気がする。現在の面は、日本画家・富岡鉄斎の作。彼は途絶えていた牛祭を復興させた人物である。
最後の謎が御祭文を読み上げるラストシーン、節分の追儺式と同じく、厄払いの儀式である。追儺は中国の「儺式」がルーツで、方相氏という主神が迫力ある呪文で悪魔を追い出すもので、黄金の4つ目の仮面を被っていたという追儺が日本に伝播した頃、呪文は陰陽師が唱えた。面白いのは、その御祭文の内容。詳細は割愛するが、前段では秦山府君なる道教・陰陽道の人間の処罰や生死を司る神が登場するし、後半には「鼻が落ちる死病」など奇妙な単語が並んでいる。これをダラダラと読み、鬼を追うように摩咤羅神は薬師堂に中へ走り込み祭りは終わる。
こうして牛祭を分析すると、バール神・ミトラ神・方相氏・秦山府君…と、実に沢山のオリエントの神々が同居し、救済・復活・悪魔払いという盛り沢山の内容を含んでいる。実に単調な祭りだが、何か引き込まれて飽きさせない理由は、ここにあるのかもしれない。牛祭については、京都チャンネル・京都魔界案内2「牛祭ドキュメント」でも伝えている。
【参考文献】
「古代秘教の本」 学研
「ミトラス教」 フェルマースレン/著 小川英雄/訳 平凡社
「秦氏の研究」 大和岩雄/著 大和書房
「日本の祭りと芸能」 諏訪春雄/著 吉川弘文社
「太秦を論ず」 佐伯好郎
「道教の本」 学研