本当に見たのか、それとも、幾たびか映像を見せられている内にそれが幼児体験として脳裏に定着したのか、今にして思えばよくわからない。しかし、私は、確かに見たと信じている。母方の祖父は、小さな運搬船をもち、若松と神戸の間を往復していた。あの日、桃を買いに、疎開先の広島の水尻から、瀬戸内海の島(名前を失念。母なき今、確かめようがない)に向かって船を出していた。私は朝のトイレをたすべく、船の艫につかまってしゃがんでいた。そして、あの閃光を見た。大声で船底の母を呼んだ。あのキノコ雲を親子で見ていた。帰宅したとき、村は大騒ぎであった。村は、幸い、爆心からかなり離れていた。それでも、被爆した人がいた。
「輝く太陽、青空を、再び戦火で乱すな。我らの友情は、原爆あるも断たれず」、京都府学連の歌であったか、学生時代、デモでこの歌を歌う度に、涙がわが頬をぬらしていた。 昭和20年8月6日午前8時15分17秒、米軍のB29の「エノラ・ゲイ(ENOLA GAY)」が原爆「リトル・ボーイ」を投下、高度580mで炸裂、30万人が瞬時に焼死した。
この原爆開発プロジェクト、「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の提案者は、アインシュタインであったと言われている。
1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードが、「核分裂」現象が発見されたこと、この現象を使うと、とてつもない破壊力が得られること、そして、ドイツがこの兵器の開発を進めているらしいこと、米国も、開発すべきだと主張する手紙を米大統領宛に出した。そして、1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン計画がスタートした。責任者は、「原爆の父」、ロバート・オッペンハイマーであった。
ニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者が集められた。同年12月、フェルミらが核分裂が連鎖反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造が始まった。そして、1945年7月16日、世界初の原子爆弾の実験が、ニューメキシコのアラゴモードで行われた。当時これに立ち会った兵士たちは、被爆してしまった。
この実験は、インプロージョン方式の原爆である。インプロージョン (implosion) とはexplosion(爆発)という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語であり、爆縮と訳される。インプロージョン方式とは、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンは、この方式である。プルトニウムは自発核分裂の確率が高いため、自発核分裂によって爆発が不完全に終わるのを防ぐためにこの方式が考案された。
爆薬の衝撃波を集中させる仕組みを特に爆縮レンズと呼ぶ。しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、数学者ジョン・フォン・ノイマンの10ヶ月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。
あまりにもすさまじい破壊力を見た科学者らは、連名でこの計画の中止をトルーマン大統領に訴えたが、トルーマンは拒否、彼らはさらに署名を集めたが、軍は無視した。
このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニアン島へ輸送された。このインディアナ・ボリスは、日本の潜水艦によって撃沈されたが、原爆は荷揚げ済みであった。
そして8月6日午前2時45分、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸、予定通り第一ターゲットは、広島であった。四国上空を通過したところで日本軍の戦闘機と遭遇したが、エノラ・ゲイは関わり合わず逃げた。なぜか、日本軍機は追跡しなかった。8時15分17秒原子爆弾が投下された。
それまで、広島市には空襲がなかった。いずれ投下される原爆の町並みの破壊の程度を確認するために、空襲をかけずに温存していたのである。米軍は、日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者と近隣の呉市の住民の健康診断を行った。
米軍は、この原爆投下の前に、カリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人の患者に、本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人体への影響を調査したと言われている。この18人は、すぐに死亡したり、足を切断するなど、深刻な放射能障害にかかったという。
マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も、身の危険を感じて、万一の時のために、最低限記録に残さなければならないことを、妻に手紙で託した。検閲を逃れるために、二重にした封筒の内封筒に文章を書いていた。
アインシュタインが懸念していたドイツの核開発には、日本も参加していた。日本でも数十人の科学者が研究をしていたが、1945年4月の東京大空襲で原料のウランが焼失してしまった。ドイツは、精製されたウランの一部を日本に搬送していたが、この搬送途中の船が連合軍に拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランが、広島原爆の材料の一部に使われたらしい。
対日投下の決定は、1944年9月19日のローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相との間で交わされたハイド・パーク協定による。1945年4月に大統領職を引き継いだトルーマンの下、目標検討委員会では、はじめから軍事目標への精密爆撃ではなく、人口の密集した都市地域が目標とされた。
そして、トルーマンは1945年6月1日に投下を決断した。7月17日からのポツダム会談に、トルーマンは、原爆実験の成功(7月16日)を踏まえて望んだ。日本からの終戦工作を受けていたスターリンは、8月15日の対日参戦をトルーマンに約束した。
7月24日、トルーマンは、8月10日までの原爆投下を繰り返すよう指示した。日本に無条件降伏を呼びかけるポツダム宣言は7月26日に出されるが、ポツダム宣言12条の書き換えにより、明確な天皇制の保証は姿を消し日本政府の受諾を遅らせた。日本が天皇制護持の条件付でポツダム宣言受諾を決定するのは原爆投下、ソ連参戦後である。
ただし、広島に投下されたリトルボーイは、長崎に投下されたファットマンと違って、実験されていない原爆であった。広島の原爆は、ガンバレル(gun barrel)方式と呼ばれるものであった。ウランを臨界量に達しない2つの半球に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させてもう一つと合体させ、球形にすることで超臨界に達するものである。
しかしリトルボーイでは、60kgものウランを使用しながら実際に核分裂反応を起こしたのは1~2%に過ぎず、大部分のウランはそのまま四散し、著しく効率が悪いものであった。
すでに、実験済みであったファットマンでなく、実験をしたこともないリトルボーイをなぜ、最初に使用したのかは不明である。真相は不明であるが、広島が核実験された場であることには変わりはない。
レバノンへのイスラエルの攻撃に涙しながら、61年目の思いでを記す。
「輝く太陽、青空を、再び戦火で乱すな。我らの友情は、原爆あるも断たれず」、京都府学連の歌であったか、学生時代、デモでこの歌を歌う度に、涙がわが頬をぬらしていた。 昭和20年8月6日午前8時15分17秒、米軍のB29の「エノラ・ゲイ(ENOLA GAY)」が原爆「リトル・ボーイ」を投下、高度580mで炸裂、30万人が瞬時に焼死した。
この原爆開発プロジェクト、「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の提案者は、アインシュタインであったと言われている。
1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードが、「核分裂」現象が発見されたこと、この現象を使うと、とてつもない破壊力が得られること、そして、ドイツがこの兵器の開発を進めているらしいこと、米国も、開発すべきだと主張する手紙を米大統領宛に出した。そして、1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン計画がスタートした。責任者は、「原爆の父」、ロバート・オッペンハイマーであった。
ニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者が集められた。同年12月、フェルミらが核分裂が連鎖反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造が始まった。そして、1945年7月16日、世界初の原子爆弾の実験が、ニューメキシコのアラゴモードで行われた。当時これに立ち会った兵士たちは、被爆してしまった。
この実験は、インプロージョン方式の原爆である。インプロージョン (implosion) とはexplosion(爆発)という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語であり、爆縮と訳される。インプロージョン方式とは、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンは、この方式である。プルトニウムは自発核分裂の確率が高いため、自発核分裂によって爆発が不完全に終わるのを防ぐためにこの方式が考案された。
爆薬の衝撃波を集中させる仕組みを特に爆縮レンズと呼ぶ。しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、数学者ジョン・フォン・ノイマンの10ヶ月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。
あまりにもすさまじい破壊力を見た科学者らは、連名でこの計画の中止をトルーマン大統領に訴えたが、トルーマンは拒否、彼らはさらに署名を集めたが、軍は無視した。
このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニアン島へ輸送された。このインディアナ・ボリスは、日本の潜水艦によって撃沈されたが、原爆は荷揚げ済みであった。
そして8月6日午前2時45分、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸、予定通り第一ターゲットは、広島であった。四国上空を通過したところで日本軍の戦闘機と遭遇したが、エノラ・ゲイは関わり合わず逃げた。なぜか、日本軍機は追跡しなかった。8時15分17秒原子爆弾が投下された。
それまで、広島市には空襲がなかった。いずれ投下される原爆の町並みの破壊の程度を確認するために、空襲をかけずに温存していたのである。米軍は、日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者と近隣の呉市の住民の健康診断を行った。
米軍は、この原爆投下の前に、カリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人の患者に、本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人体への影響を調査したと言われている。この18人は、すぐに死亡したり、足を切断するなど、深刻な放射能障害にかかったという。
マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も、身の危険を感じて、万一の時のために、最低限記録に残さなければならないことを、妻に手紙で託した。検閲を逃れるために、二重にした封筒の内封筒に文章を書いていた。
アインシュタインが懸念していたドイツの核開発には、日本も参加していた。日本でも数十人の科学者が研究をしていたが、1945年4月の東京大空襲で原料のウランが焼失してしまった。ドイツは、精製されたウランの一部を日本に搬送していたが、この搬送途中の船が連合軍に拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランが、広島原爆の材料の一部に使われたらしい。
対日投下の決定は、1944年9月19日のローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相との間で交わされたハイド・パーク協定による。1945年4月に大統領職を引き継いだトルーマンの下、目標検討委員会では、はじめから軍事目標への精密爆撃ではなく、人口の密集した都市地域が目標とされた。
そして、トルーマンは1945年6月1日に投下を決断した。7月17日からのポツダム会談に、トルーマンは、原爆実験の成功(7月16日)を踏まえて望んだ。日本からの終戦工作を受けていたスターリンは、8月15日の対日参戦をトルーマンに約束した。
7月24日、トルーマンは、8月10日までの原爆投下を繰り返すよう指示した。日本に無条件降伏を呼びかけるポツダム宣言は7月26日に出されるが、ポツダム宣言12条の書き換えにより、明確な天皇制の保証は姿を消し日本政府の受諾を遅らせた。日本が天皇制護持の条件付でポツダム宣言受諾を決定するのは原爆投下、ソ連参戦後である。
ただし、広島に投下されたリトルボーイは、長崎に投下されたファットマンと違って、実験されていない原爆であった。広島の原爆は、ガンバレル(gun barrel)方式と呼ばれるものであった。ウランを臨界量に達しない2つの半球に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させてもう一つと合体させ、球形にすることで超臨界に達するものである。
しかしリトルボーイでは、60kgものウランを使用しながら実際に核分裂反応を起こしたのは1~2%に過ぎず、大部分のウランはそのまま四散し、著しく効率が悪いものであった。
すでに、実験済みであったファットマンでなく、実験をしたこともないリトルボーイをなぜ、最初に使用したのかは不明である。真相は不明であるが、広島が核実験された場であることには変わりはない。
レバノンへのイスラエルの攻撃に涙しながら、61年目の思いでを記す。