消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ノーと言えない日本から、自立する日本へ――沖縄に思う 2

2006-08-13 16:48:32 | 世界と日本の今
前回の続きより

戦争は金もうけ

 象徴的な話をします。

 私は九・一一テロを陰謀ではないかと疑っています。なぜ、ペンタゴンに突入したボーイング機の残骸が、いまだに発見されていないのか。飛行機の残骸が見つかってないのに、なぜ乗っていた「テロリスト」のパスポートだけが、紙でてきているのに燃えもせずに出てくるのか。世界貿易センタービルが一瞬で解体したのは熱で溶けたからだというのに、なぜペンタゴンの建物は溶けなかったのか。陰謀だという確証はありませんが、疑うべき状況がたくさんあります。

 また、九・一一の直前に、父ブッシュカーライル社のアジア担当責任者として、ビンラディン一族を集めて投資をすすめていました。「カーライル社に先行投資すればもうかる」とでも言ってたのでしょう。ビンラディン一族は中近東の石油利権とゼネコンを握る大富豪で、アメリカ南部に住んでいました。カーライル社は、軍事産業に投資する金融会社です。軍事産業を統括する企業としてアメリカで最大級で、ブッシュの他にカールーチやワインバーガーなどの元国防長官が役員に名をつらねています。そしてテロが起こり、子ブッシュが犯人はオサマ・ビンラディンだと発表しました。当然、ビンラディン一族を拘束して取り調べるのが常識です。それなのに、チェイニー副大統領の命令で、ビンラディン一族をただちにリヤドへ逃がしました。これは一体どういうことなのか。

 もう一つ。関西にはすでに二つの空港があるのに、神戸空港ができました。採算がとれるはずもないのになぜできたのか。神戸空港のある神戸市は神戸医療産業都市で、世界最先端の再生医療が行われ、衛星中継で米スタンフォード大学とつながっている。この神戸医療産業都市をつくったのはアメリカのベクテル社です。ベクテル社は原子力発電、石油関係、防衛・宇宙、建設、医療産業などあらゆる分野を手がけている巨大企業で、CIA長官や国務長官を輩出し、ブッシュ大統領の一大スポンサーです。湾岸戦争後のクゥエート復興やコソボ紛争後の復興事業、イラク戦争で燃えた油田の消火を請け負った会社で、アラブでは「死の商人」と呼ばれています。将来、台湾海峡で問題が起こった場合、負傷した米兵を飛行機で運びこみ、治療することを想定しているのではないのか。神戸再生医療都市に、ベクテル社による軍事と医療の結びつきを感じてなりません。

 戦争は金もうけです。背後で莫大な金が動いています。アメリカのGDPは日本の三倍ですが、軍事費は日本の十二倍です。それほど莫大な金がペンタゴンに集まる。その金にありつこうと、ペンタゴンを中心に利益共同体ができあがっているわけです。一握りのエリートや企業の金もうけのために、圧倒的多数の人々が犠牲になっていいのでしょうか。

以下次号

本山美彦 福井日記 34 若狭の新羅神社

2006-08-13 10:05:41 | 神(福井日記)
 若狭(ワカサ)の名前の由来は、朝鮮語のワカソ(往き来)であると言われている。若狭には、新羅・加耶系氏族に連なる伝承が多く、神社の祭祀氏族としては、秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。先に、秦氏を大秦というシリアから来た一族だとの説を紹介したが、新羅説の法が圧倒的に多い。新羅説を採れば、海のパタの連想が生きてくる。



 若狭では、明確に「新羅」と名を打つ神社は存在しない。それらしき臭いを残して別表記されている。敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。これらに加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったと言われている。

 日本の大和王朝は3期あった。初代から応神天皇以前までを第一王朝、応神から武烈天皇までを第二王朝、継体天皇から現代までを第三王朝と呼んでいる。三王朝のうち、第二、第三が若狭・越前との関係が深い。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったことの反映であろう。ただし、第一王朝は神話に属するので、実在を確かめることができるのは、第二王朝以降である。

 継体の時代は、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖の西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

 日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされた。  「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)。

 先に触れた「気比(けひ)神宮」は、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。延喜式の式内社で、祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。『福井県神社誌によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。

 気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったとされる。阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であった。都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味している更に、額に角をもつ人は武人を形象化したものであるという説もある。北海道余市町のhttp://www.tamabi.ac.jp/gurafu/akiyama/TOP_NEWS4.htmlには角の生えたヒトの絵が残っている。

 新羅は、中世に入り、白城と表記され、さらに、白木となった。これは、新羅が西方の国で、五行思想では西方が白色であることによる(水野祐『日本神話を見直す』)。

 山中襄太『地名語源辞典には「白木」は「新羅来(しらき)」の意らしい、としている。橋本昭三『白木の星』によれば、南北朝の時代、敦賀の金ケ崎に城があった頃の「白木」の地名は、当時の文書の中では「白鬼」となっていると言う。

 今庄町にも「白鬼」という地名がいくつかあった。これは、この地域一帯に共通の文化があったことを示すものである。

 白木明神を祭る「白城神社」(祭神鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)尊)は沓見にある「信露貴彦神社」などと共に新羅系の旧社と言われている(『福井県の歴史散歩』山川出版社、『敦賀市史』)。『敦賀郡神社誌』『遠敷郡誌』及び『今庄町誌』等によれば、当社は敦賀郡の式内社「白城神社」であり、俗に「白木明神」「鵜羽大明神」と尊称されている。

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれている。『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊、は神武天皇の父とされており、稲飯命は神武天皇の兄に当る。神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

 白城神社の神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社がある。  

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。現今の新嘗祭に相当する。また、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

 祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。 「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)。

 『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

 「信露貴神社」の祭神は、が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、孫が稲飯命である。

 敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。「菅浜(すがはま)神社」は、元々は「須可麻神社」であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。「スカ」とは古代朝鮮語で「村」を意味すると言う。この神社の祭神は、正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
 
『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命(神功皇后)であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である。息長氏は、先述のように、湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力をもっていたと言われている。

 今庄町の名前の変遷は面白い。この地は、元、新羅と言っていた。これが、白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わった。

 東小浜駅の少し東側を遠敷川がほぼ南北に流れている。川は滋賀県境にある百里ケ岳から発して小浜湾に注いでいる。川の中流の下根来という村に「白石神社」がある。
 
遠敷郵便局の近くに、「若狭媛神社」がある。この神社の近くに、遠敷川の清流が巨岩に囲まれて淵をなすところに「鵜の瀬」という場所があり、「鵜の瀬大神」が祭られている。この巨岩の上に「若狭彦の神」(「彦火火出見尊」(ひこほほでみ))と「若狭姫の神」(「一の宮夫婦神」)が降臨されたと言われている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来である。「彦火火出見尊」は「彦火火明命」(ひこあめのほあかり)であり、「山幸彦」である。「素盞鳴尊」の子神で、大和の最初の大王といわれている「饒速日(じぎはやひ)尊」である。この鵜の瀬が、東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の「遠敷神社」の「遠敷明神」は、「若狭姫神社」の祭神・「若狭姫神」(「豊玉姫命」)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。二月堂の「若狭井」ことはすでに説明した。

「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦10年(791)9月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。

本稿は、出羽弘明「新羅神社考―「新羅神社」への旅」(福井1~5)の研究に大きく依拠している。