消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

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ギリシャ哲学 19 ネストリウス派キリスト教(景教)

2006-08-10 12:54:38 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 フランシスコ・ザビエルの日本上陸400年を祈念した行事が日本各地で行われていたとき、産経新聞京都支局宗教担当の記者であった司馬遼太郎は、京都太秦(うずまさ)の秦氏(はたうじ)が、ネストリウス派の末裔であったというA.G.Gordonの説を基に太秦の遺跡を調査した記事を書いた。すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡をを残していること自体が奇跡だ」という彼の記事は内外に大きな反響を与えた。これが、無名時代の彼の兜率天(とそつてん)の巡礼』の原型になった。これは、寺内大吉と司馬遼太郎によって創刊された同人誌『近代説話』の第2号(昭和32年(1957年)12月)に発表された。

 ネストリウス派キリスト教は、5世紀のコンスタンチノープルで、イエスの母を「神の母」と呼ぶことを反対したことによって、追放されたネストリウスが起こしたキリスト教分派である。この派の一団は、コンスタンチノープルを捨て、東方のペルシャに勢力を得、さらに、東方に向かって西域や中国に入った。中国では景教と呼ばれた。中国に入らずに日本に到着したネストリウス派もいたというのが、ゴードンの説である。

 この説を踏襲した司馬は、『兜率天の巡礼』で空想歴史小説を書いた。ペルシャ(中国では安息と表記されることもあった)からインドに入り、インド東海岸から海路、日本の赤穂、比奈の浦についた秦氏が、景教徒であったという。彼らは、この地にダビデの礼拝堂を建てた。これを大闢(だびで)と言った。中国語では、ダビデは大闢と表記される。これが、比奈の浦の大避神社である。さらに境内に井戸がある。「いすらい井戸」という。イスラエルを想起させる名称である。さらに、一族は京都の太秦に居を移し、京都を開発するという奇想天外なストーリーを司馬は展開した。

 司馬を無名時代から高く評価していた海音寺潮五郎も、司馬の『兜率天の巡礼』よりも前に、ゴードン説に刺激されて、長編歴史小説『蒙古来る』(文春文庫)を昭和28年から29年にかけて新聞の連載小説で書いている。

 文永・弘安の両役前後の日本とユーラシア大陸を扱った『蒙古来る』は、蒙古軍によって、故国を追われたペルシャの美姫、景教徒のセシロヤが、海路、アラビア、中国沿岸を経て、日本に辿り着く物語である。

 日本では、セシリヤは傀儡子(くぐつ)の一団に身を隠す。傀儡子というのは、幻術、奇術を生業とする漂泊民である。そこで、セシリヤはペルシャの音曲やペルシャの幻術を披露したのである。

 海音寺の小説では、ゾロアスター教の秘儀も紹介されている。ゾロアスターの僧たちは、陶酔的な音曲を奏で、大麻を駆使して幻術、曲芸を披露する。こうした技が日本に伝来し、傀儡子、山伏、忍者に受け継がれた。こうしたことが、小説では語られ、当時の日本人にペルシャ・ブームを起こさせたのである。

 西暦431年8月4日、キリスト教史に残る最初の大宗教会議が東ローマ帝国のコンスタンチノープルで開かれた。この会議においてネストリウスの追放が決議されたのである。彼の意見はもとより、彼の説明を記した書物のすべては焼却された。

 ネストリウスは、当時、アンテオケ教会閥と言われていた派閥に属していた。この派閥は、マリアを神の母とすることに異を唱えていた。この派閥に対抗していたのが、アレキサンドリア教会閥である。マリア信仰は、女神信仰というギリシャの土俗信仰と結びついたものである。ギリシャに活動拠点を置くアレキサンドリア教会閥が、マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであった。

 キリルという僧正がアレキサンドリア閥の代表者であり、アンテオケ教会閥の代表がネストリウスであった。ネストリウスは、西シリアの貧しい農家出身であった。テオドル監督の引きでコンスタンチノープルの教父にまでなった。性格の穏和な人であったとされている。

 キリルは、それと正反対の激しい性格の人であった。原始キリスト教会の敵の一つはギリシャ哲学であった。当時、新プラトン学派のハクペシアという名の美貌の女哲学者がいた。非常に評判の高い人で、多くのアレキサンドリア市民の心を捉えていた。キリルは彼女を拉致して、教会内で貝殻で削り殺し、死体を寸断した上で、キナロンの地で焼いた。こうした残酷な男が、死後、聖者の称を与えられた。

 そのキリルがネストリウスを葬り去ろうとした。百人の美女をコンスタンチノープルに送り込み、ネストリウスの悪口を言って回らせた。コンスタンチノープルの宮廷の女官たちを買収して、ネストリウスを教父にいただく限り、皇帝、皇妃、高官たちが天国の門に入ることはできないであろうと、街角で演説させた。

 8月4日の大会議では、ネストリウスを支持するアンテオケ教会閥の議員団が会場に到着しないうちに、会議を成立させ、会場の議員の背後には武装した無頼漢を立たせ、「新しいユダを追え、しからずんば、後ろを見よ」と、キリル僧正は言った。後ろには無頼漢が短剣をちらつかせていた。

 ネストリウスは、正式の討論ではなく、キリルの卑劣な陰謀によって追放された。ネストリウスは、カトリック教会から永遠の追放処分を受けたのである。ネストリウスは、生まれ故郷の西シリアに監禁され、彼を慕う者たちは、東ローマの支配権を逃れ、東方に逃亡した。景教徒と呼ばれる流浪者たちがこのときに生まれた。

 彼らが去った100年後、ジャスチニアン帝治下で編纂された『ローマ法全典コーデッキス』第1巻第1章第1節には、彼らが極悪人であると規定されている。彼らの子孫は、故郷に帰還すればただちに死罪に付するとされていた。

 彼らが流浪して唐の首都、長安に辿り着くのは7世紀の中頃であった。当時の長安は毎年4000人を超える外国の使節がやってくる国際都市であった。

 当時の皇帝、太宗の好意で長安での滞在を許された景教徒たちは、西域との交易に従事しつつ、滞在が許可されてから3年後(貞観12年)、長安の西に大秦寺を建立することができた。金の官吏、楊雲翼は、廃墟になってしまった大秦寺を偲んだ詩を残している。それによれば、同寺は、緑碧の瓦屋根、天を突く白亜の塔をもっていたとされる。

 武宗の治下、会昌4年、武宗は、大秦寺を破壊し、寺の僧俗が国外追放された。武宗は仏教を徹底的に弾圧したのである。彼の廃仏毀釈令は過酷なものであった。壊された寺院の数は4万6000、追放された僧は20万人を超えた。この会昌4年をもって、景教徒たちは歴史の文献から完全に姿を消した。ヨーロッパ人たちは、カトリック教会の峻厳なネストリウス派抹殺政策のお陰で、景教徒の存在すら知らなかった。

 それから約1000年が経った明の天啓5年(1625年)、昔の長安、つまり、西安において、「大秦景教流行碑」なる黒色半粒状の石灰岩の碑が発見された。発掘したのは、西安の農夫であり、それをヨーロッパに知らせたのは、アルバレー・スメドレーというカトリックの宣教師であった。



 碑の大きさは、高さ9フィート、幅3フィート6インチ、暑さ10.8インチ、重さは2トンもある巨大なものであった。碑頭には、2匹の蛟竜の彫刻が施され、蛟竜は、十字架の紋章を抱いている。碑文は漢文とシリア文字で刻まれている。景教が大唐の皇帝の庇護を受けていかに興隆したかが書かれている。おそらくは、大秦寺の門前に立っていたものであろうとされている。

 この碑が本物であるかどうかは、長年の疑問であった。なによりも、ヨーロッパ人たちは、上述のように、景教の存在自体を知らなかった。さらに、中国の擬史癖という悪習によって、この碑もそうした偽物の類であろうとして詳しい調査は行われなかった。

 そうした風潮に一撃を与えたのが、高楠順次郎氏である。時代も随分下って1894年のことである。同氏は、『通報』というフランスの東洋史専門誌に「大秦寺の僧景浄に関する研究」を発表し、全世界の東洋学会から注目された。同氏の論文によって、この碑が景教の大秦寺のものであることが確認されたのである。

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