消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(86) 新しい金融秩序への期待(86) 平成恐慌の序幕(8)

2009-02-17 17:19:18 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
 
  (7) 財務相・中央銀行総裁会議であるG7(Conference of Ministers and Governors of Seven)は、元々、各国の首脳会議(サミット、summit)の別働隊で、財務長官と中央銀行総裁が年三回、非公式に集まって経済問題を協議する機関であった。一九七三年のオイル・ショックとそれに続く世界不況にその端を持つ。これらの混乱を解決しようと、米国でに非公式に、米、日、フランス、西ドイツ、英の五か国の財務を預かる政府高官が集まり、経済的課題を討議する会議が開かれるようになった(G5)。

 首脳会議についていえば、一九七五年が第一回である。フランス大統領、ジスカール・デスタン(Giscard d'Estaing)が、上記五か国にイタリアを加えた六か国の国家首脳をフランスのランブイエ(Rambouillet Summit)に招待し、初めての首脳会議を開催した。この六か国で、今後も主催国を交代しつつ年一回会議を持つことに合意した。ただし、イタリアはオブザーバーの立場であった。それでも、このときの体制はG6と呼ばれている。翌、一九七六年のプエルトリコ・サミット(Puerto Rico Summit)で、米大統領、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)の要請によりカナダが、オブザーバーとして参加した。翌、一九七七年のロンドン・サミット(London Summit)からは、EC(欧州共同体、European Community)の委員長が参加するようになった。そして、一九八六年に、カナダとイタリアが正式に参加することになり、G7となった。

 冷戦終結後の一九九一年には、サミット本会合の後、ソビエト連邦(現ロシア)が枠外で会合に参加し始め、一九九四年のナポリ・サミット(Napoli Summit)からは、ロシアが首脳会合のうち政治討論に参加するようになった。以降、P8(Political 8) または、G7+1と呼ばれるようになった。一九九八年のバーミンガム・サミット(Birmingham Summit)からG8と呼ばれるようになった。そして、二〇〇三年のエビアン・サミット(Evian Summit)以降、ロシアは世界経済に関するセッションを含め、完全にすべての日程に参加するようになった(Wikipediaより)。

 別働隊の財務相・中央銀行総裁会議についていえば、これは上記先進七か国の財務相・中央銀行総裁が一堂に会して国際的な経済・金融問題について話し合う会議のことである。会議には、G7、G10、G20がある。G7は、日、米、英、イタリア、カナダ、ドイツ、フランス。G10は、G7に、オランダ、ベルギー、スウェーデン、スイスを加えた一一か国で構成。G20は、G8(G7とロシア)と、主要国以外で経済規模が大きい一一か国(アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、メキシコ、サウジアラビア、南アフリカ、韓国、トルコ)と、ヨーロッパ連合(EU)議長国の二〇か国に加え、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、ヨーロッパ中央銀行(ECB)の三機関の代表が参加。単に「財務大臣・中央銀行総裁会議」といわれる場合は、G7のことを指す場合が多い(wikipediaより)。

 これら各種の財務相・中央銀行総裁会議の実績を簡単に記しておく。

 G10は、国際通貨制度および世界経済の諸問題の長期的課題について意見交換をおこなう会合で、年一回開催される。一九六二年に締結された「一般借入取極め」(GAB)に参加する先進一〇か国がその起源である。そのときには、スイスは参加しておらず、文字通り一〇か国であった。GABとは、参加国がIMFから引き出しをおこなう場合に、IMFの資金が不足することに備えて、ほかの参加国が自国の約束額の範囲内でIMFに対して貸し付けることをあらかじめ約束したものである。なお、スイスは一九六四年から準参加国に、八四年から正式に参加することになった。

 このG10は国際金融協力の協議の場となっている。ブレトン・ウッズ協定後の体制下で世界経済の拡大に応じた国際通貨量の供給を図るべく、準備資産創出のための公式の検討をおこなった。その結果、一九六九年のIMF協定第一次改正により、翌年にSDR(特別引出権)が創出されることになった。

 一九七一年八月、米国のニクソン大統領が金とドルの交換停止を発表し、これを機に国際通貨危機がおこった。そのため、G10は変動為替相場から固定為替相場への復帰を模索、七一年一二月にワシントンで開催されたG10において、米ドルの対金切り下げと各国間の通貨調整、上下各一%から各二・二五%への為替変動幅の拡大などが合意された(スミソニアン合意)。しかし、この合意は実効できず、七三年には多くの国が変動制に移行し、固定相場制は崩壊した。

 一九八〇年代前半、米国の経常収支が大幅に悪化し、一九八五年には純債務国に転落した。一九八五年六月、G10は変動相場制の問題点を指摘したうえで、その改善のためには経済政策および為替市場における主要国間の緊密かつ継続的な努力が必要である旨の報告書を作成した。

 こうした中で、同年九月、日、米、ドイツ、英、フランスの五か国の財務相・中央銀
行総裁会議(G5)が、ニューヨークのプラザ・ホテルで開かれ、ドル高是正のために各国が協調的政策運営をおこなうことが合意された。この合意をプラザ合意(Plaza Accord)という。

 ついで、一九八六年五月に開かれた東京サミット(主要国首脳会議)で、政策協調推進の重要性が確認されるとともに、サミット参加国の財務相と中央銀行総裁からなるG7の設置、および政策協調の手段を強化するためにサーベイランス(surveillance)の導入が合意された。サーベイランスとは、実質GNP成長率やマネーサプライ増加率などのいくつもの経済指標を用いて、G7各国が相互に各国経済を監視する手続きをいう。各国は政策についての最終決定は自国がおこなうという原則を守りつつも、サーベイランスの結果を考慮して、政策協調を図ることになっている。この手法は、一九八七年二月のG7

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