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福山藩主・阿部正弘が天保の改革に失敗した水野忠邦に代わって老中になったのが天保14(1843)年、その後、水野配下の老中たちが次々に辞職したために、2年後、阿部は老中首座になる。
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ペリーが来航したのは、阿部在任中であた。それまでに、オランダ国王による開国勧告、英仏船の琉球来航、米ビッドル艦隊の浦賀来航があった。
オランダがなぜ日本に開国を促したかということに私は昔から不審に思っていた。
対日貿易独占の利益は、オランダにとってとてつもなく大きなものであったはずなのに、もし、日本が開国してしまえば、オランダは独占権を失い、膨大な貿易利益も失うのだから、オランダとしては、日本が開国してくれないほうがいいにきまっている。なのに、開国を促してきた。天保15(1844)年のことであある。
長崎に来航したオランダ国王の使者が、開国を促す国書をもって立山の長崎奉行所に向かう絵図(御役所及施設応接絵図)が財団法人鍋島報效会(佐賀県立博物館寄託)によって所有されている。
幕府は、阿部正弘以下、老中の連盟によって勧告拒否の返書を送ったが、オランダは、この答えを期待していた。つまり、これは、幕府がオランダ貿易独占を保障したことを意味するとオランダ側は受け取ったのである。このように解釈するのが、広島県立歴史博物館「阿部正弘と日米和親条約」展図録(http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/contents/0001.htm)である。
阿部正弘の子孫が保存している『阿蘭陀別段風説書』(嘉永5(1852)年写本、司天台訳、神奈川県立歴史博物館寄託)という写本がある。
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これは、新しくオランダ商館長として赴任した、ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donkre Curtius)が、幕府に提出した別段風説書であり、ペリーが来航すると伝えたものである。
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阿蘭陀風説書(オランダ・ふうせつがき)というのは、毎年、長崎に入港するオランダ船が幕府に提出する海外事情報告書のことである。
年々、内容が簡略され、提出も遅れ気味であったのだが、アヘン戦争をきっかけに幕府が詳細な報告を求めた。つまり、「別段」に詳しい内容を要求したのである。そこで、風説書は、天保13(1842)年から別段風説書が出されるようになった。
嘉永5年の別段風説書は、1851年の世界情勢を記した後、米国が日本に通商を求めるべく中国で活躍中の軍艦とペリー率いる本国からの艦隊が合流して日本に派遣されることになったと報じた。
司天台訳というのは、長崎で翻訳(崎陽訳)された風説書に添えられたオランダ語原文を江戸の浅草にあった天文台(司天台といった)で幕府の天文方が翻訳したものである。ただし、司天台訳は、この1冊しか残存していない。
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通常、風説書は、長崎のオランダ通詞が訳詞、これを崎陽訳といっていた。
じつは、シーボルトが結構きな臭い動きをしている。日本とオランダとの通商条約の草案を起草していたのである。シーボルトは、むしろ、非オランダ的動きをしていた。当然といえば当然であるが。
これは、『咬
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この書は、日蘭通商条約草案、バタビア総督の書簡、クルティウスの書簡の翻訳を1冊にまとめたものである。嘉永5(1852)念写本、神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)。
天保15(1844)年以来、英仏両国は、琉球に軍艦を寄港させた。これに対して、幕府は琉球が日本ではないという立場を取り、フランスとの貿易は黙認しようかという考えであったらしい。
弘化3(1846)年、阿部正弘は薩摩藩主の世子・島津斉彬(なりあきら)を問題処理のために、帰藩させた。
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阿部は、自分が気に入っている斉彬を藩政に参加させ、阿倍の外交方針に従わせようとしていたのである。これに対して、藩主の斉興(なりおき)は、阿部が斉彬を通して藩政に介入されるとの恐れを抱き、翌春には、自らも帰藩を願った。こうして琉球の開国は結果的に阻止された(同上ウェブサイト)。
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ビッドルは、終始友好的な姿勢で幕府に臨んだ。弘化3(1846)年閏5月27日、ビッドル(James Biddle, 1783-1848)率いる米東インド艦隊帆走軍艦2隻(コロンバスとビンセンス)が浦賀に来航、通商の意志が幕府にないことを知ると直ちに引き下がろうとしたのだが、あいにく凪ぎで帆船は動けず、諸藩の御用船に曳航される有様であった。これを屈辱とみたペリーは、居丈高に交渉に臨んだのである。曳航されるこの模様を描いた図絵が、横浜市自然・人文博物館に保存されている(同上サイト)。
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阿部はいったん廃止されていた異国船打ち払い令を復活し、大船建造の解禁を試みるが、幕府内の反対意見で実行できなかった。
嘉永5(1852)年、オランダから米艦隊の日本来航の情報を阿部は得たが、幕府内で対策を立案することもできなかった。翌、嘉永6年3月M.C.ペリー率いる米海軍東インド艦隊が江戸湾に乗り付けた。ペリーは威嚇して開国を求める米大統領の国書を手渡した。開国の返事を1年後にもらいに来るといって、いったん立ち去る。
同年、7月18日にはロシアのE.V.プチャーチンが長崎に来航して開国を求めた。
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ペリーを日本に派遣した米国大統領のフィルモアの国書とペリー書簡の和訳は、『亜墨利加大合聚楽国国王書簡和解』は全国で見られる。
阿部正弘が写しを全国の大名に配布して、広く意見を求めたからである。福井藩主の松永慶永と佐賀藩主の鍋島直正は、国書の拒絶、直ちに開戦論を唱えた。
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薩摩藩主の島津斉彬は、回答を延期・武力充実、その後に開戦を主張した。これは、『諸家上書写』(しょけじょうしょうつし、嘉永6(1853)念、神奈川県立歴史博物館所蔵)に見られる。
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約束通り、嘉永7(1854)年1月16日、再度、ペリー艦隊が江戸湾に現れた。交渉は、2月8日から始まり、横浜応接所と米艦上とを使って進められた。その間、互いに接待を繰り返した。そして、同年、3月3日に日米和親条約が締結された。ペリーはこれで日本を開国させたと受け取り、幕府は、ひとまず、通商関係を避けることができたとそれぞれ別の解釈をしていた。