消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(175) 道州制(17) 橋下大阪府政と関西州(17)

2009-06-11 05:02:19 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
八 財界主導の道州制

 
 日本の近代的な地方制度は、一八八九年の帝国憲法と並んで準備が進められ、一八八八年に市制・町村制、一八九〇年に府県制・郡制が布かれた。しかし、戦前の地方制度は、府県は国の下部組織、府県知事は国が任命する天皇の官吏というように、基本的に天皇制の下に国民を支配する中央集権システムであった(1)。

 戦後、日本の地方制度は大きく変化した。一九四七年五月三日、日本国憲法と同時に地方自治法が施行され、知事、市町村長は、住民の直接選挙で選ばれることになった。建前的には、国と地方自治体とは対等であるというのがこの新制度であった。強大な権限を付与されていた戦前の内務省は解体され、新しい警察法の制定によって自治体警察が置かれ、市町村公安委員会が管理権を持つことになった。教育制度も公選の教育委員会が設置された。

 しかし、一九四八には早くも地方自治法に「法律またはこれに基づく政令に特別の定めがあるときはこの限りではない」との但し書きが挿入された。以後、政府・中央省庁は次々と法令を制定し、この但し書きによって機関委任事務を拡大し、指揮監督権を握って自治体を事実上の下部機関にしていった。さらに国庫補助金を拡大して、資金面からも自治体に対する支配力を強めていった。

 一九五四年までに自治体警察は完全に廃止され、教育委員会の公選制も一九五六年に廃止された。こうして、中央集権システムが再構築されていった。

 一九五五年の保守合同で誕生した自民党は、補助金行政を通じて、地方の農民、商店主、中小企業家などに政治的影響力を強めていった。

 地方自治体は、政府が配分権を握っている国庫補助金を獲得するために、予算編成時には大挙して上京し、各省庁に陳情しなければならない。地元選出の自民党議員への陳情を欠かせない。官僚も政権党の議員の要請に配慮する。こうして「うちの先生のおかげで補助金がついた」となり、補助事業で利益に与る企業や団体は、選挙で「うちの先生」を当選させるために奔走する。

 こうして、自民党、財界、官僚は、互いに癒着を深めながら、地方政治を支配して全国を統治する体制を作りあげてきた。地方自治の実態は、地域の少数の支配層たちが「地方自治」を牛耳り、地域の利益と称して特定の階層の利益を図ってきたものである。

 しかし、産業構造の変化、都市化の進行とともに住民の政治意識も変化し、農村を重要な基盤の一つとしていた自民党は後退した。政府も自治体も住民意識の変化や住民運動に対処を迫られた。自治体の中には、中央政府の意向に従わず、法律の範囲を超える「上乗せ、横出し」の、条例や指導要綱を定めるところも出てきた。公害防止、老人医療の無料化、情報公開などでは、自治体がまず条例を制定し、それが全国に広がって、政府も後追いで制度化せざるを得なくなった。国民の中に地方自治は当然の権利だとする認識が広く形成された。新潟県巻町(まきまち)(2)、岐阜県御嵩町(みたけちょう)(3)の住民投票など、「地方自治を住民の手に」取り戻す闘いとして、さまざまな形で現れている。

 こうした住民運動に危機感を抱いた、自民党の中曽根康弘(首相在位:八二年一一月~八七年一一月)は「ウイングを左へのばす」と農村型政党から都市型政党への転換を主張していた。金丸信は「自民党も社会党も二つに割ってガラガラポン」の政界再編を主張した。だが、自民党自身が個々の議員の政治生命に影響する政治改革を成し遂げるのは容易でない。行財政改革も権益を侵される中央官僚が抵抗する。

 そこで、財界が、民間大労組、マスコミ、与野党議員を巻き込んで、九一年一二月に「政治改革推進協議会」(民間政治臨調)の準備会を発足させ、政治改革に乗り出した。会長は国鉄の分割・民営化を推進した住友電工会長で日経連副会長の亀井正夫であった。また、元・日経連会長の鈴木永二を会長とする第三次行革審も一九九〇年一〇月に発足していた。

 亀井は「政治家に政治改革をやれというのは、泥棒に刑法を改正しろと言うのに等しい」、「政治改革が進まないと行政改革も進まない。行政改革のほうは鈴木永二さんが行政改革推進審議会(第三次行革審)で頑張っておられる。私は政治改革、鈴木さんは行政改革ということで二人三脚でいこうということになっている」(『週刊東洋経済』一九九二年一一月二八日号)と述べている。

 しかし、自民党の一党支配は終わった。九三年八月、細川護煕・連立内閣(,新生党・日本新党・新党さきがけ・社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の七党一会派)、九四年七月に村山富市・連立内閣(自民党・社会党・さきがけ日本新党の二党一会派)が誕生した。このときに、中選挙区制の廃止、コメ市場の開放、規制緩和などが進められたのは皮肉である。 

 第三次行革審は、行革と地方分権が一体のものであり、国際化に対応する国家体制作りのために地方分権の推進が必要であるとして、九一年七月の第一次答申を皮切りに、「国際化対応・国民生活重視の行政改革に関する答申」を次々とおこなった。これを受けて、衆参両院は九三年六月、「地方分権の推進に関する決議」を採択した。第三次行革審は九三年一〇月の最終答申で、地方分権に関する立法化の推進を求めた。

 九四年五月、細川連立内閣は行政改革推進本部を設置し、その中に地方分権部会を置いた。村山連立内閣は同年一二月に「地方分権の推進に関する大綱方針」を閣議決定し、九五年五月に「地方分権推進法」を公布した。

 「地方分権推進法」によって、九五年七月に諸井虔・日経連副会長を委員長とする「地方分権推進委員会」が発足した。地方分権推進委員会は中央集権型システムから地方分権型システ

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