消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(177) 道州制(19) 橋下大阪府政と関西州(19)

2009-06-12 06:46:27 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)


 一〇 防災に無防備な日本の大都市



 「ミュンヘン再保険会社」(Munich Reinsurance Company)という災害保険を扱っている会社がある。この会社グループ(Munich Re-Group)は、世界の地震被害の大きさ予想ランキングを発表している。二〇〇三年の年報(Annual Report)では、世界でもっとも危険な地域は東京地域、その次がサンフランシスコ湾地区、第三位が大阪湾地区であった。そして、東京地域は際だって危険であるとされた(http://www.munich-re.com/en/ir/agm/archive/2004/documents.aspx)(6)。

 海溝型巨大地震の可能性が大きく、活断層が数多くあるという「危険因子」、さらに湾岸地帯の二、三キロメートルもある分厚い軟弱堆積層の存在といった「増幅要因、住宅密集、老朽化したライフライン、超高層ビルの乱立等々、「地震に対する人為的な脆弱性」といった複合的な要因が集中しているので、東京、大阪が危険であると指摘されたのである。これを『災害社会』の著者、川崎一朗教授は、「海溝型地震の危険因子が社会の脆弱性に出会う場所」と表現した(川崎[2009]、第二章のタイトル)。

 静岡県沿岸五〇キロメートル沖、紀伊半島・四国沿岸一〇〇キロメートル沖を南西南に走る、深さ二キロメートルほどの南海トラフ(深海峡谷)に向かって、年間三~五センチメートルの速度でフィリピン海プレートが沈み込んでいる。この沈み込みによって、南海トラフの日本寄りの上盤が北西方向に引きずり込まれている。それが限界に達するとき、上盤が南東に向かって一気に跳ね上がる。これが海溝型巨大地震を引き起こす。東海地震や南海地震が予想されているのはこの理由である。

 一七〇七年一〇月二八日(宝永四年一〇月四日)、日本史上最大の地震が起こった。駿河湾沖から四国沖までの五〇〇キロメートルものプレート境界線が一気に裂け、マグニチュード八・六、最大一〇メートルの大津波が太平洋岸を襲った。宝永地震と呼ばれている。

 一八五四年一二月二三日(安政元年一一月四日)には、同じ地域にマグニチュード八・四の安政東海南海地震、三〇時間後の一二月二四日に同規模の安政南海地震が起こった。

 一九四四年一二月七日、遠州灘から熊野灘にかけてマグニチュード七・九の昭和東海地震が発生した。濃尾平野の飛行機製造工場が大打撃を受け、敗戦を早めた言われている大災害であった。五メートルを超す津波によって約一二〇〇人の死者が出た。

 そして二年後の一九四六年一二月二一日、潮岬沖から四国沖にかけてマグニチュード八・〇の昭和南海地震が起こった。

 今後、三〇年以内に同規模の東海地震が起きる確率は六〇~七〇%、南海地震は五〇%であると計算されている(川崎[2009]、二四~二七ページ)。発生確率を実感するには、一人の人間が今後三〇年以内に交通事故で死ぬ確率が〇・〇二%、自分の家が火事になる確率が二%。ガンで死ぬ確率が七%であるという数値と比較すればよい。五〇%超というのはとてつもなく大きい確率なのである(同書、四八ページ)。

 一九九五年一月一七日の阪神淡路大震災のときには、数日も待てば救援がきた。しかし、津後の東海・南海地震は、西日本全体が被災地となって、何週間も救援が到着しないという事態が考えられる(同書、三二ページ)。

 南海地震が恐ろしいのは、長周期震動である。

 時計の振り子は、長さ二五センチメートルで往復に一秒かかる。これを物体の「固有周期」という。この振り子に〇・五秒間隔や二秒間隔で力を加えて大きく揺らそうとしてもほとんど大きく揺れない。ところが、一秒間隔で外部から力を加えると振り子は大きく揺れる。これが「共振」という現象である。

 高さ一五〇メートルの超高層ビルの固有周期は二五秒である。しかし、免震構造が採用されているので、固有周期は三~四秒に大幅に短縮されている。固有周期三秒の超高層ビルに周期三秒の地震が襲うと、ビルは大きく揺れることになる。

 軟弱地盤の共振が、特定の長期周期の地震から巨大な被害を与えることを示したのは、一九八五年のメキシコ地震であった。

 メキシコの太平洋岸では、南海トラフと同じく、ココス・プレートが年間約四センチメートルの速度で東に向かって沈み込んでいる。一九八五年九月、首都メキシコ・シティから四〇〇キロメートルも離れたミチョアカンの浜辺でマグニチュード七・九の地震が起こった。四〇〇キロメートルというのは、駿河湾から大阪湾に至る距離である。震源地から遠く離れたメキシコ・シティが大被害を受けた。六階建てから一五階建ての中層ビルが一〇〇棟前後倒壊し、約九五〇〇人の死者が出た。メキシコ・シティはアステカ湖を埋めて造成された軟弱な堆積地盤の上に作られた盆地の椀状の都市である。ここに、周期二~三秒の地震波が繰り返し襲った。盆地の外での揺れは大したものではなかったのに、盆地内では大きく揺れ、一~二分もの間、揺れ続けた。中層ビルの倒壊は、この二~三秒の地震周期にビルが共振したためである。同じ型の被害が東海・南海地震では予想されるのである(同書、八四~八五ページ)。

 にもかかわらず、東京にせよ大阪にせよ、日本を代表する二大メガポリスで、こうした地震被害への認識を無視した超高層ビル建設ラッシュが国策として称揚されている。

 二〇〇八年現在、一六階建て以上の超高層分譲マンションは、全国で四〇〇棟を超えた。うち、八〇%以上が二〇〇〇年以降に建設されたものである。地震が起きて、倒壊しないまでも内部が破壊されれば、放置されるマンションが大都市圏では数多く生まれることになるだろう。川崎一朗教授は言う。

 「痛 「痛恨の思いがするのだが、日本が超高層ビル・バブルに浮き足立っている間に、ライフラインは老朽化し、格差が拡大し、生活保護受給人増は急増し、国民健康保険の納付率は九〇%を切るまで下がり、セイフティネットは痩せ細った」(同書、一三五~三六ページ)。
 一九六二年、「第一次全国総合開発計画」が策定された。その第二条第二項では、「適切な産業立地体制を整える」とあった
http://r25.jp/b/wp/a/wp/n/)。この年、「建築基準法」が改定され、一九二三年の関東大震災の教訓から設定されていた建築物の三一メートルの高さ制限が撤廃され、代わりに容積率と建坪率(けんぺいりつ)が採用された(7)。
 日本で最初の超高層ビルは、官庁が入居する霞ヶ関ビルである。高さ一四七メートル、一九六五年起工、六八年完成。
 六八年には一九一八年の旧「都市計画法」が改正され、新しい「都市計画法」として、土地の用途別に全国一律の容積率、建坪率が設定された。そのさい、外国に比べて容積率を大きくして、以降の高層ビル建設を促進させた(川崎[2009]、一一六ページ)。

 一九八二年、中曽根内閣の下で、「規制緩和による民間投資の推進」をスローガンに、大都市への投資の集中を謳う「アーバン・ルネッサンス」が提唱された。それに応えた東京都は、副都心構想を公表した。実際に、品川駅東口の国鉄跡地(品川超高層ビル街に変貌)、紀尾井町の司法研究所跡地(城西大学紀尾井町キャンパスになる)、新宿西戸山公務員宿舎跡地(西戸山タワーガーデンに変貌)等々、公の土地が民間に相次いで売却された(同書、一二〇ページ)。


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