グリフィス(William Elliot Griffis, 1843~1924)は、福井藩主・春嶽の招きで藩校・明新館に赴任した(1871年3月7日)。満28歳の若さであった。
米国のオランダ改革派教会伝道団のフェリス事務局長に依頼されたからである。フェリスに人選を頼んだのは、フルベッキ(Verbeck)であった(1870年)。
同年7月14日「廃藩置県」。グリフィスは、藩が建ててくれた(1870年9月22日完成)「洋客館」に住み、「ファミリー」と彼が呼ぶ学生8人を寄宿させていた。これまで、それとなく触れてきた今立吐酔はその一員として同年10月19日に入居した。
吐酔16歳の時であった。吐酔は、グリフィスに可愛がられグリフィスの帰国(1874年)に同行して米国に渡り、グリフィスの世話を受けながらペンシルベニア大学で化学を学ぶ。しかし、信仰上の理由でグリフィスの世話を離れ、苦学して卒業、帰国後、27歳で京都中学校の初代校長となった(既述)。
グリフィスは、1972年8月帝国大学南校に移籍する。廃藩置県によって、「地方都市福井から人材の能力と活力が東京に集中する廃藩置県の変革のまっただ中に身を置いた」(グリフィスの日記、山下、同書、11ページ)。
武士の子弟約700人が同年に東京に脱出してしまい、福井の教育は崩壊の淵に立っていた。グリフィスも福井から脱出せざるをえなかった。グリフィスの福井滞在は10か月にも満たなかった(山下英一『グリフィスと日本』近代文藝社、1995年、第1章)。
これだけの短期の滞在で、これだけの巨大な影響を福井人に与えられるものなのかと天を仰いでしまう。米国に1874年帰国してしまう。
明新館の生徒に松原信成(後の雨森信成)がいた。山下同上書による雨森の年譜を見よう。
安政5(1858)年、福井藩士・松原十郎の次男として生誕、明治4(1871年)明新館入学、グリフィスをいたく尊敬する。廃藩置県を期に横浜に出、米人宣教師、ブラウン(Samuel Brown)に学ぶ。この年、明新館は「第28番中学」となる。 グリフィス、福井を去る。
ラトガース・カレッジでグリフィスの後輩であったワイコフ(M.N.Wyckof)がグリフィスの後任として赴任、その通訳として松原は福井に赴任。「中学で一番正確な英語を話す」とワイコフは、グリフィスに手紙を書いている。松原、若干14歳の時である。明治6(1873)年雨森家の養子となる。同家の娘、芳の夫になる。雨森姓を継ぐ。
明治7(1874)年、文部省命令でワイコフが新潟英語学校に赴任、雨森も同行し、「エジンバラ医療宣教会のパーム(T.A.Palm)の通訳兼助手となる。パームの『偶像非神論』を翻訳したと言われている。その年、横浜に出て、先述のブラウンの塾に入り、日本人最初のプロテスタント牧師・奥野昌綱と清書や賛美歌を翻訳。
明治8(1875)年、キリスト教嫌いの養子先から離縁させられる。妻・芳は、雨森信成の弟・元成と結婚。信成は、メリー・ギダーの学校(いまのフェリス女学院)の教師となる。明治10(1877)年、築地の東京一致神学校(明治学院に合流)の神学生になる。以後、キリスト教伝道活動。明治14(1881)年ワイコフの先志学校(明治学院に合流)で教える。
この時の雨森について、英文学者の村井知至は、「雨森という溌剌たる才知と深遠なる学識と強烈なる信仰を有する先生が学監として生徒と寝食を共にされた」と書いている(山下前掲書、100ページより)。
西欧は、キリスト教によってどのような国になっているかを雨森は明治20(1887)年まで米国、フランス、英国、そして、中国、朝鮮を歴訪する。彼が見たのは、帝国主義の姿と人種差別の激しさであった。衝撃を受けた雨森はキリスト教を捨てる。
帰国後、「微力社」を組織して、3000人の無産士族と児島湾の開拓事業を始める。商社経営にも手を染める。
明治21(1888)年、欧化主義に対抗する佐々木高行らが設立した「明治会」の機関誌『明治会叢誌』の編集者になる。
明治36(1903)年、横浜で横浜グランドホテル内でクリーニング業を営む。日本発の喫茶店を経営したとも言われている。
ラフカディオ・ハーンと交流。ハーンの日本研究に資料を提供していた。明治37(1904)年、越後の鉱山を開発、日露戦争の軍費を寄付。同年、ハーンの死去。
"The Japanese Spiritsu," Atlantic Monthly, Boston, 1904; "Lafcadio Hearn, the Man," The Atlantic Monthly, 1905を発表。1905年、War and the Japanese Womenを書き上げたが、未発表のまま、グリフィスの手許に残る。明治39(1906)年、おそらく糖尿病で死去。菩提寺は高野山別院増徳院である。
ラフカディオ・ハーンの『心』は、雨森がモデルである。