思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

■旧ソ連の驚異の宇宙情報──バイオプラズマ生命体とUFO飛来の秘密!

2019-11-16 15:46:27 | 思想、哲学、宇宙論
■旧ソ連の驚異の宇宙情報──バイオプラズマ生命体とUFO飛来の秘密!
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/191.html
投稿者 秘密結社ファン 日時 2003 年 3 月 22 日 05:12:21:RqegNxsy0ZCFc








[はじめに]
 本日のお知らせは、ソ連大使館広報部の『今日のソ連邦』(1990年5月号)の驚くべき宇宙情報です。これはソ連邦崩壊中のさなかに発刊された公式のソ連情報誌です。この後にソ連が崩壊しましたが、その後はこのような発表は一切行なわれていません。この発表者は、生物物理学者で天体浮揚物研究センター長のマルク・ミリヒケルと技師で異常現象研究市民グループ指導者ユーリー・フォミンという二人の科学者です。

〈中略〉


[2] 宇宙には蛋白質のほかバイオプラズマ生命がある

 次に宇宙の生命体は、われわれのような蛋白質による生命体ばかりではないというのです。

「宇宙には四つの生命の変種が存在する。そのうちの三つは非蛋白のプラズマ形態である。スペクトルにより青、緑、黒のプラズマ形態とよぶ銀河宇宙の高等知性集団で、宇宙、並行宇宙、アストラル(四次元)面に広く分布している。それらと私たち人類の中間に存在するのが、私たちと同じ蛋白質を基にした生命形態と、地球人類と同型のヒューマノイド型である。ヒューマノイド型は、プラズマ形態の超知性体と人類の仲介者で、UFOのパイロットという形でわれわれの目にふれている」といっています。

 宇宙の生命は、われわれのような蛋白質生命ばかりではなく、「半物質で目に見えないプラズマ生命がある」というのです。プラズマ生命があるということは、われわれはまだ人間として進化のほんの初歩段階にいて、将来はこのプラズマ生命にまで進化するのではないかということが予感されます。

 ところで「プラズマ生命」は断じて大槻博士の研究している「物理プラズマ」ではありません。これは私のいう「バイオプラズマ生命」でなくてはなりません。どうしてかというと、物理プラズマは、原子が崩壊して+イオン(陽子の周りにわずかな数の電子が残っている)裸の素粒子である自由陽子、-イオンとしての自由電子の状態です。これは強いエネルギーによって原子をバラバラにした、エネルギーとしては破壊の状態で、秩序あるものが無秩序になっていく「エントロピー増大」の現象そのものです。しかも+イオンと-イオンは高温・高圧や破壊的環境がなくなれば、直ちに+と-とが吸引し合って原子を作ろうとします。しかし物理プラズマではそこまでしかプロセスは進展しません。分子でさえ作ることができません。これに生命エネルギーの関与がなければ、分子、高分子、細胞、器官、生命体にまで複雑に合成進化することができないのです。

 だから「プラズマ生命」は正しくは「バイオプラズマ生命」以外にはありえないのです。バイオプラズマは物理プラズマと正反対の性質・機能をもっています。ゲルブランがいうには、低温(体温の30数度が最適)で、物理プラズマの100万分の1くらいのエネルギーで、「生体内の原子(元素)転換」などは序の口で、「無秩序なものを秩序化する“エントロピー減少”」によって無生物にいのちを与えることができるのです。生命エネルギーが浸透しなければ、分子(たとえばH2Oの水)は絶対にできないのです。

〈中略〉

バイオプラズマとは、宗教や神秘学でいう「幽体」のことです。肉体とハーモニーして生命エネルギーを流入させる幽体(半物質)とによってわれわれの蛋白質生命体はできています。しかるに半物質の幽体だけを衣に着た生命体があるというのです。

 このような存在はスコットランド、アイルランドその他で語られている自然霊、妖精として知られていました。彼らは幽体をもった自然霊の段階を過ぎると、火の精、空気の精となり、さらに進化して天使になるといわれています。妖精はたいていは体の小さい人間の形(物質化)をとるが、想念の力ですぐに変形することが自由自在だといわれてきました。

 その意味ではバイオプラズマ生命体とは、これらの妖精が進化した昔の宗教では必ずいわれた天使(もちろんこれは神の使いとしての天界の存在であって物質界の存在ではありません)のような生命体にたとえられるかもしれません。

〈中略〉


[5] UFOはなぜ飛来するのか

旧ソ連では「一定の方法でこれら高度の知性との接触が準備され、未確認飛行物体・UFOは異星系、並行宇宙、アストラル面から出没している」といいます。そして蛋白質のプラズマ形態と人類との仲介者がそれらUFOのパイロットである「人類に似たよそもの・ヒューマノイド」だといっています。

 彼らの目的は「遺伝子ファンドを集めており、私たちの細胞、精子、卵子、植物の種子等をとっている。それは宇宙に生命を分散居住させるためであり、環境の汚染や地球規模での熱核紛争の発生で人類が自滅した場合、地球上に生命を復活させるため」だといっています。

 宇宙の高度の知性は私たちに主として友好的で、人類の生態学的行き止まりを克服するために援助をし、宇宙文明連合(前からこれがあるといわれてきた)へ加入できるように地球人の意識の大変革を期待しているようです。しかし宇宙の知性生命体とのコンタクトには多くの困難があるようです。

 それは、「まったく異なる論理、心理、倫理、道徳。科学や計数システムの相違や、コンタクトする生命物質のエネルギー・レベルおよび種々の形態による違い」です。
 とくに「異なる論理、倫理、道徳」ということからみて、どうもわれわれの社会のそれとは正反対のようです。われわれの社会は「人間という有機体対周りの環境」という対立、さらには「生対死」や「精神対身体」、つまり「自と他」との対立「私は私、あなたはあなた」というように、すべて自分(自我)の目から、すべての他者をみるという生き方をしています。
 だから科学なら特許権で自分の権益を守る。哲学も宗教も自我の目から宇宙の法則やおのれの悟りを得ようとする。政治も経済も自分や集団や国の利益を得ようとする。神すらも自分たちの神を造って他の神を否定し争う。いつも個である自分から、自分とは違うすべての他を見ています。

 どうも進んだ宇宙人の考え方はこれらとは反対のようです。この目の基本は、「自分も他人もなく、すべては大元において同じである。そして自分の外を見るのでなく、自分の内を見る」ことを出発点にしていると考えます。
 この旧ソ連の情報は、今の人間レベルを超えた世界がどのようなものかということを垣間見させてくれる貴重なニュースだと思います。


風林火山

2019-11-12 15:42:58 | 思想、哲学、宇宙論




この曲を聴くと、悠久の歴史の時空が生き生きと意識の中に広がっていく感じがします。

「全てのモノゴト」「全ての時空間」が圧縮されて畳み込まれている今この瞬間に

意識を集中することで、このような感覚が引き起こされるのでしょう。


第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する

2019-11-11 20:17:36 | 思想、哲学、宇宙論
http://dongavatyo.web.fc2.com/index.htm


第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する

認識すること

ペインボディからの解放は、まず自分がペインボディを「もっている」と認識することから始まる。
それからもっと重要なのは、しっかりと「いまに在る」能力と観察力だ。

いまの自分をきちんと観察し、ペインボディが活性化したときに重苦しいネガティブな感情が流れ込んだら、それがペインボディだ、と気づくこと。
認識できれば、相手はもうあなたのふりをして暮らし、糧(かて)を吸い上げて大きくなることはできない。

ペインボディへの同一化を断ち切るのは、「いまに在る」という意識だ。
あなたが自分を同一化しなければ、ペインボディはもうあなたの思考を支配できず、あなたの思考を糧にして育つことはできない。
ほとんどのペインボディはすぐには消えないが、あなたが思考とペインボディのつながりを断ち切ればエネルギーを失う。
あなたの思考はもう感情に曇らされることはない。
現在の感覚が過去によって歪められることもなくなる。

するとペインボディに閉じ込められていたエネルギーの周波数が変化し、「いまに在る」意識へと形を変える。
こうしてペインボディは意識の糧となる。
だからこそ、地球上の最も賢明な男女の多くは、かつて重いペインボディを抱えていた。

あなたが何を言い、どんな行動をし、どんな顔を世界に見せていようとも、あなたの心と感情の状能は隠せない。
人間は誰でも心の状態に対応したエネルギー場を放射している。
そしてほとんどの人が潜在的にではあっても、相手が放射しているエネルギーを感じ取る。
言ってみれば知らず知らずに感じているのだが、相手をどう思い、どう反応するかはそれによって大きく左右される。

初対面のとき、言葉を交わす前にいちばんはっきりと感じ取る人もいる。
しかしその後は言葉が関係を支配し、言葉とともに人々が演じる役割が決まることが多い。
すると関心は精神の領域に移り、相手のエネルギー場を感じ取る能力はしぼんでしまう。
とはいえ、無意識のレベルでは感じ続けているのだが。

ペインボディは無意識のうちにさらなる痛みを求める、つまり何か悪いことが起こらないかと待ち構えているとわかると、ペインボディが活性化したドライバーによって多くの交通事故が引き起こされていることも納得できるだろう。
ペインボディが活性化したドライバー同士が交差点で出会うと、事故が起こる可能性は通常の何倍にも上昇する。
両者とも無意識のうちに事故が起こることを望むからだ。
交通事故にペインボディが果たしている役割は、「渋滞中のいらいら、切れるドライバー」という言葉にはっきりと表れている。
こういうときドライバーは、先行する車のスピードが遅いというささいなことで暴力的になる。

暴力行為の実行者の多くは、一時的に凶暴になった「ふつうの」人々だ。
世界中の裁判所で、弁護人が「被告人はまったく、こういうことをするような人間ではなかった」と主張し、被告人が「自分でもどうしてこんなことをしたのかわからない」と述べている。
私の知る限りではまだ、「本件の被告人は心神耗弱(こうじゃく)の状態にありました。
被告人のペインボディが活性化したのであって、当人は自分が何をしているか解らなかったのであります。
それどころか、犯人は被告人ですらありません。
彼のペインボディであります」
という弁論をした弁護人はいないが、そのうち出てくるかもしれない。

それではペインボディに支配されたときの行為に、当人は責任がないのだろうか?
だって、責任の取りようがないではないか。
無意識のあいだの出来事、自分で何をしているかわからなかったときの行為に責任が取れるだろうか?
だがもっと大きく考えれば、人間は意識的な存在へと進化するようにつくられているのだし、進化しない人間は当然、自分の無意識の結果に苦しむ。
そういう人たちは宇宙の進化という動きから外れているのだ。

ところがこの見方も部分的に当たっているだけだ。
もつと高い視点からすれば、宇宙の進化から外れたままでいることなどあり得ないし、人間の無意識とそれが生み出す苦しみも進化のー部なのである。
際限のない苦しみの循環にもはや耐えられなくなると、人は目覚める。
だから大きく考えれば、ペインボディにもそれなりの存在価値がある。


「いまに在る」こと

三十代の女性が私に会いに来た。
初対面の挨拶で早くも、彼女の表面的な微笑みと礼儀正しさの奥にある苦痛が伝わってきた。
話し始めるとたちまち微笑は消え、苦しげな表情が現れた。
さらに彼女はこらえきれずに泣き出した。
ひどく孤独で満たされない思いでいっぱいなのだと言う。
それに怒りや悲しみも激しかった。
彼女は子ども時代に暴力的な父親に虐待されていた。

私はすぐに、彼女の苦痛が現在の生活環境から生じているのではなく驚くほど重苦しいペインボディのせいだと気づいた。
彼女はそのペインボディというフィルターを通して人生を見ていた。
だが感情的な苦痛と思考とのつながりも、その苦痛と思考に完全に自分を同一化していることもわかっていなかった。
自分の思考でペインボディを養っていることを知らなかった。
言い換えれば彼女はひどく不幸な自分という重荷を背負って生きていた。

だが自分の苦しみは自分自身から発している、自分の重荷は自分自身だと、どこかで気づいていたに違いない。
目覚めの用意はできていた。
だから私のもとへ来たのだ。
私は、身体のなかで何を感じているかを見つめてごらんなさい、不幸な思考、不幸な人生の物語というフィルターを通さずに、直接に思いを感じてごらんなさい、と勧めた。

自分は不幸から脱出する方法を教えてもらいに来たので、不幸に沈没するために来たのじゃない、と彼女は言い返したが、とにかくやってみると答えた。
やがて涙があふれて、身体が震え出した。
「それが、あなたのいまの思いです」と私は言った。
「それがいまのあなたの思いだという事実は、どうすることもできません。
では、こんなのは嫌だ、そうじゃない状態になりたい、と考えるのをやめて(そんなことを考えても、すでにある苦しみにさらに苦しみが重なるだけですからね)、いまの思いを完全に受け入れることはできますか?」

彼女はしばらく黙っていたが、ふいに顔を上げ、そのまま立ち上がって帰りそうな素振りで荒々しく言った。
「いいえ、受け入れることなんかできません」。
「そう言っているのは誰ですか?」。私は問い返した。
「あなたでしょうか、それともあなたのなかの不幸でしょうか?
不幸な自分を思って不幸になる、それがまた不幸を積み重ねているのがわかりますか?」。

彼女はまた沈黙した。
「何かをしなさい、と言っているのではないんですよ。
ただ、現にある思いを認めることはできますか、と言っているだけなのです。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、言い換えれば、こういうことです。
あなたが自分の不幸を気にしなくなったら、その不幸はどうなるでしょうね?
やってみてはどうですか?」。

一瞬きょとんとしていた彼女は、しばらく口を開かなかった。
私はふいに彼女のエネルギー場が変化したのを感じた。
「おかしいですね。
私はいまも不幸ですが、でもその不幸のまわりにスペースができたみたいです。
前ほど重大に思えなくなりました」。

不幸のまわりにスペースができた、こういう表現を聞いたのは初めてだった。
もちろんそのスペースは、いまこの瞬間に経験していることを全面的に受け入れたときに生じる。
それ以上はあまり言葉をかけず、彼女がいまを経験するのに任せておいた。

やがて彼女は、自分のなかに生きている古い苦痛の感情に自分を同一化するのをやめたとき、そしてそれに抵抗せずにただ見つめたとき、それはもう彼女の思考の支配者ではなくなり、心のなかでつくりあげた「不幸な私」という物語の一部でもなくなる、と気づいた。
彼女の人生に過去を乗り越えた新しい側面が――-いまに在る」という側面が――現れたのである。
不幸な物語がなければ不幸ではいられないから、これで彼女の不幸は終わった。
それは彼女のペインボディの終わりの始まりでもあった。

感情そのものは別に不幸ではない。
感情に不幸の物語がくっついたときにだけ、不幸になる。

セッションが終わったとき、私はある人物の「いまに在る」意識の目覚めを見届けたと満足だった。
私たちが人として生まれたのは意識のこの側面を世界にもたらすためだ。
それにペインボディと闘わず、意識の明かりで照らすことで、ペインボディが縮むのを見ることもできた。

その女性が去って数分後、届け物があって友人がやってきた。
彼女は部屋に入るやいなや言った。
「何があったの?
すごく重くて陰気などんよりしたエネルギーを感じるわ。
気分が悪くなりそう。
窓を開けて、香を焚いたほうがいいわよ」。

私はいましがたここで、ある人がとても重いペインボディからの解放を経験したのだと説明し、あなたはたぶんそのセッションのときに放出されたエネルギーを感じたのだろうと答えた。
だが友人はそれ以上話を聞いているのも嫌だと、早々に立ち去った。

私は窓を開けたまま、近くの小さなインド料理店に食事に出かけた。
そこで起こったことは、私がすでに知っていたことをさらに裏づける結果になった。
個人個人のものであるように見えるペインボディも、あるレベルではすべてつながっているということだ。
しかしそれがそのように具体的な形で確認されたのにはびっくりした。


ペインボディの逆襲

私はテーブルについて料理を注文した。
他にも何人か客がいた。
近くのテーブルに車椅子の中年男性がいて、ちょうど食事を終えたところだった。
彼は私のほうをちらりと、しかし鋭い目で見た。
数分が経過した。
ふいにその男性はいらいらと落ち着かなくなり、身体をもそもそ動かし始めた。
ウエイターが皿を下げにやってきた。
すると男性は文句を言い始めた。
「なんてまずい料理なんだ。まったくひどいものだ」。
「それじゃ、どうして召し上がったんです?」。
ウェイターが言い返した。
すると男性はかっとなって罵(ののし)り出した。
口汚い言葉が次々に飛び出す。
激しい憎悪がレストランに充満した。

エネルギーが獲物を探して身体の細胞の一つ一つに染み込んでいくのがわかるようだった。
男性は他の客にまで八つ当たりし始めたが、「いまに在る」意識を働かせながら座っている私のことはなぜか無視した。
私は人間の普遍的なペインボディが戻ってきて、こう言っているような気がした。
「お前は私を打ち負かしたつもりだろうが、ほら見るがいい、私はちゃんとここにいるぞ」。

それに、さっきのセッションのあとに残されたエネルギー場が私と一緒にレストランまでやってきて、周波数が一致する誰かに、つまり重いペインボディをもった者に取りついたのかもしれない、とも思った。

マネージャーがドアを開け、「とにかく、おひきとりください」と男性に言った。
男性は電動車椅子で出ていき、あとには唖然とした客や従業員が残された。
だが一分もしないうちに男性は戻ってきた。
ペインボディはまだ満足していなかったのだ。
もっと糧を求めていた。
男性は車椅子でドアを押し開け、口汚く叫んだ。
ウエイトレスが彼を押し留めようとすると、ぐいぐいと彼女を押していって壁際に追い詰めた。
客たちがあわてて飛んでいき、車椅子を引き離そうとした。
悲鳴やら怒号やらで、あたりは騒然となった。
まもなく警官が到着した。
男性はおとなしくなり、さっさと出て行って戻ってくるなと言い渡された。
幸いウエイトレスは足に痣(あざ)ができただけで、怪我はなかった。

事態が収まったとき、マネージャーが私のテーブルにやってきて、半ば冗談めかし、だが直感的に事件とのつながりを感じたように、こう言った。
「あなたが仕掛けたんですか?」。


子どものペインボディ

子どものペインボディは、気まぐれや内向状態として現れることがある。
子どもはふくれてそっぽを向き、人形を抱いて隅に座り込んだり、親指を吸ったりする。
発作的に泣き出したり、癇癪(かんしゃく)を起こすこともある。
きいきい泣きわめき、床に転がり、暴れるかもしれない。

欲望が拒否されることは簡単にペインボディの引き金になるし、発達中のエゴでは欲望の力はとくに強くなりがちだ。
さっきまでは天使のようだった子どもが数秒後に小さな怪物に変身すれば、親たちは信じられない思いでなすすべもなく見守るしかないだろう。
「こんな不幸がいったいどこからやってくるのか?」と、不思議に思うかもしれない。
それは多かれ少なかれ子どもが分かちもった人類の集団的ペインボディの一部で、その集団的ペインボディは人類のエゴから発している。

同時に子どもはすでに親のペインボディから痛みを受け取っているのかもしれず、そうなら親は子どもに自分のペインボディの反映を見ていることになる。
とくに敏感な子どもは親のペインボディの影響を受けやすい。
親の感情のドラマを目の当たりにするのはほとんど耐え難い苦痛で、そういう敏感な子どもは成長後、重いペインボディを抱える。
親が自分たちのペインボディを隠そうとして、「子どもの前では喧嘩はやめましょう」と言いあったとしても、子どもはだませない。
親が礼儀正しく言葉を交わしていても、家庭にはネガティブなエネルギーがたちこめる。
抑圧されたペインボディはとりわけ有害で、おおっぴらに行動化されるよりももっと毒性が強く、その心理的な毒は子どもに吸収されて、子どものペインボディの糧になる。

子どもによっては、非常に無意識な親と暮らしているうちに、潜在的にエゴとペインボディについて学び取ることがある。
両親ともにエゴが強くて重いペインボディをもっていたある女性は私に、親を愛してはいたが、親が怒鳴りあっているようすを見てよく
「この人たち、頭がどうかしている。
私はどうしてこんなところにいるんだろう?」と考えたと語った。
彼女は子ども心に、こんな生き方は間違っていると気づいていた。
その気づきのおかげで、親から吸収する苦痛は少なくてすんだのだ。

親は子どものペインボディをどうしていいかわからないことが多い。
もちろん最大の問題は、自分自身のペインボディにどう対応しているか、ということだ。
自分自身のペインボディを認識しているか?
充分に「いまに在る」ことができ、ペインボディが活性化したときには感情レベルで、つまりそれが思考に入り込んで「不幸な私」をつくり出す前に、気づくことができるか?

子どもがペインボディの襲撃を受けているあいだは、こちらが「いまに在って」、感情的な反応に引きずり込まれないようにする以外、できることはあまりない。
こちらが反応すれば、子どものペインボディの糧になるだけだ。
ペインボディのぶつかりあいは極端にドラマチックになり得る。
だからドラマに巻き込まれてはいけない。
あまり深刻に受け取らないこと。

欲求が満たされないことがペインボディの引き金になった場合には、要求に負けてはいけない。
そうしないと子どもは、「自分が不幸になればなるほど、欲しいものが手に入る」ことを学習する。
これはのちの人生の機能不全につながる。
あなたが反応しないと、子どものペインボディは苛立ち、しばらくはさらに激化するかもしれないが、やがては収まる。
幸い子どものペインボディの発作はおとなよりも短いのがふつうだ。

ペインボディの活動が収まってから、あるいは翌日にでも、子どもと話しあってみよう。
だが、子どもにペインボディについて話してはいけない。
代わりにこんなふうに聞いてみよう。
「昨日、あんなに泣きわめいたのはどうしてだろうね?
覚えているかい?
どんな気持ちだった?
きみに取りついたのはいったい何なんだろうね、名前があるのかな?
ないの?
あるとしたら、どんな名前だと思う?
姿が見えるとしたら、どんな姿をしているだろうね?
そいつはどこかへ行ったあとは、どうなるんだろう?
寝てしまうのかな?
そいつはまた来ると思う?」。

この問い方はほんの一例にすぎないが、どの質問も子どもの観察力を目覚めさせることを意図している。
観察力、つまり「いまに在る」力である。
この力があると、子どもがペインボディから自分を引き離すのに役立つ。
それに子どもにわかる言葉であなた自身のペインボディについて話しておくのもいいかもしれない。

次に子どもがペインボディに引きずり回されたときには、
「ほら、あいつが戻ってきたね。そうだろう?」と言おう。
子どもが使った言葉を使えばいい。
それをどんなふうに感じているかに、子どもの関心を向けさせる。
そのときは批判したり非難したりしてはいけない。
興味と関心を抱いて聞いていることを伝えよう。

たぶんこれではペインボディの進撃を食い止めるまでにはいかないだろうし、子どもはあなたの言葉を聞いていないように見えるかもしれない。
しかしペインボディの活動の真っ最中でも、子どもは意識のどこかで目覚めているはずだ。
こういうことが何度か繰り返されるうちに、その目覚めは強くなっていき、ペインボディは弱くなっていく。
子どもの「いまに在る」力が育つ。
そのうち、ほらペインボディに負けているよ、と逆にあなたが子どもに指摘される日が来るかもしれない。


不幸

不幸のすべてがペインボディから発しているわけではない。
新しい不幸、あなたが現在という時とずれてしまい、いろいろな意味で「いま」を否定したために生まれる不幸もある。
いまという時はすでに厳然としてあって、避けようがないことがわかれば、無条件の「イエス」を言うことができるし、よけいな不幸を生み出すこともない。
それどころか内なる抵抗が消えれば、あなたは「生命(人生)」そのものによって力を与えられていることに気づくだろう。

ペインボディの不幸はつねに原因と結果が不均衡で、言うならば過剰反応だ。
だからすぐにそれとわかるのだが、ペインボディに取りつかれている当人にはなかなかわからない。
重いペインボディを抱えている人はすぐに動揺し、怒り、傷つき、悲しみ、不安に陥る。
他の人なら苦笑してやり過ごすような、それどころか気づきさえもしないささいなことで、不幸のどん底に落ちたりする。
もちろん、その出来事は不幸の真の原因ではなく引き金にすぎない。
積み重なった古い感情を甦(よみがえ)らせるのだ。
その感情が頭に上り、拡大されて、エゴの精神構造を活性化する。

ペインボディとエゴには密接な関係がある。
両者はお互いを必要としている。
引き金となる出来事や状況は、重い感情に彩られたエゴというスクリーンを介して解釈され、反応を引き起こす。
このために出来事や状況の重要性が完全に歪められる。
自分のなかにある感情的な過去という目で、いまとを見ることになる。

言い換えれば、あなたが見て経験している中身はいまの出来事や状況にではなくあなた自身のなかにある。
場合によってはいまの出来事や状況のなかにあるかもしれないが、それを自分の反応によってさらに拡大させている。
この反応と拡大こそ、ペインボディが望み、必要としている糧なのだ。

重いペインボディに取りつかれている人は、自分の歪んだ解釈や重苦しくて感情的な「物語」の外に出るのが難しい。
物語のなかの感情がネガティブであればあるほど、その物語はますます重く強固になる。
だから物語であることがわからず、現実だと思い込む。
思考とそれに付随する感情の動きに完壁に取り込まれていると、そこから出ることは不可能だ。

なにしろ外側があることさえわからないのだから。
自分でつくり出した映画や夢の罠にかかり、自分自身でつくった地獄に落ちているのと同じである。
それが当人にとっての現実で、他の現実は存在しない。
さらに当人にとっては、自分の反応以外の反応の方法はあり得ない。


ペインボディから自分を引き離す

活動的な強いペインボディを抱えている人はある種のエネルギーを放出していて、他の人はそれを非常に不快に感じる。
すぐに相手から離れたくなったり、交流を最小限に抑えたいと思う人もいる。
相手のエネルギー場に跳ね返されるように感じるのだ。
またエネルギーを発している人に苛立ちを感じて無礼になったり、言葉やときには物理的な暴力で攻撃しようとする人もいる。
この場合は反応する人のなかにも相手のペインボディに共振する何かがあるのだ。

強く反応する原因は自分のなかにある。
つまり自分自身のペインボディである。
当然ながら、重くてしょっちゅう活性化するペインボディを抱えている人は、年中争いに巻き込まれる。
いちろん自分が積極的に争いを起こすこともあるが、自分では何もしていない場合もある。
それでも放射しているネガティブなエネルギーが敵意を引き寄せて、争いを生み出す。
相手がこういう活動的なペインボディをもった人だと、反応しないでいるためにはこちらがよほどしっかりと「いまに在る」必要がある。

いっぽう、こちらがしっかりと「いまに在る」と、それによって相手がペインボディから自分を引き離し、ふいに奇跡的な目覚めを経験することもある。
その目覚めは短時間で終わるかもしれないが、とにかく目覚めのプロセスの始まりにはなる。

私がその種の目覚めを体験したのは、もう何年も前のことだ。夜中の十一時に玄関のベルが鳴った。
インターフォンから聞こえたのは隣のエセルの不安に怯えた声だった。
「どうしてもお話ししなくてはならないことがあるんです。
とても大事なことなの。
すみませんけど、開けてください」。
エセルは教養ある知的な中年女性だった。
同時に強いエゴと重いペインボディの持ち主でもあった。
彼女は思春期にナチス・ドイツから逃れてきたのだが、家族の多くを強制収容所で失っていた。

入ってきたエセルは興奮したようすでソファに腰を下ろし、もってきたファイルから手紙や書類を取り出して震える手でソファや床に広げた。
とたんに私は、自分の身体のなかで調光器の目盛りが大きく動いてパワーが最大になったという不思議な感覚を覚えた。
とにかくオープンな姿勢でできるだけ観察力を働かせつつ、しっかりと――身体の全細胞をあげて――「いまに在る」しかなかった。

エセルの口から奔流のように言葉があふれる。
「今日また、あいつらからひどい手紙が来たんですよ。
私に復讐しようとしているんだわ。
お願い、あなたも力になってください。
私たち、一緒に闘わなくちゃ。
向こうの性悪な弁護士は何が何でもやり通す気です。
私、住むところがなくなってしまう。
あいつらは権利を剥奪すると脅してきたのよ」。

どうやらエセルは、住宅の管理者が彼女の要求した修理に応じなかったという理由で、管理料の支払いを拒否したらしい。
そこで管理者側は裁判に訴えると脅してきたのだ。
エセルは十分ほどまくしたてた。
私は彼女を見つめながら聞いていた。
とつぜん彼女は口を閉じ、いま夢から醒めたという表情で広げた書類を見回した。
態度は落ち着いて穏やかになり、エネルギー場はすっかり変化した。
それから彼女は私を見て言った。
「こんなに大騒ぎするほどのことじゃありませんわね、そうでしょう?」。
「そうですね」。私は答えた。
それから何分か彼女は黙って座っていたが、やがて書類を拾い集めて立ち去った。

翌朝、通りで出会った彼女はいぶかしげな表情で私を見た。
「あなた、何をなさったんです?
私はここ何年も眠れないで困っていたのに、昨夜はぐっすり眠れたんですよ。
まるで赤ちゃんみたいに熟睡しました」。

エセルは私が何かをしたと思ったらしいが、実は私は何もしなかった。
彼女は、何をしたのかではなく、何をしなかったのかと聞くべきだった。
私は反応せず、彼女の物語のリアリティを保証せず、彼女の精神の糧となる思考もペインボディの糧となる感情も提供しなかった。
そのとき彼女が体験していることを体験するがままにさせておいた。
私の力は、介入しないこと、行為しないことから生じていた。

「いまに在る」ことは、つねに何かを言ったりしたりするよりも強力なのだ。
ときには「いまに在る」ことから言葉や行為が生まれることもあるが。

エセルの変化は恒久的なものではなかったが、しかしある可能性を知らせ、彼女のなかにすでにあるものを垣間見せる結果にはなった。
禅ではこの観察の体験を「悟り」と呼ぶ。
「悟り」とは「いまに在る」ことであり、頭のなかの声や思考プロセスから、それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ。
すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。
それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。

考えても「いまに在る」ことは理解できない。
それどころか多くの場合、誤解する。
気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。
だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。
それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。
「いまに在る」静謐(せいひつ)のなかで、あなたは自分と相手の形のない本質を感じる。
あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。


「引き金」

ペインボディのなかには、一定の状況にだけ反応するものがある。
ふつう引き金になるのは、過去に体験した感情的苦痛に共振する状況だ。

たとえばお金のことで年じゅう騒ぎたてて争う親のもとで育った子どもは、お金に対する親の不安を吸収し、金銭的な問題が引き金になるペインボディを発達させる。
こういう子どもは成人後、わずかなお金のことで動揺したり、怒ったりする。
その動揺や怒りの裏には、生存がかかっているという強い不安が存在する。

霊的で比較的目覚めた意識をもった人が、株式ブローカーや不動産業者からの電話をとったとたんに声を荒らげ、詰問し、非難するのを目にしたことがある。
タバコのパッケージに健康上有害です、という注意書きがあるように、お札や銀行の通帳にも、
「お金はペインボディを活性化し、完壁な無意識を引き起こすことがあります」
という注意書きが必要かもしれない。

親の片方あるいは両方から育児放棄された子どもは、遺棄への原初的な不安に共振する状況が引き金になるペインボディを発達させるだろう。
この人たちの場合、空港に迎えに来る友だちが数分遅れたとか、配偶者の帰宅が少し遅くなったというだけで、ペインボディの激しい発作が起こる。
パートナーあるいは配偶者に去られたり死なれたりすると、その感情的苦痛は通常の場合をはるかに超え、激しい苦悶やいつまでも続いて立ち直れないほどの鬱(うつ)や偏執的な怒りに取りつかれる。

子どものころ父親に虐待された女性の場合、男性との親密な関係がペインボディの引き金になることがある。
逆にペインボディをつくりあげている感情のせいで、父親と似たようなペインボディをもった男性に惹かれることもある。
そのような女性のペインボディは、同じ苦しみをもっと味わわせてくれそうな誰かに磁力を感じるのだろう。
こういう苦痛は恋と勘違いされたりする。

母親に望まれない子どもで、まったく愛されず、最小限の世話と関心しか与えられなかった男性は、母親の愛と関心に対する強い満たされない憧れと必死に求めるものを与えてくれなかった母親への強い憎悪が混ざり合った、矛盾した重いペインボディを発達させる。
こういう男性がおとなになると、ほとんどすべての女性がその飢えたペインボディ――感情的な苦痛の塊――への引き金になり、出会う女性のほとんどすべてを「誘惑し、征服」せずにはいられない依存症的な衝動が現れる。
それによってペインボディが渇望する女性の愛と関心を得ようとするのだ。
そこで女たらしになるが、女性との関係が親密になりかけたり、誘いを拒絶されたりすると、母親に対するペインボディの怒りが甦(よみがえ)り、人間関係を破壊してしまう。

自分のペインボディの目覚めが感じられるようになると、どんな状況や他人の言動がいちばん引き金になりやすいかもじきにわかるだろう。
引き金になることがあったら、あ、これだなとすぐに気づき、観察眼を鋭くすればいい。
すると一、二秒後に感情的な反応が起こってペインボディが起き上がるのを感じるだろう。
しかし「いまに在る」ことができていれば、そのペインボディに自分を同一化しないから、ペインボディに支配されて頭のなかの声を乗っ取られなくてすむ。
そんなときパートナーがそばにいたら、「あなたの言った(した)ことが、私のペインボディの引き金になった」と説明できるかもしれない。

相手の言動がペインボディの引き金になったらすぐにそれを伝えると、お互いに取り決めておくといい。
そうすれば人間関係のドラマによってペインボディがさらに大きく育つのを防げるし、無意識に引きずり込まれる代わりに、「いまに在る」力を強化するのに役立つ。

ペインボディが目覚めたとき、あなたが「いまに在る」なら、そのたびにペインボディのネガティブな感情的エネルギーの一部が焼失し、「いまに在る」力へと変容する。
残るペインボディはすぐに退却して次のチャンスを、つまりあなたが無意識になる機会を待とうとするだろう。

お酒を飲んだり、暴力的な映画を見たりしたあと、「いまに在る」ことを忘れれば、ペインボディにとってはチャンス到来だ。
苛立ちや心配といったほんの小さなネガティブな感情でも、ペインボディが戻ってくる入り口になりかねない。
ペインボディはあなたの無意識を必要としている。
ペインボディは「いまに在る」という光には耐えられない。


目覚めのきっかけとしてのペインボディ

一見すると、ペインボディは人類の新しい意識の目覚めに対する最大の障害に見えるかもしれない。
ペインボディは精神を占拠し、思考を歪めて支配し、人間関係を破壊する。
エネルギー場に立ちこめる暗雲のような感じだ。
人間を無意識に落とし込む。
スピリチュアルな言い方をするなら、心と感情への完全な同一化をもたらす。
そのために人は直接的に反応し、自分と世界の不幸を増大させるようなことを言ったりしたりする。

しかし不幸が増大すると人生のつまずきも多くなる。
身体がストレスに耐えられずに病気になったり、なんらかの機能不全を起こすかもしれない。
悪いことが起こることを望むペインボディのせいで事故に巻き込まれたり、大きな争いや波乱に遭遇したり、暴力行為の加害者になることもあるだろう。

あるいはすべてが過重で耐えられず、もう不幸な自分として生きることができなくなるかもしれない。
もちろんペインボディは不幸な自分という偽りの自分の一部だ。

ペインボディに支配され、ペインボディをペインボディと認識できずにいると、ペインボディがあなたのエゴの一部に組み込まれる。
あなたが同一化する対象は、すべてエゴに組み込まれていく。
ペインボディはエゴが同一化できる最も強力な対象の一つだし、ペインボディもまた自らに糧を与えて再生するためにエゴを必要としている。

しかしこの不健康な同盟関係は、やがてペインボディがあまりに重くなり、エゴの心の構造では支えきれなくなったとき破綻する。
エゴはペインボディによって強化されるどころか、つねにそのエネルギーを浴びせられて侵食されるからだ。
電流によって動く電気器具も電圧が高すぎると壊れてしまうのと同じことである。

強力なペインボディをもった人々はよくもう人生に耐えられない、もうこれ以上の苦痛もドラマも引き受けられない、というところまで追い込まれる。
ある女性はこれをずばりと、「もう不幸でいることにはうんざりだ」と表現した。
また私がそうであったように、もう自分自身を相手にしていられないと感じることもある。

そうなると内的な平和が最優先になる。
感情的苦痛があまりにも激しいので、不幸な自分を生み出して持続させている心の中身や精神、感情的な構造から自分を引き離すのだ。
そのとき人は、自分の不幸な物語も感情も実は自分自身ではないことを知る。
自分は知る対象、中身ではなく知るほうの側だと気づく。
ペインボディが人を無意識に引きずり込むのではなくて、逆に目覚めのきっかけに、「いまに在る」状態へと赴かざるを得なくなる決定的な要因になる。

しかしいま地球ではかつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、多くの人々はもう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった。
自分が機能不全の状態に戻ったことに気づいたら、思考と感情への同一化から離れて、「いまに在る」状態へと進めばいい。
抵抗を捨てて、静かに観察し、内側も外側もいまここに在る状態とひとつになるのだ。

人類の進化の次のステップは不可避ではなく、地球上の歴史で初めて意識的な選択が可能になった。
その選択をするのは誰か?
あなたである。
あなたとは何者か?
自らについて意識的になった意識である。


ペインボディからの解放

よく聞かれるのが、「ペインボディから解放されるには、どれくらいかかるのだろう?」ということだ。
答えはもちろん、その人のペインボディの密度と、どこまで真剣に「いまに在る」ことができるかで異なる。

だが当人の苦しみや他人に与えている苦しみの原因はペインボディそのものではなく、自分とペインボディとの同一化のほうだ。
何度も繰り返して過去を生きることを強制し、あなたを無意識の状態につなぎとめているのは、無意識のペインボディではなく、自分とペインボディの同一化のほうなのだ。

だからもっと大事な質問は、「ペインボディとの同一化から解放されるには、どれくらいかかるのだろう?」である。
この問いの答えは、すぐにでも可能、ということだ。
ペインボディが活性化されたとき、この感じは自分のなかのペインボディだと気づくこと。
そこに気づけば、ペインボディとの同一化を断ち切ることができる。
同一化しなくなれば、変容が始まる。
ペインボディだとわかればそれだけで、湧き起こって頭に上った古い感情が内的な対話だけでなく行動や他者との関係まで乗っ取るのを防げる。
つまりペインボディはもうあなたを利用して自らを再生することができない。

古い感情はまだしばらくあなたのなかにあり、ときおり浮上してくるだろう。
ときにはうまくあなたをだまして同一化へと持ち込み、気づきを妨げるかもしれない。
だがそれも長くは続かない。

古い感情を状況に投影しないということは、自分のなかの古い感情と直接に向き合うことを意味する。
それは心地よいことではないが、別に命まで取られはしない。
「いまに在る」ことによって、充分に押さえ込むことができる。
古い感情はあなた自身ではない。

ペインボディを感じたとき、自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。
自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。
ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはいけない。
受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。
受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。
それは「いまに在る」ことの一部である。
いまに在ることに反論はできない。
いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。
認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。
全体になれるのである。
もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。
あなたの本来の真のエネルギーが湧き起こる。
それは神の本性と一体だ。

イエスはこれについて、
「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」と言った。
新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。
これはあなたが全体にならなければならない、という意味ではなく、あなたはすでに――ペインボディがあってもなくても――全体だという意味なのだ。



 


無限性の時代の訪れを告げる歌

2019-11-11 13:49:23 | 思想、哲学、宇宙論
スーメタルの歌は、内なる無限のエネルギーに目覚めさせます。

普通の歌手が有限性の中で歌っているのに対し、スーメタルの歌には無限性が感じられます。


彼女の歌は無限のエネルギーを持ち宇宙の彼方まで届くような力を持っています。

人類を無限性に目覚めさせるために、今の時代に彼女が生まれてきたと思います。


人類は今まで有限性の中で暮らしてきましたが、これからは無限性の時代が始まるでしょう。

無限性の時代の訪れを告げる歌がアルカディアだと思います。





ケン・ウィルバー珠玉の言葉

2019-11-10 21:45:34 | 思想、哲学、宇宙論

http://dongavatyo.web.fc2.com/index.htm

アメリカの現代思想家。インテグラル思想の提唱者。アメリカ合衆国、オクラホマ州生まれ。
20以上にも及ぶ著作は世界中の言語に翻訳され、専門家・一般読者の双方に幅広く読まれている。





071 未来
  いつもそうであるが、私たちは、私たちに「あたえられている未来」を、自分で創(つく)って行かなければならない。
遍満する世界霊の降臨を促進させるのか、後退させるのか、
私たちが自分の直覚をどう現実化させていくかに掛っている。
072 世界霊の降臨
  来るべき神。
全てに遍在する世界霊の降臨。
超人、大霊、超個の夜明け。
普遍人の到来。

まれな、個別の、分離した現象としてでは無く、
呪術、神話、心的な段階が、世界中で大規模な組織的な文化となって現れた様に、
「社会の組織力の重心」となって到来する。

全てを大霊の直覚で抱擁し、
全ての生けるもの、全ての魂のコミュニティと結びつき、
その貴重性を保護する構造の中に制度化される。
(現在の、法、教育、政府、コミュニティの中に、世界中心的な合理性が保護されている様に)
(かつての日本の神社システムの様に)

物質圏、生物圏、心圏が、個々すべての個人の中で複合され、統合される。
理論としてでは無く「意識の中心的なアイデンティティ」として。

個々すべてをその善性と栄光で触れていき、その光輝と祝福で洗礼していく。
瞬(まばた)きしただけで、私たち全てが変えられてしまう。

「大霊」、「世界霊」への直覚は、世界中の個人において、その強度、頻度を増している。
こうしたことは、確かに起こっている。
073 世界は為すべきことを為す
  世界は為すべきことを為す。
ちょうど、心的な段階へ集団的に移行するのに、
農業、次に工業を学習して物質的な段階を通過しなければならなったように、
情報、コンピュータ、テクノロジーなどを学習して心的な段階を通過し、
それを超越するスピリチュアルな段階に移行するだろう。
074 物理学
  物理学は、影の世界に映し出されたシンボルを扱う学問であることを、物理学者は認識するに至った。
新旧の物理学の間には大きな差異が有る。どちらも影を扱っている。
しかし古い物理学は影を扱っていることに、気付いていなかった。
洞窟の中に居て、そのことを知らなければ、誰もそこから脱出しようとは考えない。

新しい物理学者たちは、一丸となって洞窟を超えた光の世界を見ようとしている。
「物理学は影の世界を扱う。」を合言葉に。

 

宇宙の本質である感謝・祝福・愛・喜び

2019-11-10 11:00:54 | 思想、哲学、宇宙論
https://www.starheart.jp/blog/archives/32849

人間の五感は
「感じる」ための道具ですが、





あくまでも自我の思いを
ベースにした感覚ですから、





宇宙の本質を
純粋には感じることが出来ていません。





人間の五感は、
決して当てにならないのです。





自我には愛の波動が分からないから、
たとえ、至福の光が降り注ぐ中にいても、





「そうではない」と
「感じる」のです。まさに錯覚です。誤解です。





人間自我の五感を超えて、
「魂」の自分だけが





「宇宙の本質」である「感謝・祝福・愛・喜び」を
【観じる】ことが出来ます。





自我は、高次の繊細な感覚を
感じられません。





そのほうが
自我で居続けることが出来るからです。





喜びが感じられない、祝福が湧かない、
感謝を放出できない、





それはまさに
自我の特徴です。





ただし、感覚が鈍くなって「何も感じられない」ことを、
決してダメだとジャッジしないで下さい。





「何も分かりませ~ん」と、
ふてくされて落ち込んだりすれば、





もっと感覚が
鈍くなるのです。





つまり、自我の立ち位置からは、
絶対に真実を感じることは無いのです。





あなたが魂としての
「覚醒」「自覚」を保ち続けない限り、





光の本質を【観じる】ことは
出来ません。





あなたが創造主や神々の心に一体化し、
神々と自分との差が完全に取れてしまうことを





「差取り」(悟り)と言います。







神々との差が取れて、
自分が完全に神魂それのみになりきってしまうと





宇宙の本質、光の本質、
愛・感謝・喜び・祝福を【観じる】センサーが与え直されます。





ここで一つ、
素晴らしい提案がございます。





あなたにとって
喜びや祝福を観じることが至難の業であるなら、





先ずは、あなたが「いかに満たされていないか」、
それを認識する感覚を取り戻せばいいのです。





「いかに満たされていないか」が「分かる感覚」を、
あなたはずっとシャットダウンし続けてきたのです。





それを今から取り戻しましょう。
では、しばし内観にお付き合い下さい。





ここ最近の朝、あなたは
ハツラツとした気分で起床できていましたか?





もし、それが万全に出来ていたのなら、
日々のお仕事や、イノリのワークや、





自己ヒーリングや、エネルギー・ワークなども、
楽々と「積み重ねる」ことが出来ていたはずです。





少なくとも、辛いとか、面倒だという
「自我の感覚」はみじんも湧かなかったはずです。





では、ここで
質問させて頂きます。





あなたの人生で【最高にハツラツ全開の時】って、
どんな時でしたか?





どんなシチュエーションの時でしたか?
その時と比較してみると、





今朝の起床は
何%のハツラツでしたか?





70%?50%?25%?





一旦、ブログを読み進めるのを止めて、
大まかでもいいですから、





今朝のハツラツさは
何%くらいかだったを確認して下さい。





それが分かったなら、
「どれほど満たされていないか」が明確に感じられたわけです。





ほら!
ちゃんと感じられましたよね?





満たされていない、
それは生命力が足りない状態です。





そして、その足りない分を
「無意識に」外側から満たそうとして、





自分以外の何かから
エネルギーを奪ってきたわけです。





あるいは、満たされていないことを
感じる「感覚」をシャットダウンし、





代わりに理性を使って、
いかにも「私は大丈夫」という偽の感覚で、自分自身をだましてきました。





いずれにしても、
あなたがどれほど満たされていないかが分かったのですから、





次は、自ら「自分を満たす」ための
エネルギー・ワークをして頂きたいのです。





どうやって?





光の柱を立てて、そこから沢山の光を
一気に全身全霊に浴びせるのです。





チョロチョロした勢いではなく、
一気にザ~ッと入れ込むのです。





どしゃ降りの霧雨を浴びるように
入れ込んでいきます。(これが「うけ火」です)





この時、同時に大地からも
「せりあがる光」があなたを満たしていきます。





感謝、祝福、喜びでいっぱいの状態になり、
宇宙生命力が非常に旺盛になっています。





やがて、あなたの内側が
光で満タンになりますが、





そのまま止めずに浴び続けていると
(入れ込んでいると)、





自然に自分の外側へと
あふれ出していきます。







このあふれ出したものが、
「他者への放出」となるわけです。





このような「あふれる状態」を
あなたの普通のベースにして、





そこから全てを実践するならば、
意図したことは簡単に実現します。





全てにおいて「裏表」がなくなり、
あなたの意志がスグに結果に結びつくのです。





第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと

2019-11-08 18:57:47 | 思想、哲学、宇宙論
第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと


エゴの構造

たいていの人は頭のなかの声――自分でも意図しない強迫的で絶え間ない思考の流れとそれに付随する感情――に完全に自分を同一化している。
自分の心に取りつかれている状態、と言ってもいいだろう。
そんな状態であることに気づいていなければ、頭のなかの思考の主が自分だと思い込む。
その思考の主は、エゴイスティックな心である。
エゴイスティックというのは、どの思考――どの記憶、解釈、見解、視点、反応、感情――にも自分、私という意識(エゴ)がつきまとうからだ。
スピリチュアルに見れば、これは無意識である。
あなたの思考、あなたの心の中身は、もちろん育ちや文化や家族的な背景などの過去に条件づけられている。
すべての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。
それがエゴそのものである。

ほとんどの場合、あなたが「私(I)」と言うときは、エゴがそう言っているのであって、あなた自身ではない。
これはいままで見てきた通りだ。
エゴを形成しているのは思考と感情、あなたが「私と私の物語(me and my st。ry)」として自分を同一化している記憶の集積、知らず知らずに演じている習慣的な役割、それに国籍や宗教、人種、社会階層、政治的党派などの集団的アイデンティティである。
そこにはまた、所有物ばかりでなく見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、成功や失敗という個人的なアイデンティティも含まれる。

エゴの中身は人によってさまざまだが、どのエゴでも同じ構造が作用している。
言い換えれば、エゴの違いは表面だけで、根底ではどれも同じだ。
ではどういうふうに同じなのか?
どれも同一化と分離によって生きながらえている。

心が創りあげた自己(それはエゴである思考や感情からできている)を通じて生きていると、アイデンティティの基盤は危なっかしくぐらぐらしている。
息考も感情も本質的に移ろいやすくて儚(はかな)い。
だからどのエゴも生き延びよう、自分自身を守って拡大させようともがき続けている。

エゴが「私(I)」という思考を支えるには、その対極の思考である「他者」が必要だ。
「私(I)」という概念は「他者」という概念がないと生き延びられない。
その他者は、「私(I)」が敵とみなしたときに最も確かな存在になる。
この無意識のエゴイスティックなパターンのものさしの一方の端にあるのは、人の過ちをあげつらい、不満を言うエゴイスティックで強迫的な習慣だ。
イエスが「あなたは兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁(はり)には気づかないのか?」と言ったのも、このことを指している。
ものさしのもう一方の端には、個人間の物理的暴力や国家間の戦争がある。
聖書では、先のイエスの問いには答えが書かれていないが、もちろん答えはこういうことである。
他者を批判したり非難したりすると、自分が大きくて優れていると感じられるから。


不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が創り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭のなかに留めておこうと、違いはない。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜(とりこ)になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だからもちろん自分では気づかない。
人々を見たとき、もっと多いのはその人たちについて話したり思い浮かべるとき、心のなかで否定的なラベルを貼りつけるというのもこのパターンの一つだ。
悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずにはいられないエゴの必要性を満たしてくれる。
「馬鹿、ろくでなし、あばずれ」、どれも話し合いの余地のない決定的な言葉だ。
この無意識のその下のレベルには怒鳴ったり喚(わめ)いたりがあり、さらにそのずっと下に物理的な暴力がある。

恨みは不満や精神的なラベル粘りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きなエネルギーを汲み取る。
恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと感じる、傷ついたと思うことだ。
人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。
エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識を見すごさず、相手と同一化する。

誰がそうしているのか?
あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。
また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。
それに他人のなかに見て反応することほど、自分のなかにもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなくへ人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものではないと気づけば、相手個人に反応しようという衝動はなくなる。
そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を引き出せる場合が多い。
状況によっては、根深い無意識に動かされている人々から自分を守るために、現実的な手段を取らなければならないかもしれない。
その場合も相手を敵とせずに行動することはできる。

しかし最大の防衛策は意識的であることだ。
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく強さである。
反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見すごすこと、いや見抜くことである。
エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。

エゴは他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つのが大好きだ。
人に対してできることは、状況にもできる。
つまり状況を敵にすることもできる。
それはいつもこんな思いとして現れる。
こんなことが起こっていいはずがない。
私はこんなところにいたくない。
こんなことはしたくない。
こんなのは不公平だ。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。

不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。
不満をもたないことは、必ずしも質の悪さや劣悪なふるまいを我慢することではない。
ウェイターにスープが冷めているから温めなおす必要があると伝えることは――事実だけを取り上げるなら、事実はつねに中立だから――エゴではない。
「よくも私にこんな冷めたスープを出せたもんだ・・・・」。これは不満である。
ここには「この私に」という意識があり、冷めたスープに個人的な侮辱を感じてここぞとばかり騒ぎ立てる「私」、誰かが悪いと決めつけて喜ぶ「私」がいる。
この不満は変化を起こすのではなく、エゴを喜ばせるのに役立つだけだ。
ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。
それなら不満を言い続けられるから。

何かに不満をもったとき、頭のなかの声を把握できるかどうか、つまりその正体に気づけるかどうか、試してごらんになるといい。
それはエゴの声、条件づけられた心のパターン、思考でしかない。
その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、その声に気づいているのが自分であることがわかるだろう。
実際、声に気づいている、その「気づき」があなたなのだ。

背景にはその気づきがあり、前景には声、思考の主がいる。
この仕組みに気づけば、あなたはエゴから解放され、エゴが見えていない心から自由になれる。
自分のなかのエゴに気づいたとき、それは厳密に言えばもうエゴではなく、古い条件づけられた心のパターンになる。
エゴとは無意識である。
気づきとエゴは共存できない。
何千年ものあいだ続いてきた人間の集団的無意識がその背後にあるのだから、古い心のパターンあるいは精神的な習性はしばらくは生き残って、ときおり顔を出すかもしれないが、気づかれるたびに衰えていくだろう。


反応と怨恨

恨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りやその他の感情的動揺がつきまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填(じゅうてん)される。
そのとき不満は、もう一つのエゴの自己強化策である反応に変わる。

いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛立ったりむかついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。
「なんてことだ、頭にくる」
「よくも、あんたはこんなことを・・・・」
「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。
怨恨を抱くといのは、いつも「対立」している状態で、だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。
集団的な怨恨は国や部族の心理のなかで何世紀ものあいだ生き延び、終わりのない暴力の悪循環の火に油を注いでいる。

怨恨はときにははるか昔の出来事と結びついた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭のなかで、あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しいままでいる。
この怨恨の影は人生の他の領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳(かげ)って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。

自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全にゆるせない何者かが、つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている思考に気づき、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。
怨恨を捨てようとかゆるそうとしてもうまくいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいたとき、自然にゆるすことができる。

真実を見抜けば解放される。
「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを解体しなさい、ということだ。

過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力をもっているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。
古い考えと感情というお荷物ではないか。


正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存続を支える境界や分離という意識を強固にするが、同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や「強欲な金持ち」や「怠け者の失業者」に対する、あるいは同僚や元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、ちょっとわかりにくいかもしれない。

実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。
正しいというのは、ある精神的な立場――視点、見解、判断、物語――と自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいと言うためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。
言い換えれば、自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなければならない。
間違っているのは人だけではない。
ある状況も、不満や拒否反応を通じて間違いだと決めつけられる。
「こんなことは起こってほならない」というわけだ。
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。


幻想の防衛

疑いようのない事実というものは存在する。
たとえばあなたが「光は音より速い」と言い、誰かが逆だと言ったら、もちろんあなたのほうが正しくて相手が間違っている。
あなたが正しいことは、稲妻のほうが雷鳴より速いことを観察するだけで確認できる。
だからあなたのほうが正しいだけでなくあなたは自分が正しいことを知っている。
ここにエゴは介入しているだろうか?
可能性はあるが、必ず介入しているわけではない。
あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分を同一化していないからだ。
何に同一化していないのか?
心、ある一つの見解にである。
しかし、この同一化はあなたのなかにやすやすと入り込む。
もしあなたが「信じなさいって、私にはわかっているんだから」とか「どうしていつも私を信じないんだね?」と言うとしたら、すでにエゴが入り込んでいる。
エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。

「光は音より速い」という言葉は依然として真実だが、それが幻想を支え、エゴに利用される。
「私」という間違った意識に染めあげられ、個人化され、一つの見解、精神的な立場になる。
誰かが「私」の言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。

エゴはすべてを個人的に受けとめる。
そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?
そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。
光も音もあなたや誰かがどう考えようと関知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が創り出した自分の代替物を防衛しょうとしている。
幻想が自らを防衛しようとしていると言うほうがもっと正確だろう。
最もシンプルで明快な事実でさえエゴイスティックな歪曲と幻想に影響されるなら、それよりも具体的でない見解や視点や判断、つまり「私」という意識と簡単にごちゃまぜになる思考は、どれほどやすやすと影響されることか。

どのエゴも、見解や視点を事実と混同する。
さらに出来事とその出来事への反応を区別しない。
どのエゴも知覚の一部を選び、解釈を歪めるのに長けている。
(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。
こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が可能だと、言い換えれば違う見方や対処方法があるとわかる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。


真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。

だが「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する方法の1つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と抗争が終わらない原因であるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
そうなると、まさにキリスト教関係者がこの時代の最大の悪だと批判する倫理的相対主義(人間行動の指針となる絶対的真理などないという考え方)に陥りはしないか?

もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。
そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。
教会は何世紀ものあいだ、自分たちの教義や聖書(あるいは「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺さなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。
ではその「真理」とは何なのか?
あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。

カンボジアの独裁者ポル・ポトが殺害を命じた百万人のなかにはメガネをかけている者全員が含まれていた。
なぜか?
ポル・ポトに言わせれば歴史のマルクス主義的解釈が絶対的な真理であり、その絶対的真理のポル・ポト版によると、メガネをかけている者は教養のある階級、ブルジョワ、農民の搾取者だからである。
新しい社会秩序をつくるために、彼らは抹殺されなければならない。
ポル・ポトの真理も思考の塊だった。

カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど正しい。
だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?
思考からできあがっているということである。
思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。

すべての宗教はどれも誤りでありどれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。
エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。
そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に分裂や紛争を引き起こす。
「真理」に役立てれば、宗教の教えは目覚めた先輩たちが残した道標、地図となってスピリチュアルな目覚めを、つまり形への同一化からの解放を助けてくれるだろう。

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。
その「真理」を見出したとき、あなたの行動はすべて真理に沿ったものとなる。
人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?
表せる。
だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、真理を指し示すにすぎない。

その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。
イエスはこのことを、「私が道であり、真理で通り生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も力強く最も直接的に「真理」を示した。
ただし正確に理解されればであって、誤解されるととんでもない障害になる。
イエスの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての生きとし生けるもののアイデンティティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。
キリスト教神秘主義者のなかにはこれを「内なるキリスト」と呼ぶ人々がいる。
仏教では仏性と言う。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。

自分のなかにあるこの次元と触れ合うとき――この触れ合いは本来の状態であって、別に奇跡的な偉業ではない――あなたの行動も人間やモノとの関係も、あなたが自分の内奥で感じるすべての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。
それが愛である。
法律や戒律や規則や規制が必要なのは、真の自分、自分の内なる「真理」と切り離されている人たちだ。

その人たちには、エゴの最悪の暴走を防ぐ役に立つだろうが、それすらも果たせないことも多い。
「愛し、思うままに行動せよ」と聖アウグスティヌスは言った。
言葉ではこれ以上に「真理」に近づくことはできないだろう。


エゴは個人的なものではない

集団的なレベルの「正しいのはわれわれで、彼らは間違っている」という考え方は、国家間、人種間、民族間、宗教間、イデオロギー間の激しい紛争が延々と燃え盛る世界の紛争地帯にとくに深く根づいている。
対立する陣営はどちらも自分たちの見方、「物語」、つまり思考と自分を同一化している。
どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、それもまた妥当かもしれないことを理解できない。
イスラエルのジャーナリスト、Y・ハレヴィは「競合する語りの調整」の可能性に言及したが、世界の多くの場所の人々にはまだそれができないか、その意志をもてない。
対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。
どちらも自分たちは犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっているので、おとなどころか子どもたちにまでありとあらゆる暴力を振るうことができるし、人間らしい心の痛みも苦しみも感じないでいられる。
この人たちは攻撃と報復、やられてはやり返すという悪循環に陥っている。

これを見ると、「われわれ」対「彼ら」という集団的な場に現れる人間のエゴは、「私」という個々のエゴと仕組みは同じでも、さらに狂気じみていることがよくわかる。
人間がお互いに振るってきた暴力の多くは犯罪者や精神異常者の手によるのではなく、ごく普通の立派な市民が集団的エゴに駆られて実行したものなのだ。
それどころか、この地球では「ふつう」とは狂態だと言うことさえできるかもしれない。
この根底にあるのは何か?
思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである。

食欲、自己中心性、搾取、残虐性、暴力はいまもこの地球にはびこっている。
それが根底にある機能不全あるいは精神の病の個々及び集団的な現れであることが認識できないと、それを個人的なものと受け取る過ちを犯す。
個人や集団についての観念的なアイデンティティをつくりあげ、「彼はこういうやつだ、彼らはこういう人間だ」と言い出す。
あなたが他者のなかにあるエゴを相手そのものと混同したとき、あなた自身のなかのエゴはその誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。
こうしてエゴは大きな満足を得る。
あなたと他者は別の存在だという意識が強くなり、相手の「他者性」がとんでもなく拡大されて、もう相手が自分と同じ人間だとは思えず、人間として根源的な一つの生命を共有していることも、人間に共通の神性も感じられなくなる。

特定のエゴイスティックなパターンを誰かに発見して強く反応し、それが相手そのものだと誤解するときは、たいてい自分自身にも同じパターンが存在するのだが、自分ではそれを見分ける力もないし、その気もない場合が多い。
その意味では、相手から学ぶことはたくさんある。

あなたがいちばんむかつくのは、腹立たしいのは、相手のどんなところだろう。
自己中心的なところか?
強欲さか?
権力欲、支配欲か?
言行不一致なところか、不誠実さか、暴力的傾向か。さて何だろう?
何にしても、あなたがいちばん恨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身のなかにもある。
だがそれはエゴの1つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間ともあなたという人間とも、関係ないのだ。
ただその資質と自分を同一化してしまうと、それを自分のなかに発見したとき、自己意識が脅かされたと感じるだろう。


闘いは心の癖

他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。
そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。
無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。
無意識つまり機能不全のエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。
たとえ相手を打ち負かしても、その無意識は単にあなたのなかへ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。
何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。

あれやこれやとの「闘い」という表現を最近よく耳にするが、そのたびに私は、闘いは失敗するに決まっている、と思う。
麻薬との闘い、犯罪との闘い、テロとの闘い、ガンとの闘い、貧困との闘いなどと言う。
だが、たとえば犯罪や麻薬との闘いが行われているにもかかわらず、この二十五年で犯罪や麻薬がらみの違法行為は劇的に増加した。
アメリカの刑務所の収容人員は一九八〇年には三十万人足らずだったのに、二〇〇四年にはなんと二百十万人に激増している。
病気との闘いで、私たちは抗生物質を手に入れた。
最初は目覚ましい効果があり、感染症との闘いに勝利をもたらすかと思われた。
ところが現在では多くの専門家が口をそろえて、抗生物質の広範な無差別的使用は時限爆弾だ、スーパー・バクテリア(抗生物質耐性菌)のせいで感染症が復活し、爆発的に流行する恐れがあると言っている。
アメリカ医学会誌(JAMA)によれば、治療行為は心臓病、ガンに次いでアメリカ人の死因の第三位にランクされている。
西洋医学に代わる病気への取り組みとしてはホメオパシー(同種療法)と漢方医学があり、どちらも病気を敵として扱わないので、新しい病気を引き起こすこともない。

闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生み出す。
あなたの意識の状態と外部的現実とのあいだには深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖に囚われていると、あなたの知覚はきわめて選り好みの強いものとなって歪められる。
言い換えれば見たいものしか見ず、しかもそれを曲解する。
そんな妄想のシステムからどんな行動が生じるかは、簡単に想像がつくだろう。
想像がつかなければ、今夜のテレビニュースをごらんになるといい。

エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。
ありのままを認識すれば、もうそれを誰かのアイデンティティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないでいることも容易になる。
個人的に受けとめることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、お前が悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。
それは誰かのなかのエゴ、それだけのことだ。
人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいるとわかれば、共感をもてるし、優しくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?
反応だ。
エゴは反応を糧にして肥え太る。


平和と波乱、どちらを望むか?

あなたは平和を望むだろう。平和を望まない者はいない。
だが、あなたのなかには波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。
いまこの瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。
だが何らかの状況が(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金を引いたらどうか。

誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、あなたのやり方をあげつらった、金品をめぐって言い争いになった・・・・そのときあなたは自分のなかで、何か大きな力が、たぶん怒りや敵意の仮面をつけた恐怖が盛り上がってくるのに気づけるか?
声が荒々しくあるいは甲高くなったり、何オクターブか低い大声になったと自覚できるか?
心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのがわかるか?
言い換えれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気づけるだろうか?
自分のなかに戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも生き延びようと望む者、波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンティティを確認するために劇的状況を必要とする者がいることを感じ取れるだろうか?
平和よりも自分が正しいほうがいいと言う何者かが、あなたのなかにいることを感じられるだろうか?


エゴを超えて:真のアイデンティティ

エゴが闘っているとき、そこで生き延びるために闘っているエゴとはただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
そのエゴという妄想は、自分こそあなただと考えている。
そのとき「いまに在る」証人として状況を見つめることは、初めはそう簡単ではない。
エゴがサバイバル・モードに入っているか、過去をひきずった感情的なパターンが作動しているときはとくに難しい。

だが一度その感覚を味わえば、「いまに在る」パワーは高まり、エゴの束縛力は失われるだろう。
エゴや心よりもはるかに大きな力が、あなたの人生に生まれる。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。
気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、いまのこの瞬間に秘められた力だ。
だから、「いまに在る」ことと表現できる。
人間という存在の究極の目的は(それはあなたの目的でもある)、この「いまに在る」力を世界に広めることだ。
それはまた、エゴからの解放が将来達成すべき目標ではないのはなぜかという理由でもある。
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できるし、あなたは昨日でも明日でもなく「いま、この瞬間」にしか存在できない。
「いまに在る」ことだけがあなたのなかの過去を解体し、あなたの意識の状態を変容させる。

スピリチュアルな目覚めとは何か?
自分がスピリット(霊)であるという信念か?
いや、それは一つの思考だ。
出生証明書に記されているのが自分だという信念よりは多少真実に近いが、それでも思考には変わりない。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くことである。
これを明確に見抜いた最初の人間はたぶんプツダで、だからブツダの教えの核心の1つはアナッタ-(無我)だった。
またイエスが、「あなた自身を捨てなさい」と言ったのは、自己という幻想を否定(そして解体)しなさい、という意味だった。
自己――エゴ――がほんとうに私なら、それを「捨てる」というのは筋が通らない。

この幻想の自己を捨てたとき、残るのは知覚や体験や思考や感情が現れては消える意識の明かりだ。
それが「大いなる存在」、深い真の「私」である。
この「大いなる存在」としての自分を知ったとき、人生で絶対に重要な出来事というものはなくなりすべてが相対的な重要性しかもたなくなる。
その出来事を尊重はしても、絶対的な深刻さや重さはもはや感じない。

結局のところ、大切なのは次のことだけだ。
人生という背景のなかでつねに「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」ということを感じていられるか?
もつと正確に亭えば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンティティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか?


すべての構造物は不安定

どんな形をとるにしても、エゴの奥には自分が考える自分のイメージ、幻の自己を強化したいという強い無意識の衝動がある。
その自己イメージ、幻の自己は、思考――大きな恵みであると同時に手ごわい厄介もの――がのさばりだして、自分が「大いなる存在」「源」「神」とつながっているという、シンプルだが深い喜びを覆い隠したときに出現する。
どんな行動となって現れるにせよ、エゴの隠れた動機はつねに同じだ。
目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっともっと欲しい、ということである。
それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。
つまり対立相手、敵が必要になる。

エゴはつねに他者あるいは状況に何かを求めている。
いつも隠れた課題を抱えているのだ。
「まだ充分ではない」と感じ、非充足感、欠乏感に苛立っていて、なんとかそれを埋めなければならない。
そのために人や状況を利用するが。たとえ一時は欠落を埋められても、その成功は決して長続きしない。
目的を遂げられないことも多いし、たいていは「私が望む」ことと「実態」とのギャップに動揺し苦しむ。
いまは古典となった有名な「サティスフアクション」は、まさにエゴの歌だ。

エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消す
るためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。
幻想は決してあなたを満足させてはくれない。
ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。

なぜ不安なのか?
エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。
だから外見はどれほど自信満々に見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。

以前友人とカリフォルニアのマリブに近い美しい自然保護区を散歩していたとき、何十年か前に焼け落ちたらしいカントリーハウスの廃櫨を見た。
樹木もいろいろなすばらしい植物も野放図に伸び、そばの道端には公園管理者が立てた看板があって「危険。すべての構造物は不安定」と書かれていた。
「なんと意味の深いス-トラ(聖旬)じゃないか」。
私は友人に言い、二人とも感動してしばし佇(たたず)んだ。
どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気づき、それを受け入れると、身のうちに安らかな気持ちが湧き起こる。
形あるものは儚(はかな)く無常だと認識したとき、自分のなかの形のない次元、死をも超える次元に目が開かれるからである。
イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。


優越感をもちたいエゴ

エゴにはつい見すごしがちな微妙な形がたくさんある。
あなたはそれを他者に、そしてもっと大事なことだが自分にも見ることができるはずだ。
覚えておいてほしい。
自分のなかのエゴに気づいたとき、気づいているのはエゴを超えた自分、もっと深い「私(I)」である。
インチキに気づいたときには、すでに本物が現れているものなのだ。

たとえば、誰かにニュースを知らせようとする。
「ねえ、聞いた?
え、まだ知らないの?
それじゃ教えてあげる」。
そのとき、あなたが注意深くて、きちんと「いまに在る」ことができていれば、たとえそれが悪いニュースでも話そうとする一瞬に満足感がよぎるのがわかるだろう。
そのわずかな瞬間、エゴの目からすれば自分に有利で相手には不利な不均衡が生じているからだ。
その瞬間、あなたは相手より「多く」を知っている。
あなたが感じた満足感はエゴのそれで、他人との関係で自分が強者になったと思うことから生じている。
相手が大統領だろうが法王だろうが、その瞬間はあなたのほうが「多く」を知っていることによって優越したと感じるのだ。
たいていの人がゴシップに目の色を変える理由の一つはここにある。
さらにゴシップのほとんどには他人への悪意の批評や批判という要素があり、それも自分のほうが倫理的に優位に立ったという想像を通じてエゴを強化する。
誰かに否定的な判断をするときには、きっとこの優越感がある。

誰かが自分より多くを所有していたり、知っていたり成し遂げていたりすれば、エゴは脅威を感じる。
自分のほうが「劣る」と感じると、想像上の自己が他人と比べて小さく縮んでしまうからだ。
そうするとなんとか自己を回復しようとして、相手の持ち物や知識や能力の価値を定めたり、批判したり、けなしたりする。
世間で重要人物とみなされている相手なら戦略を変えて、直接競争する代わりに相手との関連で自分を強く見せようとする。


エゴと名声

有名人の名前をさりげなく持ち出してアピールするのは、「重要」人物との関係を匂わせて自分を偉く見せ、それによって自分自身も優越感を味わおうというエゴの戦略の一つだ。
世間で有名になるとつらいのは、集団的なイメージによって本当の姿がかき消されてしまうことである。
出会う人のほとんどはあなたとの関係を利用して自分のアイデンティティを――当人がもつ自己イメージを――強化したがる。
その人たちは自分でも気づいていないかもしれないが、あなたに関心があるわけではなく要するに虚構の自己意識を強化したいだけだ。
彼らはあなたを通じて自分をふくらますことができると信じている。
あなたを通じて、というより有名人というあなたのイメージ(勝手に一人歩きする集団的な概念としてのあなたのアイデンティティ)を通じて、自分を完成させようとする。

名声の馬鹿馬鹿しいほどの過大評価は、この世界にたくさんあるエゴイスティックな狂気の表れの1つだ。
有名人のなかには自分でも同じ過ちに陥り、人々やメディアが創り出した集団的なフィクションに自分を同一化して、実際に自分はそこらの人間たちより優れていると思い込む人たちもいる。
結果として、その人たちはますます自分自身からも他人からも疎外され、ますます不幸になり、名声を維持することにますます振り回される。
ふくらました自己イメージをいっそう助長する人々にだけ囲まれていたのでは、真の人間関係は築けない。

アルバート・アインシュタインはほとんど超人扱いされるほど賞賛され、地上で最も有名な人物の一人になる運命だったが、人々が集団的に創りあげたイメージと自分を決して混同しなかった。
彼は有名になっても依然として慎ましくエゴイスティックなところがなかった。
それどころか、彼は「人が考える私の業績や能力と、ほんとうの私、ほんとうの能力にはグロテスクなほどの違いがある」と言っている。

有名人が他者と真の人間関係を結びにくい理由はここにある。
真の人間関係とはエゴのイメージづくりや自分探しの支配を受けないものだ。
真の人間関係には相手への開かれた明断な関心の流れがあり、そこでは相手に何も求めてはいない。
この明断な関心が「いまに在る」ことで、すべての本物の人間関係に必須の要件である。
エゴはいつも何かを求めていて、相手には求めるべきものが何もないと思えばまったく無関心になる。
相手のことはどうでもいいのだ。
だからエゴイスティックな関係にいちばん多い三つの状態とは欲求、欲求の挫折(怒り、恨み、非難、不満)、それに無関心である。