思想家ハラミッタの面白ブログ

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『鬼滅の刃』とコロナ

2021-02-08 12:29:11 | 思想、哲学、宇宙論

https://ameblo.jp/jaytc/entry-12655253842.html


武漢ウイルス禍が発生した2020年、わが国で最もヒットした「商品」は、PCR検査と『鬼滅の刃』だった。
週刊少年ジャンプでの連載は2016年11号から2020年24号まで、TVアニメ『竈門炭治郎 立志編』(東京MXほか)は、2019年4月から9月までテレビ放送されていたので、2020年に起こった武漢ウイルス禍と、短絡的に「鬼滅の刃」の内容を因果関係で結びつけるには無理がある。
とはいえ、武漢ウイルス禍中の2020年10月に公開された『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は、わずか2か月後の2020年12月に、スタジオジブリの『千と千尋の神隠し』を超えて、日本歴代興行収入1位を樹立した。
このことは、世界的な武漢ウイルスの「パンデミック」という、ある種の極限状況に置かれたぼくら日本国民が、今、何を求めているのかという社会学的考察の対象たり得ることを示しているだろう。
原作漫画には、幼かった主人公竈門炭治郎(かまどたんじろう)の母がわが子を教え諭すシーンがある。
ここに、『鬼滅の刃』のモチーフがすべて含まれているといってもいいだろう。

母「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」
炭治郎「…わかりません」
母「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため、人のために使わねばなりません。天から賜りし力で、人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように。」

炭治郎は、この母の言葉を忠実に守って、過酷な運命を生きていく。
詳細なあらすじは、映画を含め、まだこの物語をよく知らない人が多い「現在進行形」であるため、記さないが、貧しく、純情かつ直情的で、天賦の才能を持つ幼い主人公が、努力と根性と友情で戦闘技術を開花させ、「巨大な悪」と戦って勝利するという『少年ジャンプ』ないしジャパニメーションの「定番」といえるプロットの枠組みが、ストレートに発揮された作品であるといえる。
例えば、炭治郎は、「家族全員を殺され、鬼となった妹を人に戻すために鬼殺隊に入った貧しい炭売りの少年」だが、髪と瞳が赤い「赫灼の子」であり、幼い時に弟を庇ってできた火傷跡は、優れた鬼殺隊士の証である。誕生時にすでに亡くなっていた貧しい炭売りの父も、実は「ヒノカミ神楽」を伝承する由緒ある家柄であり、遺伝的に異常なほどの嗅覚も、変幻自在に外見を変えて市井に紛れる敵ボスキャラ、鬼舞辻󠄀無惨(きぶつじむざん)を嗅ぎ分けるのに有効だった。
ちなみに、「貧しく、純情かつ直情的で、天賦の才能を持つ幼い主人公が、努力と根性と友情で戦闘技術を開花させ、巨悪と戦って勝利する」というキャラクター設定は、世界中のあらゆるヒーロー物に共通であり、BABYMETAL神話におけるSU-METALにも継承されている。


しかも、BABYMETALにおいては、さくら学院時代に「靴を反対に履いている」「スカートの下にパジャマを着たままレッスン場に現れる」等のエピソードや、「職人が力ずくで練ったうどん」「ハリーさん」「デロリアン」等の発言で天然っぷりを発揮した中元すず香の映像が残っており、そこから欧米のライブで数万人の観客を煽る姿を見ると、Darksideで強まったMOAMETALとの深い絆も含めて、ぼくらは「アニメのような展開が現実に起こっている!」と感動してしまうわけだ。
それはともかく、『鬼滅の刃』は、『るろうに剣心』につながる大正時代・和風伝奇剣劇という設定や、主人公が身につける「技」の数々、徐々にステージが上がっていく敵との戦闘ドラマなど、緻密に作られた設定や、水墨画を思わせる最新のアニメーション技術などの新しさはあるものの、大きなストーリー展開はきわめてシンプルである。
なぜ、こういうシンプルなストーリーが、現在のわが国で熱狂的に支持されるのかというのが、ぼくの問題意識なのである。
結論から言ってしまえば、この物語の「鬼」のリアリティが、「パンデミック」を引き起こした「悪」を象徴しているからではないか。
鬼舞辻󠄀無惨も、元は人間であり、その「血」によって誕生した「鬼」たちも、悪役ながら、ドラマツルギーの常套手段として、悲しい過去や、悪にならざるを得なかった因縁を抱える存在として描かれている。
単純な勧善懲悪ではなく、敵役が人間的な弱みや葛藤を抱えているからこそ、それを退治するヒーローの「正義」に、悲壮感や深みが生まれ、ドラマになるのだ。
例えば『ウルトラマン』(初代)で、元は地球人の宇宙飛行士だったジャミラが、異星人ながら地球を守るウルトラマンに水をかけられて死んでいく姿や、1983年の新日本プロレスで、革命軍を名乗り悪役だった時代の長州力が藤波辰巳(当時)からWWFインターベルトを奪った時に、「俺の人生にも一度くらいはこんなことがあってもいいだろう」と、しみじみ言ったことで、立場が逆転したエピソードを思い出してほしい。
と言っても、若い人には全然わからないだろうな。まあ、「ジャミラ」「俺の人生にも一度くらいは…」で検索してみてね(^^♪)
つまり、悪役に人間味を付与するという意味でも、『鬼滅の刃』の作劇法は、セオリーに忠実なのである。
こう考えると、現実世界で撲滅すべき「人類の敵」と見なされている武漢ウイルスが、次々と変異しながら広がっている姿は、『鬼滅の刃』に登場する「鬼」が、人間の鬼殺隊士の攻撃と、「鬼」の祖である鬼舞辻󠄀無惨による粛清を恐れながら、必死に生き残ろうとする姿とオーバーラップするのは理解できる。
だが、敵役が「悪になる動機」=ある種の人間性を持つ存在であっても、ヒーローにどうしても退治されねばならない理由は、その存在が人類とは相容れないからである。
『鬼滅の刃』において、「鬼」は人間を食らわなければ生きていけない。食われないようにするには、人間のヒーローが「鬼」を根絶しなければならない。いわば「天敵」であり、戦わずに共存できる存在ではない。だからこそ、鬼舞辻󠄀無惨と、彼を生み出してしまった産屋敷一族が人類に対する使命感から結成した鬼殺隊との存亡をかけた、千年以上も続く戦いが始まったわけだ。
しかし、武漢ウイルスは、古くから人間と共存してきたコロナウイルスの変異種である。
ウイルスは宿主である人間と共存しなければ生きていけない。発熱・咳といった症状を、ぼくらは「病気」というが、それは人間側の抗体反応であって、免疫が強ければ、生きたウイルスが入り込んでも発症しないか、軽症で治癒する。人体には無数のウイルスが共存しているのであって、わが国には「コロナゼロ」を党是にしている馬鹿政党があるが、それこそ世界中の物笑いの種、「日本の恥」である。
死んだウイルスのRNA断片を、高いCT値のPCR検査で増幅・検知して「感染者」と呼び、死者の9割が高齢者ないし基礎疾患保有者であり、主たる要因が武漢ウイルスの体内増殖したことによるものでなくても「武漢ウイルスによる死」と診断しているのが、「パンデミック」の正体である。
武漢ウイルスは、変異を繰り返しながら感染力を高めているが、2020年1月~4月に武漢市やイタリアやNYで「医療崩壊」が起こったのがウソのように、致死率、死亡率は下がっている。要するにウイルスは弱毒化して人間と、より平和的に共存しようとしているのだ。
それを、「パンデミック」にしてしまったのは、ウイルスのせいではなく、医療関係者である。
具体的には、
(1) 発症した者ではなく、PCR検査の陽性判定を「感染者」と認定し、
(2) 無症状の感染者(=PCR検査でウイルスの死骸が検出された者)が他の人に感染させる(=濃厚接触によって飛散したウイルスの死骸が付着したのをPCR検査で検出された者)という二重のウソを防疫政策のベースに置き、
(3) 陽性判定者=「感染者」(=ウイルスの死骸が付着した者を含む)を、すべて隔離しなければならないという法的規定をしたこと
の3点が、現実にぼくらの生活や経済活動に打撃を与えている「ロックダウン」の原因である。
『鬼滅の刃』の敵ボスキャラである鬼舞辻󠄀無惨は、平安時代の貴族、産屋敷家の御曹司であり、身体が弱く、成人できずに死ぬと言われていたが、お付きの医者が試作段階の「新薬」を投与したことによって、日光を浴びることはできないが、不死身の肉体を持ち、人間を食らう最初の人喰い鬼となった。
つまり、『鬼滅の刃』の設定で、主人公の家族を殺し、妹を「感染」させた鬼=「悪」は、人間=医療関係者が生み出したものだった。
その意味で、「鬼」に具象化されたDYSTOPIAとしての『鬼滅の刃』の作品世界の、人間とは相いれない「悪」は、現実社会においては、武漢ウイルスそのものというより、それを媒介にして利権を漁り、人類支配を目指す「悪」=医療マフィアなのである。
「〇〇の鬼」という言い方があるように、日本文化において「鬼」とは、常人以上の技術や能力に執着することで、普通の人間らしい情緒を失ってしまった「元人間」を指す。
そして、日本文化の伝統において、それは自然から離れた「穢れ」のひとつであった。
死にかけた幼い鬼舞辻󠄀無惨を生き永らえさせようとした医者の、必死の努力の成果といえる「鬼化する血」も、やはり自然の摂理に抗う「穢れ」であり、日光ないしヒノカミ(=日の神または火の神)によって「禊ぐ」ことで、「穢れ」を断つという物語が『鬼滅の刃』なのである。
もちろん、『劇場版 鬼滅の刃 無限列車篇』に心動かされ、励まされ、泣いた観客が、すべて医者=人間が生み出した「鬼」=「穢れ」の悲劇を、武漢ウイルスによる「パンデミック」の真相と重ねているわけではないだろう。
だが、統計的に言えば、わが国における武漢ウイルス「感染者」は2021年2月6日時点で40万人強だが、『劇場版 鬼滅の刃 無限列車篇』の延べ観客動員数は、2020年12月時点で2404万人に達している。
フィクションのDYSTOPIAのリアリティが、リアルな現実のDYTOPIAを圧倒しているのだ。
誤解を恐れずに言えば、マスコミで毎日拡大再生産されている「武漢ウイルスの脅威」よりも、「人間が作った穢れ=鬼を退治する竃門炭治郎の少年ジャンプ的ヒロイズム」を信じる者の方が、圧倒的に多いということだ。


ここへ来て、トマス・モアの「ユートピア」からスタートしたDYSTOPIAの歴史は、日本文化が伝統的に持つ「穢れと禊ぎ」の概念によって浄化され得ることがわかる。
結局、DYSTOPIAとは、人間の欲望が生み出すものである。
理性とは、自然の摂理に抗い、生の感情を抑圧し、永遠の命を得ようとする欲望をエネルギーとする。
それは、ある限度までは、人類を自然の脅威から守り、社会的存在としての人類の生活を安定させる有益なものである。衣服、住居、内燃機関、電気、水道、それらを効率的にコントロールするコンピュータといった「文明の利器」は、現代を生きるぼくらの生活に欠かせないものである。
だが、その限度を超えて、真理を知った一握りの人間がすべての人間を「合理的」に支配できると思ったり、最新の医学を用いれば永遠の命が得られると考えたりすれば、本来「欲望」に過ぎない理性が暴走して、「穢れ」に転じ、人類に災いをもたらす。
その典型が、一党独裁を正当化する「科学的社会主義」=共産主義であり、遺伝子技術を安易に感染症に適用した武漢ウイルス禍である。
2019年末~2020年1月に、中国で、PCR検査を新種のウイルスの早期発見に応用しようとして必死で分析した医師や研究者も、最初から「パンデミック」を引き起こそうとしたわけではなかった。
もっと言えば、ロシア共産党や中国共産党の草創メンバーも、最初から独裁権力と情報統制で人民を支配することを目的にしていたのではなく、日本も含めた帝国主義列強に敗け続けていた自国を盛り返し、貧富の差をなくして平等かつ効率的な社会を築こうする志を持っていたのだろう。
だが、畢竟、欲望のひとつのカタチに過ぎない「己の理性」のみに頼る限り、自然の摂理に抗う欲望の暴走=「穢れ」に堕してしまったのだ。
DYSTOPIAは「理性信仰」によって生まれる。
宗教を否定するサヨク的性向を持つ人々がPCR検査を盲信し、結果DYSTOPIAに加担してしまうのは、そのためである。
理性なしでは人間は生きていけない。いまさら文明生活を否定して「自然に帰れ」と呼びかけることは無責任である。
だが、過度の理性は「穢れ」に転じ、災いをもたらす。
世界がDYSTOPIAを脱するには、「動物以上、神以下」である人間という存在の本質をしっかりと認識し、遺伝子技術などに頼るのではなく、すべての人間が生まれつきご先祖様から受け継いだ免疫力という、あらゆるウイルスと共存する能力を大切にすることだ。
風邪は医者には治せない。治せるという医者がいたら、そいつは藪医者だ。