2-2 時間の秘密
■記憶の仕組み:過去世からの影響の解消
人は、自分の過去を振り返ってみると色々なことを思い出すものだ。楽しかったことや嬉しかったこと、悲しかったことなど様々である。しかし、人が記憶している自分の過去の体験は、本当に実際に起こったことなのだろうか。例えば、過去の思い出の中で、嬉しかった出来事のことを想像するとその当時の様子が蘇ってきて、心が温かくなったり、自然と笑みがこぼれてきたりする。逆に辛かったことや自分が失敗した恥ずかしい体験などを思い出すと、胸がキューっと締め付けられる様ないやな感情がこみ上げたことを体験したことがあるだろう。この様なことは、誰もが一度や二度、味わっているはずである。人の一生は、この様な、過去の体験の記憶で出来上がっていると言っても過言ではない。しかし、それら記憶の中の出来事は、確かに起こり発生したものかも知れないが、自分が記憶している過去の体験の内容は、実は、実際に起こった出来事そのものでは無い場合がほとんどなのである。
このことは、人が、どの様に過去に起こった出来事を体験として記憶するかを、順を追って見てゆくとわかりやすい。そのプロセスをチャートで表すとこの様になる。
1.出来事との遭遇
2.出来事を認識する
3.出来事に対して、善し悪しなどの価値判断をつける
4.一つの出来事の体験として記憶する
まず、何かの出来事が発生する。これは、1の出来事のとの遭遇になる。もし、自分がそこに居なければ、その出来事が起こったことすら知らないと言うことになる。つまり、目で見たか、耳で聞いたか触ったのか、どのような形であったかは別として、自分が、その場でその出来事の存在を認識できる場に居たことが第一と第二の条件となる。そして、次に、その出来事が、自分に取って良かったことか悪かったことか、また、何でも無いことなのかなど、その内容に対して意味や価値を付けて行くのだ。これが、3の出来事に対して、善し悪しなどの価値判断をつけるということになる。
そして、たいがいの場合、3の時には、あ~!とか、ええ~!とか、嬉しい、悲しい、悔しい、などの様々な感情が出てくるものだ。人が、過去の体験を第三者に語るときには、1の出来事だけをロボットみたいに淡々と話す人は、まず居ないだろう。ほとんどの人が、感情を込めて、自分がその時どういう風に感じ、思い、その出来事が、自分に取って良かったことか悪かったことか嫌だったことか楽しかったことなどの説明をふんだんに入れて、話しをするはずだ。つまり、人が、自分の体験を語るときには、既に、その出来事に対する価値判断を終えており、その出来事が自分にとってという言うものだったかの自分なりの意味を与えた後の話をしている場合が多いのだ。
辛い感情が出てきた出来事は、辛い体験としての意味を持たせて、それを記憶し、人に話す時には、辛い出来事として伝えられることになる。楽しいと意味付けされた出来事は、楽しい体験として記憶され、楽しい話として人に語る。このような具合だ。しかし、この楽しいや悔しい、また、最悪であるなどの価値判断は、人によって全く違ってくるものだ。ある意味普遍性のかけらもない、単なる主観的なものであるといえる。
例えば、一ヶ月の日照りの後に突然降ってきた大雨は、初めてのデートに向かう途中に、傘も持たずに出てきた若い青年にとっては、最悪の出来事になり、この日の雨を後々まで恨むことになるかもしれない。しかし、もし、彼が農家の青年でこの雨が、彼にとって多くの富を与えるものであることが分かっていれば、ずぶ濡れになりながらも、待っている彼女に最高の笑顔で会うことが出きたはずである。
後日、この二人の青年が、友人にこの日の出来事を話したとすれば、二人の雨に対するとらえ方も、それによってもたらされた自分への影響も、また、この日が、良い日だったか最悪の日であったかという総合的な見方も全く対照的になっていたに違いない。この様に、同じ出来事に遭遇していたとしても、それをどう捉え、最終的にそれが自分にとって良いものか悪いものかなどの出来事に対する意味や価値の付け方は、人によって全く違うのである。つまり、十人十色と言うが如く、十人いれば、十通りの出来事のとらえ方が出てくる様なものだ。そして、自分がその出来事に対して意味をつけた通りに、それを体験として記憶するのである。つまり、体験とは、その出来事を認識しそれに対し自分の目線で善し悪しの意味を与えたその人固有の記憶のことになってくる。
つまり、人が体験を話す時は、それは、実際に起きた出来事そのものというよりも、その人の主観や価値判断の話していることになってくる。そして、これは、全ての場合において言えることであるが、起こっている出来事自体には、善しや悪しなどの意味を持たない全くのニュートラルの存在といえるのだ。つまり、人の側から見ると、良かったこと悪かったことなどの意味をつけているが、物事は、何の意味も価値も持たずにただ、そこに発生しただけだということになる。常に、起こった出来事に意味をつけているのは、人の側なのである。
だから、財布を落とすことは、悪いことと多くの人は思うだろうが、財布を落とすこと自体には、まだ、意味の発生は無かったのである。もし、財布を落とすことに別の意味をつける人が居れば、それは、悪い体験にはなっていないのだ。中国のことわざに、人間万事塞翁が馬というのがある。これも、同じようなことを伝えている。
この様に見てゆくと、自分の人生を振り返ったときに、自分はこういう体験をしてきたとか、自分の人生は、こうだったなど、色々な意味の価値判断をつけて、人は、自分自身のことを表現しているが、それは、必ずしも事実だとは言えなくなってくるのだ。事実では無いことを事実の様に言うことを一般的に何といっているかと言えば、それは、思い込みや勘違いである。
人が記憶している体験とは、実は、その時々の一瞬一瞬に自分が物事をどう捉えたかの認識の記録に過ぎないのだ。そして、その体験を綴ったものが人の人生になっているので、自分が思っている自分、または、自分とはこういう人であるという自分のイメージが、如何にいい加減なものであるかがこれで分かってくるといえる。
人は、自分の思い込みの自分像を持ち、それを信じていることに更に追い打ちを掛けているのが、それらの思い込みが、自分の人生に強い影響力を持っているということである。もし、過去に起こった出来事を自分にとって良くない出来事であると認識し、マイナスの体験として記憶していた場合は、その人は、そのマイナスの体験に縛られていることになるのだ。そして、再び、ここにそれと同じ出来事が起こりそうな気配や雰囲気を察すると、また、悪いことが起こって来るのではないかという感情が、密かに涌き起こってくるのだ。
そうなると、心の奥底の無意識の部分には、既に良くないことの発生を告げているので、その通りのマイナスの結果を再現してしまう方向に意識も行動も仕草も動いてしまのだ。これは、原因と結果の法則の見えない縛りに入っている状態になってくる。カルマや業、また、因果や因縁と言っているのは、この状態の陥っていることを指している。
つまり、カルマや業を突き詰めれば、それは、その人の考え方であり、その人の思いの仕方や思い込みになってくる。自分の意識が作りだした癖のようなものである。癖であるから、毎度、毎度、同じ思考や意識を繰り返してしまうのだ。「私ってなんて運の悪い子なんだろう」と思っている人は、何か新たな出来事が起きる度に、その出来事に対し、自分から同じ様な意味と価値を与えているに過ぎないのである。そして、そういう人は、何度も何度も同じ様に運が悪い子であるという意味付け繰り返すことで、人生を通して、運の悪い人という結論になってしまうだけである。
そして、カルマや業の解消が何かというと、過去に遭遇した出来事と同じことが再び起きてきたとしても、前の様な思考や感情を持たなくなり、その出来事に別の意味や価値を与えられるようになることである。そうなってくると、たとえ以前と同じような出来事に遭遇したとしても、自分の物事への認識の仕方が変わってしまうと、もう、前みたいに苦しくなることや怖いとかの感情が全く出なくなるのだ。まるで、別の次元から、起きている出来事を見ている様な状態である。そして、起こっている出来事に対して、自分なりの新しい意味や価値を与えてゆけるようになるのだ。
この様に意識が変わってしまうと、今まで、その出来事は、自分にとって苦しいものと思っていた自分の感情が消えてしまうのだ。今の自分が変わると言うことは、過去にさかのぼって、自分が遭遇した出来事に与えていた意味も価値も同時に変わることになる。つまり、過去が変わるのである。
人は、過去は、過ぎ去ったものであるから、決して変わらないものであると思っている。しかし、過去とは、単なる人の認識の記録であるため、変えることが出来るのである。その人の意識や物事の見方に変化が起き、認識の仕方が変わるとき、過去の自分の認識の記録も同時に書き換えられるのだ。今まで、最悪の人生としか思えなかったのが、まんざら悪くは無かったのではないかとか、更に、自分はかなり良い人生を歩んできたに違いない、などの様にしみじみと思えるように変化してゆけるのである。今の自分の解釈と認識の仕方が変われば、過去も変わってゆくのである。
例えば、先ほどの例にあった自分の子供を過失により殺してしまった父親にとって、あの時の出来事は、生涯忘れることの出来ない最悪の事態として、父親の人生の一コマとして記憶されたに違いない。人の生死が関わるものを安易に言うつもりはないが、この子供を死なせてしまったという出来事自体も実は、ニュートラルな存在になってくる。これを最悪の結果として記憶したのが、父親の価値判断であり、そこから導き出されたのが、最悪のことをした最悪の人間であるという思い込みになってくる。その思い込みが、彼の後の人生に色々な影響を与えることになってくるのだ。
生死の秘密を知らず、また、人の魂は永遠で生まれ変わりの事実を知らない人であれば、このまま人生を終えても仕方が無いことであるといえる。しかし、もし、この赤ちゃんが、自分の父親が運転する車に轢かれて命を落とすことになったのだが、死の瞬間から、そして、死んだ後も、この赤ちゃんが父親と母親に対して、最高の笑顔をずっと見せていたとしたらどうだろう。物事の発生には、一つではない多くの理由があって起きている。もし、この事故の直後に、父親が死んだ子供の魂の状態を何らかの形で見ていたとしたら、理由は分からなくとも、父親はこれほど自分を責めるには、至らなかったかもしれない。また、この事故の出来事に対して父親が意味付けをした記憶の内容にも違いが出ていたはずである。
この様な意味づけの変化は、何も事故の直後で無くともいつでも起きるのである。時の経過や一つの出来事から更に別の出来事へと思い込みの連鎖が起き、雪だるま式に後悔と悲しみが大きくなっていたとしても、出来事が発生した時に自分が持った認識に変化が起きたときには、これを起点として起きた全ての出来事が、別の意味に置き換わってくるのだ。また、そうなったときには、今まで、雪だるま式に増えた後悔や悲しみの体験の記憶は、これからは本人を支える強い信念の方に置き換わるのである。
この様に人が、記憶する経験の仕組みが分かってくるにつれて、過去に遭遇した出来事に対する見方が大きく変わってくる様になる。そして、同時に、時間軸の感覚も変わってくるのだ。過去の出来事は、遠い昔のことでは無く、今のこの瞬間の自分の中に現在と同時進行に存在しているという感覚が出来上がってくる様になるのだ。
■時間的概念について
現代の社会の人々が、持つ時間的な概念は、ほぼ共通して、次の図にあるような横軸の概念になるだろう。昨日と今日と明日という現在と左を過去とすれば、先に進む右側の未来の様な感じである。
過去======○=======○=======○=====>未来
昨日 今日 明日
現在
これは、時計やカレンダーに見慣れた結果に作られた感覚かもしれない。この様なものの見方に慣れてしまうと、過去である昨日と今日は完全に別のものであるため、時の経過により、過去は変えられないという感覚になってくる。しかし、先ほどのカルマの解消の話のところで述べた過去は、この様な横軸の過ぎ去ったものでは無く、現在の認識が変われば過去の記憶が変わるという様に、過去は現在に同時に存在するものになっている。つまり、意識の世界で見る過去現在未来は、このような一直線上には、存在していないのである。意識の世界では、過去と現在と未来が、同時に今という現実に重なって存在している様になっている。例えて言うならば、今という一つの点の中に、過去現在未来が一本の線として縦に繋がっている様な感じだ。これを図で書いて説明する際は、過去現在未来を完全に同時に重ならせることは、絵の表現上出来ないため、説明の為にあえて少しずらして書くと次の様なものになる。
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この様に過去現在未来は、縦に連動した状態で一つになっている。過去は、過ぎ去ったもので置いてきぼりになっているのでは無く、今という現在に連動して存在しているのだ。また、実は、未来も今という現実に連動して変化しているのである。未来は、来てみなければ分からないというものでは無く、未来は、既に今の中に潜んでいるものといえる。つまり、過去現在未来は、一つのもので、それらは連動して存在し、また、同時に変化しているのだ。
過去と現在の関係は、先ほどから何度も述べているが、今この瞬間に自分の物事に対する認識の癖が変化することにより、過去のその時点の認識も変わり、過去の体験の意味が変わってくることとである。そして、それは同時に、今の自分の変化が、未来の自分の変化そのものになっているということにもなるのだ。つまり、もし、今、自分の認識の癖が変わっていなければ、未来の自分も癖を持ち続けているということになるのだ。一般的に、未来と言えば、五年後や十年後の先を想像する場合が多い。しかし、それをぐっと縮めてみるとよく分かってくる。一分後の自分がどうなっているかは、ほとんどの人が予測できているはずだ。それは、今の自分を知っているから、一分後はそれほど変わらないだろうと思っているのに過ぎない。一分後も五年後も意識の世界では同じなのである。つまり、意識の世界からみると、未来は、今の自分がそのまま未来に投影されているだけなのである。
過去現在未来を横軸の概念で見ている間は、今できなくても明日やれば良いではないかとか、後でまた頑張るよ。という考えも通用するようにおもえるかもしれない。しかし、未来とは、今この瞬間の自分の結果を少し時間をおいて体験しているに過ぎないのである。故に、明日やればいいという理屈は、残念ながら、意識の世界には、通らないことになってくるのだ。
■原因と結果の法則 過去・現在・未来の連動:全てが今という瞬間に凝縮されている
原因と結果の法則を縦の過去・現在・未来の見方で表現すると次の様になる。
未来 = 結果
↑
現在 = 結果 = 原因
↑ ↓
過去 = 原因 = 結果
これは、過去現在未来が同時に存在し、今の状態が過去の自分を変化させ、また新しい未来の自分を創っているということになる。つまり、今しか無いのである。今を生きるという言葉が、一番このことをうまく表現しているといえる。
人は、生まれ変わりする存在であると理解したとき、時間の観念は、時を経過させるものから、自分を変化させる道具に使い始めるようになってくる。それは、横線上の時間的概念から縦線の時間的概念に変わることを意味している。人の魂が永遠である以上、死ぬことはないのである。そして、生命や人生の存在意義は、如何に自分を変化させて行くかに尽きるといえる。
■人の進化の歴史と過去世からの影響
人の魂や意識が、何時どのような時に発生し、現代の様な人を形成するようになったのかは分からない。肉体を持った人の発生が先に起こったのか、魂や意識というものが先にあったのかについてもそれを具体的な証拠をもって、確かめる方法は、当分起こってこないかもしれない。
しかし、人が、この世とあの世を行き来する永遠の存在であることを知るだけでも、人の誕生から意識の進化がどのように進んだかは、ある程度うかがい知ることができる。過去世からの影響のところで述べたように、意識内で創られた思い込みは、それが癒やされ解消されるまで残ってゆくものとなる。そうすると、人の発祥当時は、現代の人々のような蓄積された思い込みというものも無かったことになる。また、それは同時に、人としての経験値もゼロということになるので、善悪や美醜などの認識力が薄く、また、エゴや自我も強く出ていない状態を表している。何にでも驚き、感動し、喜怒哀楽を素直に表現できるものすごく純粋な存在だったであろうことが想像できるのだ。
人類発祥当初は、人と人の間に、過去世からの縁や感情の蓄積が全くない状態であるため、そういう世界では、物事がものすごくシンプルで、単純に進んだはずである。純粋で心に陰りを持たない人々の集まりなので、この様な世界をパラダイスや天国という人もいるかもしれない。しかし、そんな世界も現代の人々からすると、生きることの刺激の薄い非常につまらない世界に映るかもしれない。何故ならば、発祥当初の人々は、映画や小説などを楽しむことが出来なかったはずだからである。この時代に映画や小説というものが存在していなかったことを言っているのでは無く、もし、彼らが仮に現代の時代にやってきて、小説や映画に触れたとしても、何もおもしろみを感じることが出来ないはずなのである。現代の人々が、小説や映画を見て楽しめるのは、そこに感情移入出来るからで、その物語の主人公が置かれている色々な立場や状況に自分を投影させて、人生の疑似体験ができるからであるといえる。そのためには、十分な人生の経験値や人の感情を体験から知り尽くしていなければ、味あうことが出来ないのである。
例えて言えば、現代の社会で生きることは、次に何が起こるかの予測できないジャングルジムや迷路ハウスの様なもので、過去の人類発祥の時代の人々の人生は、見通しが良く無限に広がっている様に見える野原をただ歩いている様なものになる。私だったら、この様な世界は、三日と持たないだろう。直ぐに飽きてしまう。これがもし旅行先であれば、さっさと旅程を縮めて帰って来るようなものだ。
この人類発祥当時の純粋無垢の人々の意識が、何時どのように進化して行ったのかを考えた時に、いくつかの条件を設定しなければ、簡単には進化などあり得ないと思えてくるのだ。現代の社会にも目に見えない世界の実相を知る人たちが居るくらいなので、当時の人々は、皆、目に見えない世界の実相を十分理解している人たちで間違いないだろう。そして、目に見えない世界の実相を知る人であれば、無意味の競争も争いごとも簡単には起こさないことになる。そうすると、人は、競争や対立、争いから善悪の認識が育ってくるのだが、そのチャンスがなかなか起きないことになる。
人類の発祥から現代までの意識の変化のことを考えて行くと、それは同時に現代の社会がなぜ、目に見えない世界のことを考慮しない、目に見える世界だけの価値観と認識で創られているかという、現代の社会の存在価値が見えてくることにも繋がってくる。それは、目に見えない世界を否定することにより、初めて、人生はこの世だけのもので、死んだら全てが終わるという価値観が生まれてくるのである。また、死んで終わりと思えるからこそ、短い人生の期間に一つの結果を出してしまおうという極端な発想や行動が生まれてくるのだ。自分の成功の為には手段を選ばないという考えも、人が見ていなければ何をやっても構わない、バレなければ平気であるという価値観も生まれてくるのだ。そうすることによって、現代は、非常に濃い体験を一つの人生で体験できるようになっている。
人は、常に変化を求め、新しい自分を発見したい存在であると先に述べた。人の発祥当時の世界があり、そこからどうして現代の様な目に見えない世界を否定する世界の創造に人の意識がたどり着いたかを考えると、やはり、変化と発見を求める人の本質がなした結果であったのだろうと思えてくるのだ。一言で言えば、つまらない生活に飽きた人類が、長い年月をかけて、スリル満点の遊園地を創り上げた様なものである。
しかし、目に見えない世界を否定する社会には、弊害もあるのだ。その弊害の一つが、死んで終わりという価値観が生み出す自虐的な行為になってくる。死んでしまえば、自分は消えてしまうので、何をやっても構わないという理屈である。自分の死とともに地球を破壊して、人類を抹殺してしまおうとう考えも成り立ってくるのだ。ここまで極端なことでは無くとも、少なくとも自分の生きている間だけの責任しかないという認識をもち、問題を先送りにした行動や生き方をする人が、ずいぶんと増えてしまったのが、現代の社会である。人類の子孫や地球の存続に関わる事象まで、死んで終わりという価値観が影響を与えるようになってしまっては、仕組みを変えざる終えない状況になっていてもおかしくは無いのだ。当に、遊園地から家に帰る時が来たといえる。
現代は、目に見える世界だけの価値観が支配する社会から、再び、目に見えない世界の実相を踏まえた価値観をもって創り上げる時代の始まりなのかもしれない。生まれ変わり死に変わりを続ける永遠の存在である人の魂は、現代の様な、目に見えない世界を否定している世界に生まれてきていることも全て自覚して、この世に出てきている。四歳を超える頃には、皆、記憶をリセットしてしまっているが、無意識の世界では、今も忘れずに誰もが知っていることなのである。
人は、三次元の世界に出てきて、肉体を持つことにより、全体から分離した完全なる個を認識することが出来るようになっている。しかし、いくら個が、認識できると言っても、その個自体を認識させ、成り立たせているのが、個の対局にある全体であるため、どこまで行っても、個は、全体の一部でしか無いのである。個と全の詳細ついては、これから述べるテーマとなるので後に譲る。
社会の変化が、一体何の意識によってなされているかといえば、個の意識の集合体である全体の総意によってなされているのだ。人の発祥当時から、現代の様な目に見えない世界を否定する社会を創り上げたのも、人の意識の総意によってである。また、本来は、一つの全体意識しかなく、そこから飛び出した仮の存在が、個の認識になってくる。宇宙には、唯一絶対の創造主が存在し、それが、人類にああしろ、こうしろと指示を与えるというのであれば、その様な創造主は存在していない。なぜならば、一つの全体意識しか存在していない世界に、それに対して指示できる別の存在などあり得ないからだ。しかし、創造主を全体意識から見た、自己認識の為の相対化された絶対意識と定義するのであれば、創造主は、存在することになる。そして、その創造主の指示とは、見方を変えた全体意識の方針と何ら変わりないのである。
■地獄はあるのか
日本の仏教には、沢山の死後の世界の描写がある。例えば、血の池地獄、修羅道、餓鬼道、色欲道、針の山、畜生道などである。地方のお寺などの資料館で、古い絵や屏風に書かれ地獄絵巻などで地獄の様子を見たことがある人は多いだろう。当にその絵が語る様なおぞましい世界が地獄である。また、日本の小説の中で地獄の話として一番有名なのは、芥川龍之介が書いた「蜘蛛の糸」だろう。この小説の中では、おびただしい数の地獄にいる亡者たちの姿が描かれていた。
これらの物語は、たぶん、生きている人々に正しい生き方とは何かを教えるために、お坊さん達が説法の時に用いた例え話しなのだろうが、先ほど、閻魔大王が存在し、本人に成り代わって人に道筋を示す様なことはないと述べたのと同じように、この様な地獄の場所も存在していないといえる。
意識の世界から見ると、人の意識の働かないところには、何も生まれていないことになる。創造は、常にそれを求める意識があって、その結果として創造物が生まれているのだ。つまり、地獄にしても、人や人の意識の存在しない世界にひとりでに地獄という空間が広がっているということは無いのである。ただし、もしそこに、血の池というものが大好きな人々が集まっていて、意識の世界で血の池を創っていたならば話は別である。実際に現代の世界にも血の池は、存在している。各地の幽霊屋敷の中にも、また、日本の火山地帯の温泉の観光名所にも血の池という看板を立てているものが実際にあるのだ。これは、血の池の様なものを創り出したいと人の意識が動いた結果として出来上がっているのだ。
先ほど、恨みをもって死んだ人は、死んだ後もその恨みの感情は変わらないことを述べた。また、肉体を失うと論理思考が苦手になるために感情の塊の様な存在になっていることも伝えた。つまり、恨みをもって死んだ人の意識がどのような状態になっているかと言えば、恨みしか見えない、怨念の塊の様な状態になっている。そういう人を見ることが出来る人が居たとしたら、見た人は、彼らのことを決して天使様が居るなんて言わないだろう。皆、口をそろえて、悪霊がいる。とか、怨霊がいると言うに違いない。恨みをもって死んだ人は、死後においても恨みの状態を創造し続けることになるのだ。そして、恨みの塊の存在のところには、自然と同じような恨みの意識を持った人たちが集まってくる様になっている。そうすると、喧嘩付きの人の集まりや人に裏切られて猜疑心の塊の意識の集まりも、死後の世界には、存在するかもしれないのだ。ここは、修羅地獄ですよという看板は立っていないかもしれないが、お坊さんが話す地獄絵巻に近い世界は存在するかもしれないといえる。
人は、自然と似たもの同士が集まる様になっているのは、生きている世界も同じである。同じ趣味を持つ同好会などもそうである。波長が合うとか、馬が合うとか言われるように、意識の振動数が似ている為だといえる。生きている世界であるか、死後の世界あるかを問わず、常に人は、同じ様な意識の人々が集まった社会を形成しているのである。そして、在る一定期間を過ごし、徐々に皆と一緒に居ことに違和感を感じる様になれば、そこを離れてまた別のところにゆくだけである。
死後の世界になれば、肉体という個を確定させるものが無くなってしまうため、この要素は、より強くなり、自分と同じ波長を持つ人同士でなければ交流出来ないということになってくる。そうすると、肉体を離れた死んだばかりの意識は、どのような経緯をたどるかと言えば、自分と同じ波長と意識を持つ人々の集合体に自然に自分からゆくことになるのだ。そして、飽きるまでそこに居ることになる。だから、死の瞬間に自分が何を思っているかが非常に大切になってくる。喜びと感謝で大往生できるか、死の瞬間まで誰かを恨んだり、悔やんだりしているかによって、これから先の死後の世界での人生に大きな違いが出てくるのである。
多くの人々にとって、死は、突然にやって来るもので、予測することができないものである。それ故に、日々、悔いの残らないような人生を送っておくことが大切になってくる。一瞬一瞬を大切に、精一杯、自分らしく在ることである。