思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

根源的な命(統合場)

2016-12-19 16:50:57 | 思想、哲学、宇宙論
  
http://cocoro-cocoro.net/?page_id=37


意識場と物質場を包括する統合場は、本来の「自然そのもの」の活動である。それは意識場の基盤となり、物質場の実体性の根拠となる、自然そのものの活動である。この「自然そのもの」という言葉は、統合場の物的性質を強調するものだが、その心的性質を強調するのならば、統合場は「命そのもの」と表現する方が相応しいだろう。心あるもの、すなわち命あるものの根源的な場である統合場は、「命そのもの」の活動である。

この根源的な命の活動(統合場)は意識場として顕現し、意識場からは私(自己)が仮構される。この活動を反対方向から言えば、仮構されていた自己は意識の場そのものへと拡張し、さらに意識の場は無限に拡張して、根源的な命そのもの(統合場)に至る。自己は場(いのち)から生じ、場(いのち)へと帰す。

東洋の絶対知(無分別智)とは、この根源的な命そのものの直知である。東洋の伝統的な思想や哲学は、この言語を超えたところの根源的な命そのものを、言語によって便宜的に説くものである。

平等性と慈悲


全ての自己の根元は、根源的な命(統合場)のなかにある。よって、その根元においては全ての人間存在は全くの同質であり平等である。根源的な命から意識が生まれ、その意識から自己は生まれる。全ての自己はその本性として根源的な命そのものと同質であり、それゆえに自己と他者は本質的には完全なる平等性と尊厳性を保つ。

このような命の根源的な平等性や尊厳性があるからこそ、そこから必然的に「慈悲」の発露がある。自他の本質においての平等性に基づいて、無条件の愛の自覚に至る。慈悲は命の本性によって基礎付けられるものであり、そこから必然的に生じるものである。それは外から強制される規制や道徳では無く、特定のプロパガンダやイデオロギーでも無い。人間本性から発する慈悲は、時代性や地域性、民族性にも左右されることは無く、普遍性を有している。


物質場と意識場、統合場

2016-12-19 12:25:18 | 思想、哲学、宇宙論
http://cocoro-cocoro.net/?page_id=35


物質場と意識場、統合場


直観的には、私たちが住む世界は二つの異質な「場」によって形成されているように思う。一つは、あらゆる主観的意識事象/クオリア発現の舞台となる「意識の場」である(ここで述べるクオリアは、赤さ、音色、芳香、苦み、痛み、喜び、悲しみ、欲求、意志、自我感覚・・・等の意識経験の内容全てを意味する)。そしてもう一つは、空間、時間、物質、力といった、あらゆる物理現象を包括する「物質の場」である。前者の意識場は芳醇で美しいクオリアで彩られているが、後者の物質場は合理的で美しい数式で体系化されている。

光と影のダンスのように、意識場と物質場の活動は、密接な相関関係を示す。意識の活動があるところには、常に何らかの物質の活動がある。しかしながら、この二つの場は全く別次元の存在概念となっている。意識場は主観的・私秘的・一人称的であるのに対し、物質場は客観的・公共的・三人称的である。今日の神経生物学が説明するように、意識場の活動は物質場の活動に置き換えて語ることは可能であるが、意識場は物質場そのものでは無い。意識の主観的性質は、物質場からは完全に抜け落ちている。物質場にあるのは、位置、力、質量、電荷、スピン等といった物理的情報のみであり、私たちが良く知る、喜び、哀しみ、茜色の空、新緑の木々、そして自己の感覚等といった主観的情報(クオリア)は欠落している。意識場と物質場は、(その挙動は相関しながらも)存在論的には完全に分離しており、二つの場は交わる事の無い平行的な場として描写される(図2)。


図2 意識場と物質場
(三島ジーン「こころを探究する」より引用)

図2 意識場と物質場


意識場と物質場は、世界を二分する場となっているが、今ここでは、両者を統一する概念である「統合場(インテグラル・フィールド/Integral Field)」の存在を仮定してみたい。意識場と物質場は全く別次元の実在である可能性(二元論)を排除することはできない。しかしながら、二つの場の活動の密接な相関関係は、両者が究極的には一つの「場」の内に包括できる可能性(一元論)を予見させる。

世界モデル


私たち人間にとって、最も直接的な生の現実は「意識場」である。それが無ければ、知覚も思考も感情も意志も私自身という感覚も無い。意識場は私たちにとって真に価値ある心そのものであり、私たちそのものである。それは日常の生活の中で、私たちが直接アクセス可能な第一のリアリティである。

今、(統合場の存在を仮定して)この意識場を出発点とした世界モデルを展開してみたい。意識場は本質的には根本場である「統合場」の何らかのはたらき(活動)によって生じていると考えることができるだろう。統合場の活動によって意識場が起こり、その意識場の活動によって意識内容/クオリアが生じる。意識内容/クオリアが統合して、場に「主」と「客」の二極の心理学的形式が生じれば、やがて、主(私)と客(世界)は分離独立した“実体”として認知されることになる。

根本場である統合場と、そこから派生した意識場は、存在論的には分離しない連続したものである。意識場は統合場を基盤としている。この世にある無数の意識場(心)は、全て統合場に包含されている。