http://cocoro-cocoro.net/?page_id=37
意識場と物質場を包括する統合場は、本来の「自然そのもの」の活動である。それは意識場の基盤となり、物質場の実体性の根拠となる、自然そのものの活動である。この「自然そのもの」という言葉は、統合場の物的性質を強調するものだが、その心的性質を強調するのならば、統合場は「命そのもの」と表現する方が相応しいだろう。心あるもの、すなわち命あるものの根源的な場である統合場は、「命そのもの」の活動である。
この根源的な命の活動(統合場)は意識場として顕現し、意識場からは私(自己)が仮構される。この活動を反対方向から言えば、仮構されていた自己は意識の場そのものへと拡張し、さらに意識の場は無限に拡張して、根源的な命そのもの(統合場)に至る。自己は場(いのち)から生じ、場(いのち)へと帰す。
東洋の絶対知(無分別智)とは、この根源的な命そのものの直知である。東洋の伝統的な思想や哲学は、この言語を超えたところの根源的な命そのものを、言語によって便宜的に説くものである。
平等性と慈悲
全ての自己の根元は、根源的な命(統合場)のなかにある。よって、その根元においては全ての人間存在は全くの同質であり平等である。根源的な命から意識が生まれ、その意識から自己は生まれる。全ての自己はその本性として根源的な命そのものと同質であり、それゆえに自己と他者は本質的には完全なる平等性と尊厳性を保つ。
このような命の根源的な平等性や尊厳性があるからこそ、そこから必然的に「慈悲」の発露がある。自他の本質においての平等性に基づいて、無条件の愛の自覚に至る。慈悲は命の本性によって基礎付けられるものであり、そこから必然的に生じるものである。それは外から強制される規制や道徳では無く、特定のプロパガンダやイデオロギーでも無い。人間本性から発する慈悲は、時代性や地域性、民族性にも左右されることは無く、普遍性を有している。