思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

ヴァイオリンミューズと梵我一如

2014-01-24 11:35:53 | Weblog
河合郁子のヴァイオリンミューズは永遠の実在が魂の内奥に存在し

究極のイデアが魂の内奥に存在することを、歓喜と共に体験させてくれる貴重な曲である。

別の言い方をすれば、真の自分は 究極の真理である宇宙の根本原理 と同じであるという体験である。

これは東洋哲学で言うところの梵我一如であり、永遠の至福体験である。

宇宙の根本原理は、波動エネルギーとそこに働く統一力で成り立っている。

>ブラフマンは、もともとは、ヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」「呪句」を表した。やがて、それらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらに、この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされた。

....言葉は波動であり、神秘力を統一力と解釈すれば、波動エネルギーに内在する統一力 という現代的解釈ができる。



梵我一如

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。

仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していた。一方、我(アートマン)とは、身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)として考えられ、「真我」と漢訳される。

ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。




2. 梵我一如の思想
 梵、すなわち「ブラフマン」と我、すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。これが梵我一如の思想である。

 ブラフマンは、宇宙を支配する原理である。ブラフマンは、もともとは、ヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」「呪句」を表した。やがて、それらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらに、この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされた。

 アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている「霊魂」であり、私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」である。元は、ドイツ語のAtem「息、呼吸」と同じ語源から生まれた語で、「息」を意味した。ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるにいたった。この語はさらに「ものの本質・本体」という意味でも用いられる。

 この宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想である。これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。



「ヴェーダ聖典の最後にあらわれたウパニシャッドとよばれる一連の文献(古いものは紀元前800年頃に成立)において、宇宙の最高原理はブラフマン(梵)と呼ばれました。そして、個人の中心主体である真実の自己アートマン(「我」と漢訳される)がブラフマンにほかならない(梵我一如)というのが、ウパニシャッド哲学の中心思想とされます。そして、ブラフマンまたはアートマンを知ることが解脱であると考えられていました。」

「私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死(甘露)に達するところの。それは、無始なる最高ブラフマンである。それは有とも非有とも言われない。それは、一切の方角に手足を持ち、、一切の方角に目と頭と口を持ち、一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している。それは一切の感官の属性を持つかのようであるが、一切の感官を離れ、執着なく、一切を支え、(プラクリティ)の要素を持たず、しかも要素を享受するものである。それは万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き、微細であるから理解されない。それは遠くにあり、かつ近くにある。それは、分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在する。それは万物を維持し、呑み込み、創造するものであると知らるべきである。それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識(真如)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。

「知識の対象」とは最高原理ブラフマンのことです。まず、ブラフマンは「無始であること」言い換えれば、不生不滅に永遠に続き、「有とも非有ともいわれない」こと、つまり存在するとも存在しないとも言えないということです。そして、エーテル(霊気)のように全てを覆い尽くし、遍く満ちた状態であります。まるで、万物の内外にあり、動不動であり、遠くでもあり近くでもあるようなのですが、霊気のように微細である為に認識されることがないのです。また、ブラフマンは宇宙を満たしているため、分割できないのに分割されたかのようにも存在できます。その性質によって、あらゆる万物に入り込むことができながら、万物を維持し、帰滅し、創造します。ブラフマンは全ての光明、すなわち知識そのものであり、知識の対象でもあり、知識を得た時に到達できるものと説明されています。