先日、何気なくつけていたテレビにハッとさせられました。
「こころの時代」という番組で、内村鑑三をやっていたの
です。
内村鑑三といえば、日本のキリスト教の先駆者と
思っていましたが、内村鑑三は日蓮も西郷隆盛も
神の声を聴いたのではないかと、言っていたと
いうので、思わずテレビの前に座って
見入ってしまいました。
内村鑑三は妻と子供を亡くした後、ヨブ記を再び
読まれたそうです。
それを知った時、私は「やっぱりヨブ記か…」と
思いました。
私は聖書の中で「ヨブ記」は、好きではありません
でした。
でも、子どもを亡くた後、心に浮かんできたのは
「ヨブ記」だったのです。
内村鑑三は、モーゼもキリストの最後の祈りも
聞かれなかったことから、「祈りとは聴かれない。
自分の為の祈りは聴かれない。
ひょっとすると、自分の為の祈りでないものは
聴かれるかもしれない」と書いているそうです。
このことを聞いた時、初女先生が対談の時に
言われた「祈りとは自分がないところのもの」という
言葉が、重なってきました。
そのことを先生にお伝えしたら、「昔々のことですが
信仰の師としていた方が、内村さんが苦しみ
また苦しみをかかえ活動なさっていることを
度々お話しして下さったのです。
その時は、昔のことでしたが、それを文字を通して
お会いすることは不思議な事ですね。
現代の生活に生かして行くことですね。」という
お返事が来ました。
ランディさんとの対談の時に、「初女さんが
大切にしているものは?」という質問に、
先生は「時間です」と答えられていました。
内村鑑三も「一日は貴い一生である。
これを空費してはならない」と言っています。
ランディさんは、初女先生の言葉は素朴だと
言われてました。
素朴ゆえにその深さに気がつかな自分がいます。
内村鑑三の言葉を聞き、「深き森の語らい」が
どんなに深いものだったかを改めて知りました。
『喜びの声を発っすれば
喜びの人となり
悲しみの声を発すれば
悲しみの人となる
内村鑑三 』