ショパンコンクールで東洋初の優勝者ダン・タイ・ソンに及んだ
彼の国ベトナムについて、ベトナム戦争しか浮かばなかったのに
歴史のある、日本とも古くから交わりのある国としてイメージが変わった
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図書館にダン・タイ・ソン(1958生れ)のショパンのCDがなかったので
ルイサダを借りた それが良かった
ソンは40才後半となりとても味わい深いメンデルスゾーンを聴かせ
ルイサダの選曲も親しみやすい曲で纏められている
図書館で借りるCDには傷があるものがあり最後までヒヤヒヤする
幸い付録の説明書きも欠損なくて読め参考になった
左写真:上2枚CD表紙 下読んだ本の表紙
中央:CDの曲目ソンとルイサダ
右:「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」目次
興味があったらクリックしてみてください
《ダン・タイ・ソン物語 内容の一部》
1980年第10回ショパンコンクール1位(その時の審査員に東洋で1人安川加壽子)
歴代の1位にはポリーニ、アルゲリチ、ツィマーマンなど
*母リエン:1918年サイゴン生まれ、家族は音楽を愛しフランス語を話し4才で
カトリックの学校に入り修道女たちから厳しい教育を受けた
音楽教育も受け30才でフランスに留学、イジドールに師事
3番目の夫がベトナム初のチェコ大使になったため一緒にプラハに行き、
プラハ音楽院で3年間学ぶ この滞在中1949年ソンの異父姉が生まれる
ベトナムに帰った頃はインドシナ戦争の真っ只中、ジャングル生活となる
過酷な生活の中で夫と死別、そのあと1953年ジャングル生活の中だれの助けも
借りられず、さ迷い歩いて一軒の家の水牛小屋で男児を出産
(この9歳上の異父姉はソンを可愛がった 異父兄のピンは活発でソンに
”男らしくしろ 元気で強くなくてはいけない!"といい続けた)
このジャングル生活の中でソンの父詩人のフンと知り合う
*父フン:1924生れ ベトナム文学を教える学校の教師 べトナムの伝統的な
きびしい躾を課す家庭に育ったが、正反対の性格を持つリエンに惹かれる
父はソンの才能を認め”紙鍵盤”を作り弾きたいソンを見守った
(上の異姉兄に母は音楽を熱心に指導し、父が国の要職についていたこともあり
政府の援助も受け姉は中国に留学してピアノを学び、兄はハノイ音楽院で
8年間チェロを学んだ それに対しソンに母はピアノを触らせなかった)
政府に要注意人物とみなされ、悲観的に考えるようになる
1975年ベトナム戦争が終結し政府は留学生を選抜し始めた
それは政府に認知された仕事に従事している家庭の子供のみに許された ソンが留学
するために離婚(父は自転車と扇風機とフライパン 母はベットと物入れと自転車と鍋を持って)
この位にしてまた本を借りて読むことに…。