11月19日、大分会の研修会に七戸先生が来ていただき、久しぶりにお話しをうかがうことができました。
本当に久しぶりのことだったので、楽しみにしていたのですが、お話しを聞いたうえでの率直な感想を言えば、さしもの七戸先生にしても、わが業界を覆う停滞、閉塞を破る方向を示す意欲を失わされてしまうのか!?というところになります。
話は変わります。
このところ、「日本の現状というのはアメリカへの決定的な従属を基本構造にしている」ということを主張する本(「誰がこの国を動かしているのか」(鳩山由紀夫・白井聡・木村朗:詩想社新書)、「草食系のための対米自立論」(古谷経衡:小学館新書)「反・民主主義論」(佐伯啓思)等)を続けて読んだということもあってか、トランプ勝利後の日米関係を見ていても、そのどうしようないような「対米従属」構造というのが目についてしまいます。
たとえば、安倍首相は、「全世界で誰よりも早くトランプとあった外国首脳」になったわけですが、その会見後「信頼できる指導者だと確信した」というようなことを言っていました。そのような「確信」をなぜ抱いたのか?ということを後日問われたのに対しては、「トランプは『日本の首相と会談した』とは言わず、『家に来た』としか言っていない。これは、現大統領への敬意を表し、アメリカに『二人の大統領』がいるわけではないことを示している。このようにふるまえることに信頼できると確信した。」というような意味のことを言っていました。
しかし、「アメリカに二人の大統領がいる」かのようにして慌てて「会談」を持つようにしたのは自分自身なのであって、自分でやらかしておいて、それを否定したから「信頼できる」というのは、なんだかおかしな話です。
そもそも、トランプの当選が決まった直後に安倍首相は「日米同盟は普遍的価値で結ばれたゆるぎない同盟だ」と言っていました。しかし、これまでのトランプの様々な発言は、「自由、民主主義、法の支配」といった「普遍的価値」を共有しうるのかどうか、ということを疑わせるようなものとしてありました。だから、ドイツのメルケル首相などは、「民主主義、自由、権利の尊重、すべての個人の尊厳を重んじる」という「共通の価値」が守られるのなら、という前提付きでの「協力」表明を行うのにとどめていたのでした。
それに比べて日本はなぜ無条件で「普遍的価値で結ばれ」ていると言い、「揺るぎない」と判断できてしまうのでしょう?これは、「何があろうと、どんなことになろうと、アメリカに付いて行くしかない」ということの表明なのだと思えます。
問題なのは「普遍的価値」ではなく、「守ってくれるものとしてのアメリカ」ということなのだ、と考えると、このような対応というのは理解できるものになります。
ここには二つの問題があります。ひとつは「普遍的価値」を振りかざして高尚なことをしているかの如く言いながら、結局は利害や打算に基づいて動いているのに過ぎないじゃないか、という「倫理的」な問題です。そしてもう一つは、「本当に守ってくれるのか?」という現実的な問題です。
前の方の「倫理的」問題についても言いたいことはいろいろあるのですが、まぁそれはさておき、後の方のことを真剣に考える必要があるのだと思います。「グローバリズム」の進展の中で格差が拡大して保護主義に向かう流れができており、それに乗ってトランプが台頭してきたわけですし、その中で日本をやり玉に挙げていたという事実もあるのに、なぜそれでも「アメリカは守ってくれる」ということを揺るぎなく確信し続けられるのか?というのは、全く不思議なことです。
それは結局、「そういうふうに考えた方が都合がいい」ということによるのだと思います。そう考えていれば、取り立てて新しく何かの努力をしなければいけないわけではなくて楽だから、そう考えていた方が精神衛生的にいいから、というところなのでしょう。これは、「前の問題」=倫理的な堕落とも結びつくものです。
「戦後日本」を貫く「対米従属」「対米依存」の問題を考えながら、ついつい身の回りの卑近な事柄に思いが向いてしまいます。初めに述べた、わが業界を覆う停滞・閉塞の問題であり、わが業界においても「対米従属」とまったく同じような構造があるのではないか、ということです。
それは、「対官従属」「対官依存」ともいうべきものとしてあります。
この構造に自覚的になり、それを克服していく志向性を持たない限り、停滞・閉塞を脱け出すことはできないのだ、とあらためて思います。
本当に久しぶりのことだったので、楽しみにしていたのですが、お話しを聞いたうえでの率直な感想を言えば、さしもの七戸先生にしても、わが業界を覆う停滞、閉塞を破る方向を示す意欲を失わされてしまうのか!?というところになります。
話は変わります。
このところ、「日本の現状というのはアメリカへの決定的な従属を基本構造にしている」ということを主張する本(「誰がこの国を動かしているのか」(鳩山由紀夫・白井聡・木村朗:詩想社新書)、「草食系のための対米自立論」(古谷経衡:小学館新書)「反・民主主義論」(佐伯啓思)等)を続けて読んだということもあってか、トランプ勝利後の日米関係を見ていても、そのどうしようないような「対米従属」構造というのが目についてしまいます。
たとえば、安倍首相は、「全世界で誰よりも早くトランプとあった外国首脳」になったわけですが、その会見後「信頼できる指導者だと確信した」というようなことを言っていました。そのような「確信」をなぜ抱いたのか?ということを後日問われたのに対しては、「トランプは『日本の首相と会談した』とは言わず、『家に来た』としか言っていない。これは、現大統領への敬意を表し、アメリカに『二人の大統領』がいるわけではないことを示している。このようにふるまえることに信頼できると確信した。」というような意味のことを言っていました。
しかし、「アメリカに二人の大統領がいる」かのようにして慌てて「会談」を持つようにしたのは自分自身なのであって、自分でやらかしておいて、それを否定したから「信頼できる」というのは、なんだかおかしな話です。
そもそも、トランプの当選が決まった直後に安倍首相は「日米同盟は普遍的価値で結ばれたゆるぎない同盟だ」と言っていました。しかし、これまでのトランプの様々な発言は、「自由、民主主義、法の支配」といった「普遍的価値」を共有しうるのかどうか、ということを疑わせるようなものとしてありました。だから、ドイツのメルケル首相などは、「民主主義、自由、権利の尊重、すべての個人の尊厳を重んじる」という「共通の価値」が守られるのなら、という前提付きでの「協力」表明を行うのにとどめていたのでした。
それに比べて日本はなぜ無条件で「普遍的価値で結ばれ」ていると言い、「揺るぎない」と判断できてしまうのでしょう?これは、「何があろうと、どんなことになろうと、アメリカに付いて行くしかない」ということの表明なのだと思えます。
問題なのは「普遍的価値」ではなく、「守ってくれるものとしてのアメリカ」ということなのだ、と考えると、このような対応というのは理解できるものになります。
ここには二つの問題があります。ひとつは「普遍的価値」を振りかざして高尚なことをしているかの如く言いながら、結局は利害や打算に基づいて動いているのに過ぎないじゃないか、という「倫理的」な問題です。そしてもう一つは、「本当に守ってくれるのか?」という現実的な問題です。
前の方の「倫理的」問題についても言いたいことはいろいろあるのですが、まぁそれはさておき、後の方のことを真剣に考える必要があるのだと思います。「グローバリズム」の進展の中で格差が拡大して保護主義に向かう流れができており、それに乗ってトランプが台頭してきたわけですし、その中で日本をやり玉に挙げていたという事実もあるのに、なぜそれでも「アメリカは守ってくれる」ということを揺るぎなく確信し続けられるのか?というのは、全く不思議なことです。
それは結局、「そういうふうに考えた方が都合がいい」ということによるのだと思います。そう考えていれば、取り立てて新しく何かの努力をしなければいけないわけではなくて楽だから、そう考えていた方が精神衛生的にいいから、というところなのでしょう。これは、「前の問題」=倫理的な堕落とも結びつくものです。
「戦後日本」を貫く「対米従属」「対米依存」の問題を考えながら、ついつい身の回りの卑近な事柄に思いが向いてしまいます。初めに述べた、わが業界を覆う停滞・閉塞の問題であり、わが業界においても「対米従属」とまったく同じような構造があるのではないか、ということです。
それは、「対官従属」「対官依存」ともいうべきものとしてあります。
この構造に自覚的になり、それを克服していく志向性を持たない限り、停滞・閉塞を脱け出すことはできないのだ、とあらためて思います。