フランスの歴史家・文化人類学者エマニュエル・トッドへの朝日新聞記者によるインタビューをまとめた本です。
「私たちは全く新しい世界にいる」として「4つの要素」が挙げられています。それは
①について、「経済的合理性」「利益率でものを考える世界」が「信仰として最後のもの」としてあり、それは「反共同体的な信仰」だとします。「経済は手段の合理性をもたら」すが「目的の合理性ではない」ので「限界がある」とされます。
②の「高齢化」は、単にフィジカルの問題としてだけ言われているわけではありません。「形而上学的な展望の欠落と高齢化」との結びつきが問題で、それを「無責任な高齢者」という概念で表しています。
③について、特に日本のことが指摘されています。「日本は再び、教育という点で階層化された社会になっています」と言うのです。「高等教育の普及」によって「新たな教育格差が別の重い意味を持つようにな」る、と言われます。
④の「女性の進出」についても「教育革命」との関係で問題にされることです。
インタビューに答えた断片的な言葉を、どれだけ理解できているのかわかりませんが、これらの前社会的な同区に関する指摘を受けて、その社会の一部分である自分の身の回りのことを含めて考えさせられました。
まずは「経済的合理性」は「利益率でものを考える」ということとしても表現されています。そこには、たしかに当初は「手段の合理性」があるのでしょうが、「目的」を喪失したところで「手段」が独自の意味を持ってしまう、というのはとても危険なことなのだと思います。
その上での「高齢化」です。日本の国全体として「将来世代の借金」で今を生き延びているようなことがありますが、それは社会の隅々のいたるところで同様の構造を生み出しているのでしょう。土地家屋調査士の業界においても、「今と同じようなことをし続けていたら未来はないのではないか」、ということは、少しでもものを考える人間であればだれでも考えるようなことなのですが、「無責任な高齢者」がそれにフタをしてしまう、ということがなされているように思えます。これは構造としての問題です。
日本について著者は、「日本はテクノロジーに問題があるわけではありません。最も進んだ国の一つであり、国民全体の教育レベルが高い国です。しかし教育のある女性が働きながら子供を持つようにすることができないままです。」と指摘しています。
まさに、こういうところに問題があるのでしょう。「教育のある女性」が、その教育程度に応じた「活躍」ができずにいます。同様のことは、男性の「教育のある」人々の問題でもあります。いくら「教育」があろうと、それを活かす社会的な構造がないと「宝の持ち腐れ」になってしまいます。本来は、ものを考え、それを創造的に生かしていくことに役立つべき「教育」が、より「上」で作られるシステムを動かしていく歯車としてよりよく機能するためだけの役割しか果たさなくなってきてしうまう、という姿は、私たちの業務領域でも見ることのできるものです。
2016年は、世界と日本で「トランプ大統領」と「カジノ法案」というとんでもない形で終わろうとしています。そのような社会の潮流が私たちをも包んで進んでいる今、本書で示されたようなことを自分自身の問題として考える必要がある、と思いました。
「私たちは全く新しい世界にいる」として「4つの要素」が挙げられています。それは
、「①共同体的な信仰の喪失②高齢化③社会を分断する教育レベルの向上④女性の地位の向上」
です。パッと見るとごく当たり前のことのようで、取り立てて新しい指摘ではないように思えてしまうのですが、その内容を見るとなるほど、と思わされます。①について、「経済的合理性」「利益率でものを考える世界」が「信仰として最後のもの」としてあり、それは「反共同体的な信仰」だとします。「経済は手段の合理性をもたら」すが「目的の合理性ではない」ので「限界がある」とされます。
②の「高齢化」は、単にフィジカルの問題としてだけ言われているわけではありません。「形而上学的な展望の欠落と高齢化」との結びつきが問題で、それを「無責任な高齢者」という概念で表しています。
③について、特に日本のことが指摘されています。「日本は再び、教育という点で階層化された社会になっています」と言うのです。「高等教育の普及」によって「新たな教育格差が別の重い意味を持つようにな」る、と言われます。
④の「女性の進出」についても「教育革命」との関係で問題にされることです。
インタビューに答えた断片的な言葉を、どれだけ理解できているのかわかりませんが、これらの前社会的な同区に関する指摘を受けて、その社会の一部分である自分の身の回りのことを含めて考えさせられました。
まずは「経済的合理性」は「利益率でものを考える」ということとしても表現されています。そこには、たしかに当初は「手段の合理性」があるのでしょうが、「目的」を喪失したところで「手段」が独自の意味を持ってしまう、というのはとても危険なことなのだと思います。
その上での「高齢化」です。日本の国全体として「将来世代の借金」で今を生き延びているようなことがありますが、それは社会の隅々のいたるところで同様の構造を生み出しているのでしょう。土地家屋調査士の業界においても、「今と同じようなことをし続けていたら未来はないのではないか」、ということは、少しでもものを考える人間であればだれでも考えるようなことなのですが、「無責任な高齢者」がそれにフタをしてしまう、ということがなされているように思えます。これは構造としての問題です。
日本について著者は、「日本はテクノロジーに問題があるわけではありません。最も進んだ国の一つであり、国民全体の教育レベルが高い国です。しかし教育のある女性が働きながら子供を持つようにすることができないままです。」と指摘しています。
まさに、こういうところに問題があるのでしょう。「教育のある女性」が、その教育程度に応じた「活躍」ができずにいます。同様のことは、男性の「教育のある」人々の問題でもあります。いくら「教育」があろうと、それを活かす社会的な構造がないと「宝の持ち腐れ」になってしまいます。本来は、ものを考え、それを創造的に生かしていくことに役立つべき「教育」が、より「上」で作られるシステムを動かしていく歯車としてよりよく機能するためだけの役割しか果たさなくなってきてしうまう、という姿は、私たちの業務領域でも見ることのできるものです。
2016年は、世界と日本で「トランプ大統領」と「カジノ法案」というとんでもない形で終わろうとしています。そのような社会の潮流が私たちをも包んで進んでいる今、本書で示されたようなことを自分自身の問題として考える必要がある、と思いました。
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