(田口俊平碑の安全祈願祭)
3月2日
幕末の幕府は留学生としてオランダに士官9名その他准士官2名・職人4名から成る総勢15名を派遣しました。その士官のなかに付知町の田口家の養子である田口俊平氏が入っていました。他には内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門(貞説)、赤松大三郎などそうそうたるメンバーです。オランダへの留学生派遣は、幕府がオランダに依頼した軍艦(開陽丸)建造の監督も兼ねていました。田口氏や榎本氏らが開陽丸を回航して帰国するのは慶応3年になります。この石碑は後の総理大臣で若き日に砲術を習っていた時の海軍大将鈴木貫太郎氏が俊平氏を敬い建てられたものです。この石碑をこのたび加地工務店さんが整備をしていただけるとのことで、安全祈願祭が今日行われました。郷土の偉大な先人をこれからも大事に護っていきたいと思います。
3月2日
幕末の幕府は留学生としてオランダに士官9名その他准士官2名・職人4名から成る総勢15名を派遣しました。その士官のなかに付知町の田口家の養子である田口俊平氏が入っていました。他には内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門(貞説)、赤松大三郎などそうそうたるメンバーです。オランダへの留学生派遣は、幕府がオランダに依頼した軍艦(開陽丸)建造の監督も兼ねていました。田口氏や榎本氏らが開陽丸を回航して帰国するのは慶応3年になります。この石碑は後の総理大臣で若き日に砲術を習っていた時の海軍大将鈴木貫太郎氏が俊平氏を敬い建てられたものです。この石碑をこのたび加地工務店さんが整備をしていただけるとのことで、安全祈願祭が今日行われました。郷土の偉大な先人をこれからも大事に護っていきたいと思います。