土日と秋晴れの素晴らしい天気でしたが、皆さん如何お過ごしでしたか?
私は、山田錦の刈り取りで家族で奮闘していました。
SNSから三木市の市債についてのコメントを頂戴しましたので、過去に掲載したものをご紹介したいと思います。
三木市の市債と基金は此方➡http://blog.goo.ne.jp/mituda_1965/e/557c976bef2899804c843541e8579d49
事実の公表の仕方について、負債と基金については此方➡http://blog.goo.ne.jp/mituda_1965/e/c7fbdc23d021ef64629ae6c35ec46d7b
他市と比較してみるとは此方➡http://blog.goo.ne.jp/mituda_1965/e/ccb97cc323dd626fc985abdf21368e6c
このほかにも過去のブログ内で発信しています。
私のブログ内での検索の方法は私のブログを開く➡画面右上の検索横の枠内に検索したい言葉を入れる➡その横の枠内の「このブログ内で」を選択する➡検索マークをクリック
以上で過去の記事の検索が出来ます。
仰る通りですね。
庁内で行われる政策が、記者発表やFMで初めて聞いて分かる。そんなことも多々ありますね。
それも、現場の職員が。
そんな政策に限って順調に進みませんしね。
私から見て、職員は只のコマ。
一部の市民は、使い勝手のいい便利使い。
これが、市長の政策からくみ取れますよね。
仰るように、他にも誤解をされた方からも質問がありました。
私は、祭りはまつり、職務は職務と言うことでノーサイドと言うことだったのですが。
そこが、誤解が生じたところかもしれません。
私には、職務では職責として賛同できないことがあり、議論を尽くそうとしますが、それ以外は、只の薮本氏なので、こだわりは無かっただけなのです。
これからは、誤解されないように努めたいと思います。
仰るように、市長を変える事が第一だと思います。
ポチのような議員がいるとしたら、必要ないと思いますし、市民に理解を深めて頂き、正当な判断をして頂きたいと思います。
只、職員については、正義を大切にしてほしいと思いっています。
人として、大人として、親として、大事にしなければならないものがあると思います。
しかし、生活を人質に、家庭を人質に取られている身であることが分からなくもありませんが。
御理解頂き有難う御座います。
仰る通り、今の市長の政策は、一事が万事その場しのぎのものばかりだと実感しています。
市長の場合、幾ら大きな事業を打ち上げても、結果として成果は出ていません。
つまり、日々の小さな取組も同じであり、それが、重要な政策に反映されていると思いますので、職責として言い続けています。
同じように、職員にも夢と希望、正義と誇りを取り戻して欲しいと思うのは、私も同感です。
そういう私も今、投稿する気持ちが少し萎えております。
過日、大宮の秋祭りの記事で大西さんのもとへどなた様かの連絡で薮本市長が駆けつけ、握手したとか、ともに屋台を担ぐ写真におさまっただとか、その記事や関連コメントを読んで、しばらくコメント欄で意見を申し上げるのを控えようと思いました。了見が狭いと非難されようとも、何か違和感を覚えます。
しかしながら今の庁内での政策策定の状況は、担当課、担当者の意見に耳を傾けず、一方的にトップダウンで指示が来ます。ひどい時には記者発表やFM放送で収録後にその事実を知ります。その内容についても担当課にはびっくりの内容です。
そういったこれまでの政策はほとんどが失敗に終わったり上手に改められています。一営利企業であればやり直しがきくことであっても、行政運営は市民の税金で賄っています。そんなに一人の思い付きですることではありません。
トップは、担当課、担当者から意見を汲み上げながら政策を行うのはもちろん担当課、担当者ももっと意見を言うべきであって、言わされないのであれば自ら進言するべきというのが私の意見です。
日本人は「組織」という言葉に弱いように思います。それぞれの立場、役割をきっちり果たしてこその組織です。ワールドカップラグビー日本の姿がその象徴です。
このような体質の中で、反論したり、信念や正義を貫こうとすれば、居場所が無くなり、職場を辞さなければならないのである。
20年・30年と公務員を勤め上げた者にとって、今更、信念や正義に基づいて行動を起こすことは、体制にはむかい、孤立を深め、立場を悪くし、生活の糧まで奪われかねないことであって、現在の報酬を得続けるには、事なかれ主義を貫くのが賢い世渡りであり、一般的な社会の道理である。
よって、職員の品格(品質)を変えるのも、我々市民の責務であり、職員を変えるためには政治を変えなければならないのである。
ワンマン市長と、お抱えポチ議員に“ノー”を示すことが、三木市政を正当化させる一歩であることを、一人でも多くの市民に気づいてもらいたい。三木市が瓦解する前に。
先日の大西議員の議会質問に対して、「重箱の隅をつつく」という言葉が結構あちらこちらで使われていました。大西議員は現在総合体育館建設に対する質問やこれままでにもバス交通、図書館建設、北播磨総合医療センター建設等の公共投資だけではなく未来の子育て問題にも深く切り込んでいます。そんな議員が他にいますか?
恐らく「重箱の隅」とは、市長のコスプレ問題やミャンマーへの私費訪問など市長やその取り巻きにとって痛いところを突かれたので、あえて悪い意味で使われる「重箱の隅をつつく」といった言葉を使って大西議員を小さい人間として市民に伝え、自分たちを正当化させたかったのでしょう。
「重箱の隅」という表現は別として、小さなことも非常に大事なことです。小さななことの積み重ねがやがて大きなことになってくるのです。今の市の職員はある意味かわいそう部分もあると思います。日々疲弊した状態の中で(中には上手に泳いでいる人や逆手に取っている人もいますが)、心の中ではこれはおかしいなと思っていることがあってもやり過ごしてしまうのです。やり過ごして多くの無駄な仕事をするほうが上司におかしいって言うことより何倍も楽なのです。上司自身もおかしいと思っても合言葉は組織の一員です。
しかしながら私が思うのは、「私はなぜこの仕事をしているのか?」「私はなぜ公務員になったのか?」初心に帰って職員の品格を取り戻して欲しいのです。