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2009.05.14 感謝の仲間(その2)

<感謝の仲間(その2)>

14年前の震災の復興の時、そして4年前の今の家への転居の時、そ
の2年後の最終的な引き払いに至る、大きな試練の3回の転機…、
その間、私はたった一度も、お願い助けて!と言う必要が無かった
のです。
彼女達が、すべて考えて行動してくれました。
「次は、何日と何日と何日に集合よ。その後は、何回集まれば終る
はず。」などと友人達が計画しているのを、横で聞くだけでした。

私は「父母が頼んでくれたのだ。父母の強い念で私は助けて頂いて
いるのだ。そうとしか考えられない。」と思い「お父さんお母さん
ありがとうございます!」と、いつも心で叫んでいました。


震災復興の時は、この他に「司令官」の役目を見事に果たして下さ
った男性がいて、その方の適確な推進力と細かい配慮に、ただただ
一同尊敬の念を持ち、従いました。
あの様に、真心込めて、復旧推進が出来るものかと感心しました。
人を引っ張って行く人は、頭脳と心が違うと思いました。

殆ど毎週、土曜か日曜(皆働いていたので休日に)大阪で集合し、
皆で神戸へ向います。
神戸の我が家へ到着してしばらくすると、関西電力や、電話局の人
がやって来ます。彼が事前に予約しているのです。
電話線を繋いで貰ったり、電線を復旧して貰う為です。

私は、大阪で集合する時、いつもすぐには皆さんに有難うと言えま
せんでした。私は、そのことを詫びました。
「私は『先に心の中で、お父さんお母さんありがとう。』と言って
しまうので、皆さんにありがとうと言うのは遅れてしまうんよ。」と。
すると、司令官から帰って来る言葉は、「それでいいねん。それで
いいねん。」と言う言葉でした。
そう言う暖かな人達に包まれての復興でした。


被災地に着くと、司令官は超多忙でした。
家の中はすべての物が倒れ、壊れた箪笥や戸棚や本箱から物が飛び
出したものが大きな山となって、足の踏み場も無く散乱しています。
普通の軍手では、割れ物が手に刺さる為、豚皮の手袋で、それら
を選別したり捨てたりの作業の連続の中、給水車の音楽が鳴ると、
彼はすぐ飛び出して、近所のバラックやガレージで、寒さで焚き火
を炊きながら、家財道具を守りつつ生活している人達に声をかけ
バケツを借りて水を運んであげていました。
自転車を使って運ぶ人には、水を乗せて自分が自転車を押して歩き、
被災者の人を手ぶらにして上げて、一緒に和やかに話しながら帰っ
て来ます。

私達だけでなく、廻りの人達からも好かれ信頼されていて、後々迄、
あの上役の方はお元気ですか?と、懐かしそうに聞かれました。
親身な気働きから、てっきり私の職場の上役だと思われていた様で
した。実は若い頃の職場のお客様でした。ですから、私の友人達も
同じく顔見知りだったのです。

彼は人々とコミュニケーションを取りながら、遠く離れた所へ避難
している私が取り残されない様と、情報収集に熱心でした。
ブルドーザーによる撤去はいつからか?何ヶ月先のことか?どう
いう順番で更地にして行くのか?情報は、彼が一番知っていました。

一つずつの家を取り壊し、更地にして行く時、彼は、その一軒ずつ
の業者に掛け合って(一軒ずつすべて業者が違います。日本中から
来ています。)我が家の瓦礫を面倒みてくれる様頼んでくれました。

何故なら、我が家は、一軒だけ、梁が歪まず残ったので、壊さずに
修理して住む予定の為、瓦礫を捨てる方法が全く無かったのです。
折角、瓦礫を土嚢袋に入れてどんどん整理して行っても、家の前に
うずたかく積むだけで、何処にも持って行き場が無かったのです。
その内に、これを、どうにかしてくれないと、道を塞いで、作業が
出来ないと苦情が来ましたが、捨てる術が無いのです。

業者ならば、廃材を捨てる権利を持っています。
しかし、業者が神戸市から貰うお金は、潰す家の潰し賃と、潰した
廃材の運搬費や手数料です。
従って、それ以外の物を運ぶのは、只働きです。
でも、業者は親切で、出来ることは、目をつぶってくれました。
ブルドーザーで潰した家の瓦礫の中に、運べるだけの瓦礫を運んで
おくと、廃材として一緒に撤去してくれると言ってくれたのです。
彼は常にアンテナを張り巡らせて、一軒ずつ業者に掛け合ってくれ
て、我が家の復興を進めてくれました。


そして、司令官には、一軒ずつ取り壊された瓦礫の山に、別の大き
な目的がありました。
ブルドーザーが壊した後、廃材を運ぶトラックが来る迄に、日数が
あります。
彼は、そこへ行き、鉄の棒を何本かずつ、拾って来ました。

我が家の南の塀は、南の家が我が家の側へ倒れた為、塀がその家を
受けた形になって、倒れました。
彼は、適当な鉄の棒を物色して拾って来ては、我が家の塀を修復し
始めました。
まず、倒れている塀を起してから、欠損している部分を、自力で
補填しようとしました。

欠損部分は、奥側の15メートルほどでした。
適当な鉄の棒が無い時は、木の棒のこともありました。それを、
やはり廃材の縄やら、針金で、結わえながら、組んで行くのです。
皆で道を通っている時も、彼の目は、両側の道のおびただしい瓦礫
を見ていて、何本かの棒を拾って来ていました。
一日に数本の棒でも、日に日に復旧部分は拡がって行き、真夏の頃、
ふと見ると、塀はすでに完成していました。

一面、更地となった中に、たった一軒だけ残って、国道から我が家
が見えるという、信じられない光景の中、1年半も空家にしていて
も、物取りにもあわず、浮浪者に住み付かれることも無かったのは、
この塀のお陰だったと深く感謝しています。


              <感謝の仲間(その3)へ続く>



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