友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大腸がん検査

2007年07月19日 19時51分25秒 | Weblog
 住民検診で便に潜血があったことを見つけたかかりつけの医師が「一度カメラで大腸を調べてみましょうか」と言う。私は医師の診断には逆らわないことにしているので、「わかりました」と答えた。ところが、カメラを扱うのは病院の理事長の医師だと言う。以前、人間ドックを受けた時に、検査結果の数値を見て、こんな数値でよく生きておられるものだというような診断をした医師だ。数値の記入間違いだとわかって、コーヒーをご馳走していただいたが、不信感は今も残る。突拍子も無い数値だったのだから、「以前からこんな数値でしたか。昨年も検診を受けられていますか」とか、なぜ思わなかったのかと不思議な気がした。

 病院経営ではやり手であっても医師としての手腕は大丈夫なのかと心配だったが、やはり医師である。そんなに苦痛も無く、カメラはどんどん奥へと入っていく。その様子が画面で見られるようになっているから、ロの字に進んでいくのがよくわかる。素人の私が見ても私の大腸はなかなかキレイだ。終わって診察室でお話を伺う。「キレイなものです。心配はありません。これから5年間は大腸がん検査の必要はないでしょう」との診断。「ですからこの写真は記念写真ですが、要らなかったら捨ててください」と言われる。義父は大腸がんから転移していったし、私が兄のように思っていた友人も大腸がんで亡くなったから、検査だけは受けておこうと思ったのだが、結果が良くて本当はホッとした。

 出かける前にはシャワーを浴び、お尻の周りもよく洗って出かけた。行くと看護師さんが二人待っている。一人は宝塚のスターで、最近テレビによく出ている天海祐希さんに似た美人だ。この看護師さんが「ハイ、失礼しますね。お尻の位置を確認します」と私の目からは見えないが、特性のパンツの穴から覗き込む。医師も手際よく「初めちょっと痛いかもしれません」と言うながら、すっーとカメラを肛門から差し込む。なんてことなくスムースに入り込んでいく。医師の腕がいいのではなく、私の身体が順応性に富んでいるのだと思ったくらいだ。それでもやはり、曲がり角ではおならがしたくらるような、オエッとした不快に襲われた。

 それにしても、何も最後まで画面を見ていることは無かったのに、カメラが肛門から取り出される瞬間まで見ていて、男の尻の穴は汚いなと思った。何で尻の穴の周りにまで毛が生えているのか、ゾッとするなと自分の尻の穴なのに思った。女の尻の穴を見たことがあるから、余計にそう思ったのかもしれない。女たちはどこもかしこも美しい。男はどうしても美しさではかなわないから、力強さやたくましさを磨こうとするのだろう。診察台から降りて天海看護師さんと並ぶと、彼女は私の身長よりも15センチか20センチ高い。ミスコンテストに出たならきっと入賞だと思ったが、いやいやフェミニストの私としては自分で見比べることはあっても、コンテストは否定しないとなと思い直した。
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生きたように死ぬ

2007年07月18日 19時16分21秒 | Weblog
 今年、9月30日の日曜日に中学のクラス会を開く。そこで、このところ案内を出しても返事が来ない同級生が気になり、クラス会名簿に載っている住所を尋ねた。車で1時間余り行った山間の静かな町だ。役所でここに行きたいのだがどう行けばよいかと尋ねた。若い職員はわざわざ住宅地図を持ってきて、「この辺りですね」と教えてくれた。松宮貞治と地図にある。「ええそうです。これです」と言うと、今度は全体が見える地図を持ってきて行き方を教えてくれた。

 そこは新興住宅街で、そばの雇用促進住宅とは比べものにならないくらいの住宅が数件建っていた。彼の家はすぐにわかった。10年も地域の小さな新聞ながら記者を勤めてきたから、家探しはかなりカンが働く。大きな家だ。建坪は40坪くらいありそうだ。それにしても昔風の黒壁の2階建てとは驚いた。しかし、誰もいないようだ。表札も無い。近所の人に聞いてみようと思うのだが、犬はいるけれど人の気配が無い。犬が吠え続けていても誰も顔さえ出してくれない。そのうち、テレビの音がする家があったので声をかけた。

 「ああ、松宮さんは亡くなられましたよ。奥さんが先に亡くなられて、それからすぐでしたね」とその家の奥さんに教えていただく。そうか、やはりそうだったのかと思った。いつのクラス会だったか定かではないが、「絶対来るで、ちゃんと連絡してよ」と言っていた。その時、もう奥さんの具合が悪いというようなことを言っていたかもしれないな、もう少しきちんと聞いてあげればよかったと思った。家から程近いところを飛騨川が悠々と流れている。彼が住んでいた町で造られている地酒を買い求め、少し憂鬱な気分で帰った。

 松宮君とは中学3年生の時に初めて出会った。背が低かったけれど、筋肉質で力持ちだった。明るくさばさばしていた。中学を卒業すると名古屋の菓子工場へ就職した。しばらくして、会いに来て欲しいというので、その会社を訪ねていったことがある。小さな工場で、おかきを作っていた。社長さんにも会った。どうして私が訪ねて行き、社長にも会ったのか、わからないが、松宮君は私を頼りにしていることはよくわかったので、「これから文通してくれ」と言う要求にも応じてしばらく手紙のやり取りがあった。彼は「いつか社長になる」と言っていたが、山間の住宅街に建っていた家は私の家よりも立派な家だ。悔いは無いだろう。

 彼が何時その菓子工場を辞めたのか私は知らないが、ひょっこりクラス会で会った時は名古屋の別の会社で働いていた。中学校の卒業が近づいていた頃だった。彼が好きな女の子の家に連れて行ってくれというので、一緒に出かけたこともある。あれから、彼はどんな人生を歩いたのだろう。山間の住宅街に、大きな家を建て、毎日飛騨川の流れを眺めながら何を考えていたのだろう。今度のクラス会の役員を一緒にやっているメル友が「あるホスピスの先生が言われた『結局、“生きたように死ぬ”』という 言葉を教訓にしています」とメールをくれた。お嬢さん育ちで、地元育ちの私たちには手の届かないと人だった彼女が「非常に難しいですけど、最近では“おだやかに、おだやかに”と自分に言い聞かせながら生きています」と言う。彼女もまた、人生を時々振り返っているようだ。
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若い民主党市議たち

2007年07月17日 22時06分17秒 | Weblog
「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の仲間が立候補を表明しているので、手伝いに出かけたが、あいにくの雨で、結局はただ「頑張ってください」と激励に行っただけになってしまった。その事務所で、これまでに何度か見かけた二人の若者に出会った。実にバイタリティーに富んでいて、事務所に泊り込んで実際に選挙活動を展開してくれていた人たちだ。関西の彼は、人の使い方がうまかったし、関東の彼は演説が秀でていた。二人とも今は民主党の市議会議員になっていた。以前に比べると少し太っていたから、それだけ貫禄が付いたということだろう。30歳かその手前という若い議員である。

 「日本を変える人たちですよ」と、候補者が言う。そうなってもらいたいと思う。きっと彼らは次には県会議員そして国会議員と進むであろう。それも、昔の議員のように、上下関係があって出世していくというものではなく、地方議会議員を自らの力量をつけていく場として経験していくのだ。私はアメリカの選挙がどのように行われているのか知らなかったが、ヒラリー・クリントンの伝記を読んで学ぶことができた。アメリカでは高校生の時から政治にかかわっている。二人とも若い時から市民運動に参加し、政治家の選挙を手伝っている点では、アメリカの政治家とよく似ている。

 二人がどのような考えを抱いているのか、そこまではわからなかったが、誠実な感じは受けた。こういう若い人たちが民主党の議員として、民主党の中で議論を巻き起こしていくなら、民主党も確かに変っていくだろう。社会党がつぶれていった時、「なぜ社会党はこんなことになってしまったのか」について、社会党の県会議員と話したことがあった。「最大の原因は、組合票に頼って、何一つ論議をしてこなかったことだ」とこの県議は言う。本当に?と思ったが、どのような国を作るのか、そのためにどのような政策を打ち出すのか、そうした議論は抜きに「党の方針」が降ろされ、何よりも議論されたのは「票集め」だったそうだ。

 民主党を烏合の衆とか、呉越同舟とか言う。そのとおりだ。私は、憲法第9条は21世紀の国家戦略であり指針だと思っているが、戦力強化で国家の防衛に努めるべきだと主張する民主党議員もいる。いろんな意見が党内に存在することはしかたが無いし、異なる意見が抹殺されない政党の方が健全だと思う。しかしできることなら、民主党内で憲法第9条の価値を認める議員が多数になって欲しいと願っている。どのような国家を目指すのか、どのような価値観を大切にしていくのか、大いに論議し、どうしても一致できなければ、分かれればよいではないか。その時は自民党も巻き込み、もう一度政界の再編成へ進むべきであろう。いずれそういう時が来るように思う。
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台風と地震と

2007年07月16日 19時44分58秒 | Weblog
 勢力の大きな台風が通り過ぎたと思ったら、今度は地震である。午前中、机に向かっていると、ゆっくりと建物が揺れだした。地震だ。これが前触れならさらに大きなうねりが来るぞと身構えたが、長い揺れは次第に収まっていった。阪神淡路大地震の時は、まだ朝の早い時だったこともあって布団の中にいたから、その衝撃は強く伝わってきた。あの時に比べれば、今回はそれほどでもなかったが、震源地がどこかで地震の強度も違ってくる。テレビをつけると新潟の出雲崎沖だと報道していた。新潟での地震がこんなところまでも伝わってくるのだから、かなり強い地震だったのだろうと思った。

 4月に三重県の鈴鹿で起きた地震の時は、丁度、地方議会議員の選挙の真っ只中で、私も応援のために四日市市にいた。候補者が演説をしようとする時で、私はのぼりを持って車の脇に立っていたが、突然、グラグラと来た。確かに地面が波立っていくのが見えた。この時もこれが前触れで次に本格的な地震波が来るのかと、目前の家屋を見つめていたが、幸いにも大事には至らなかった。今日の午後、また少し揺れたような気がした。テレビでは三重県と奈良県堺で震度3の地震があったと報じていたので、鈴鹿の地震がよみがえってきた。

 先日、飲んだ時に自然淘汰が話題になった。人間の歴史は人口が増えすぎないように戦争で調整しているとまことしやかに言う人がいた。そんな話は昔聞いたことがあるが、歴史がわかってくると人口の抑制のために戦争があるわけではないと知った。けれども、地球の歴史は地上で栄えたものがいつかはまた衰退していく、あるいは消滅していくことも物語っているから、自然淘汰と言えないことも無いなどとヘリクツを言い合ったりした。自然淘汰と言うよりは輪廻転生だとか、それは霊魂が不滅と言うことだから、質量不変の法則だとか、脱線していった。

 飲んだ席での論議だから、どうでもいいことだが、なんとなく天変地異が続くとやはり人は人間の歴史も終焉を迎えようとしているのかと感じるようだ。いつ、この世の終わりの時が来ても悔いの無いように、自分らしく生きていたと思う。そうした意味でも、7月28日に行う、大和塾の市民講座『備えあれば憂いなし』は期待できるテーマだと思う。私は皆さんに「どういう風に死ぬのかという話ではありません。最後まで自分らしく生きるため、何をするかということです。そのためにも現場の医師の話を聞いて、みんなで考えていこうという市民講座です」と話している。

 歳を取ると、なんとなく抹香臭くなる。「ころりと逝けるのが一番いい」などと馬鹿げた話ばかりする人もいる。最後の最後まで、一生懸命で自分らしく生きよう、自分勝手だとか自己中心だとか人の評価は気にせずに、自分が望むように生き抜くことはできなくても、そう努力することはできる。最後の最後は、自分の生の終わりなのか、人類の生の終わりなのか、いずれであっても私がどう最後まで生きていくかだと思う。
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摩訶不思議な出来事

2007年07月15日 18時42分42秒 | Weblog
 昨日は今度の夏祭りにどんな屋台を出すか、その打ち合わせを我が家で行った。みんなが帰って、パソコンに向かってブログを書いていたはずなのに、掲載できていない。そういえば打ち込んでいるうちに、気が付いたら午前零時を過ぎてしまっていた。ああ、万事休す。そうなるとやはり途端に酔いが回ってきて、それからどうしたのか覚えていなかった。さて、その文章だが次のように打ち込まれていた。

 屋台の出し物だが、メインであるアユの塩焼きは、今年はこの長雨のために天然物が採れないのではないか、そういう心配が大きかった。確かにこの長雨では無理だろうから、天然物は高くなりそうだと言うのが大方の予想である。せっかくのメインが高くなっては、私たちの屋台の呼び物が無くなってしまう。たとえ、アユが高くなったとしてもやはり今までどおりの値段で売らなくてはならないだろう。そこで、じゃあー何か補助になるものを考えようということになった。

 屋台で何を出すか、何を作ってどのように売るのか、利益があるとか無いとかいうことよりも、この商品は売れるであろうとかイヤこちらの企画の方が売れるよ、といった議論が楽しいのだ。午後7時に集まっていただいてから、ほぼ1時間半、真面目に議論して運営の指針がまとまった。それでは、その商品の試食をしてみて、最終判断をしようということになった。食べてみると、どれも美味しく捨てがたい。なんとか全てのアイディアが活かされるようにと、飲みながら食べながら、我が家での議論は続いていった。

 久しぶりに、ワイワイガヤガヤと飲んでは話し、止まることが無かったが、気が付けば午後11時を回っていた。親しい友人に時計を見せ、そろそろお開きにしないと、いつ終わるのかわからなくなるよと目配せする。そこは心得たもので、手際よく終了の雰囲気を作っていってくれる。
 
 ここまで、書いてあったが次の文章がよくわからない。

 若い時は、人妻を口説いてはならないと自責の思いに責められていたとしても、やはり詩作の世界に入り込んで行ったのだから。しかし歳を重ねた今、恥ずかしさばかりで先を読み見て描いている芸術を

 何が書きたかったのか、全くわからない。誰かが私のパソコンに侵入してきて書き込んだのかとさえ思ったが、わざわざそんなことをするはずが無いし、意味不明で途中半端なのもヘンだ。どうやら酔っ払っていたので、自分でも何を書いているのか、わからなくなっていたのだろう。シュールリアリスムならばさしずめ自動記述法による作品とでもなるのだろうが、作品の体裁はなく、読み返してみると摩訶不思議な思いがする。
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リーダーの役割

2007年07月13日 23時56分34秒 | Weblog
 お世話になっている社長さんに「ご忠告ありがとうございました」と言われ、一瞬戸惑った。私がブログに書いた『事業を支えるのは従業員だが』と題した記事を読んでくださっていたのだ。私は恩義があり、ぜひとも大きく成長して欲しい事業所である。以前、社長が「私の思いを汲んでやってくれる従業員がいない」とこぼしてみえた。私が見る限りでは、社長は自分の思いやビジョンを従業員と膝を交えて話していない。話さなければ伝わらない。「わかるだろう」ではわからないのだ。

 谷川俊太郎の作品に「アイザック・ニュートン」がある。万有引力の法則を発見したイギリスの科学者だ。谷川さんは独自のユーモアで、ニュートンといいなずけのエリザベスの会話を作品にしている。二人がリンゴ園を仲良く腕を組んで歩いていた時に、一個のリンゴが足元に落ちてきたことから、交わす会話を書き上げた作品である。そのおもしろさは読んでいただいた方がよくわかるので省くが、この作品からも、人というものは誠に難儀なものであることが確かだとわかる。

 恋人同士でお互いによくわかっているつもりであっても、意外にもわかっていないというよりも、わかることと同調することとは違うということなのだろう。理解することは即受け入れるということではないし、同じ意見同じ考えになることではない。そうわかっているのに、それは理解しているが、やはり同じ意見同じ考え同じ感性になって欲しいと人間は求めるもののようだ。別々であるからこそ、互いの存在を認められる、違っているからこそ、お互いが必要としている、こういう関係を私はヨシとしたい。

 7家族12人でアメリカ旅行をした時、最年長者が私を「この旅行の総責任者」と決めた。もちろん私はそのつもりでいたが、彼は私がその役目を充分に果たしていなかったと感じていたようだった。彼は、修学旅行の引率教員のように、その場その場で点呼をとり、注意を与え、引っ張っていくことを期待していた。しかし、私たちのグループの中にはその役目にピッタリの人がいたし、見事にやってのけてくれていたので彼に任せていた。私は目立つだけがリーダーとは思っていない。みんなが信頼して、働いてくれる雰囲気を作り上げておくことがリーダーの役目だと思っている。仲間の和が崩れそうになったり、みんなの前に立つ人が落ち込んだり、そんな時こそがリーダーが力を発揮する時である。

 わが身を犠牲にできないような人はリーダーにはなれない。仲間のために、尽くすことができなくてはリーダーにはなれない。私はそう信じてきた。
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銃口ー教師・北森竜太の青春

2007年07月12日 23時35分52秒 | Weblog
 今日は名演の日です。
 7月例会は青年劇場の『銃口―教師・北森竜太の青春』である。原作は三浦綾子さんだが、残念ながら私は読んでいなかったので、どんな話なのかと思いながら出かけた。帰りの車の中で、80歳になる私の友人が「出てくる人はみんないい人で、見ている人は涙を流して『今日はいい芝居だった』と言うかもしれないけど、あんなにみんないい人だったわけではない、私は素直でないからそう思ってしまう」と言う。私自身は戦後のことしかわからないが、戦前の空気を少しでも知っている彼女には甘すぎると見えたのかもしれない。

 それはわからないけれど、三浦さんのこの作品は実際に北海道であったことを下に描いている。綴り方をとおして子どもたちを教育していこうという真面目な教師たちが、「共産主義者あるいは共産党の手先」と弾圧された事件だ。主人公の北森先生がそうであったように、子どもが好きで子どものためにと一生懸命だった良心的な教師が、そのために捕らえられ、拷問され、亡くなった人さえもいた事件だ。治安維持法はどのようにでも拡大解釈できたし、特高が目を付け、捕らえることで、人々を恐怖に落としいれ、国家に服従させるに充分だったのだ。

 人間は権力に弱い。権力を持てば、人を押さえつけることができる。権力の餌食になる者は、恐怖から逃れるために良心を曲げる。北森先生も、綴り方教育は国家に反逆するものではない、したがって自分の良心を曲げよ、教師を辞職せよ、と迫る特高に屈しなかった。しかし、自分が尊敬する先生を助けるために、特高の要求に屈する。人として最も大切なことは良心を裏切らないことだと信じてきただけに、自分の行為を恥じた。

 戦後、かろうじて生き残り、復員した彼は教師に戻ることをためらう。自分に本当にその資格があるのか、彼は迷う。戦友の手紙をその母親の元に届けに行き、そこでその母親から、「先生のおかげで字が書け読めるようになり、心が通じることができた」と言われ、教師は人と人との心をつなぐ仕事だと理解し、復職を決意する。そんな風にハッピーエンドでいいのかなと、私の友人は思ったのかも知れない。三浦綾子も教師であったから、戦前と戦後に生きた教師の苦悩、その苦悩を通して、人は何を大切に生きるかを描きかったと思う。

 日本国憲法は、第36条で「公務員による拷問および残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と述べているのも、過去への反省からだ。人は決して強くない。「痛い目にあわせてやる」という言葉があるが、何度も繰り返されたならどんなに強い意志の人でも、恐怖から逃れられたいと思うものだ。国民の心が一つになるということは、そこからはみ出す人がいれば、許さないということでもある。そんな世の中には怖い。そんな社会にしてはならない。
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中国の革命思想

2007年07月11日 22時54分48秒 | Weblog
 友だちがブログで「親方(日の丸)のすることは正しいは虚言だ」と年金問題を嘆いていた。年金はまたまた暴かれることになったが、こうした不正は国民の目の届きにくいところではいくらでもあるように思う。民間会社なら経理は全くオープンで、監査の目が行き届くかと言えば、やはりそうではない。会社ぐるみで裏金作りをしているところが結構ある。時々、税務署から摘発されることがあるから、そんな会社が存在することは確かだ。税務署の摘発は氷山の一角と見るのが正しいだろう。

 私たちは、物を買ったりする時はかなり厳しくチェックするのに、こと税金となると収めてから先のことには関心がない。今回は、収めたのだからというので、その領収書を残しておかなかった人たちがとんでもない目に遭っている。私も実はそんな領収書など1枚もない。役所がやることに間違いはないと、信じてきた。議員になって、役所は全く都合の良いように税金を使っていることを知ったが、お金がどこに行ってしまったのかわからないようなことはあり得ないと思っていた。役所の悪いところだが、良いところでもある、絶対に間違いがないのが役所だと思い込んできた。

 年金のように、集めてそれを運用しながら、受給者に支払っていく。巨額のお金が動いているのに、ここのチェックはどのように行われていたのだろう。民主党の議員がしつこくこの問題を追っていたが、そういう議員がいなければ見いだせなかったとなると、実に情けない制度だ。地方でも、行政のお金の収支は議会で論議されるから、ある程度はわかる。ある程度というのは、議員は何もしなくても報酬が入るから、実に何もしない議員活動の人が結構多い。

 ましてや、第3者機関のようなものとなると、チェックが困難なものもある。行政側の良心に任せる以外に無いというおかしなことすらある。もちろん、税金を使う側にいる人たちはそれぞれに皆、正義感と公正・公平な使命感を持った人たちが多いはずだ。国民のために、市民のために働いているという気持ちが誇りであり、やりがいであるはずだ。だから国民から市民から、集めたお金がどこに行ったのかわからないなど、あるはずがない事態だと言える。

 関係した人々で、ボーナスを返還するという。その金額を聞いて驚いた。事務次官のボーナスは3百何十万円だと言う。1年間ではボーナスだけで1千万を越すようなお金を公務員がもらっているのはおかしくないか。ここにも、税金に対する謙虚な気持ちがなくなっているように思う。議員は選挙というハードルがあるから、あるいは議員活動が多岐にわたるから、それなりの金額を保証しようというのはわかる。しかしいくら高級公務員でもこの金額は多すぎないか。上から順番に決めていくからこういう結果になるのだろう。そこそこに生活できる給与でよいのではないかと考えるのは間違いなのだろうか。

 失政をした行政は、あるいは政府は、即解散し次の担い手が原因を究明し、新たな制度を確立するのが常識だろう。どうして、ミスを犯したものがそのまま、民間に移行して、やり直すと言えるのか、呆れてしまう。古代中国では、執政者が徳を失えば、天は民の信服を得た他の有徳者に、命を下すという「革命」思想があり、孟子もこれを認めていた。武器を持って政権を奪取することには反対だが、天命は下される時だと思う。
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事業を支えるのは従業員だが

2007年07月10日 23時08分27秒 | Weblog
 会社の社長は、規模に関係なく、大変な立場である。私は社員が何千人というような大会社の社長とは接点がなかったが、中小企業の社長とは話す機会が多かった。中小企業の中でも、文字どおり従業員が4人から5人という小さな事業所のトップは大変だなあと思った。何人かの部下を持つ上司も大変であることには変わりないが、それでも総責任者ではないだけに逃げ道がある。お店でも会社でも、最後はトップが自分で決めなくてはならない。決断を間違えれば、取り返しができないこともある。

 会社でもお店でも、従業員が働いてくれなくては事業は成り立たない。伸びる会社やお店は、もちろん扱う「商い」が当たるか当たらないかが最大の要素ではあるが、それでも事業の発展を支えているのは、従業員の働きにあると思う。中小企業では、「できる奴」を連れてくればよいというわけにはいかないから、とにかく現在の従業員で頑張り、それで売り上げを伸ばす以外にない。そこで社長や店主が、いかにうまく従業員を働かせているかが最大のポイントになる。

 上司が部下について、「あれはダメだ」と言うような仕事場は悲劇だと思う。上司の資質が悪いから、決して仕事はうまくいかない。「エッ!そうですか。よくやってると思うんですがね」と水を向けると、ムキになって部下をこき下ろす人さえいる。「あれは自分の殻を破ろうとしない」とか「学校で何をやってきたのだろうね」とか、欠点をいくつも挙げてくれる。この人は部下が何のために働くのか、わかっていないのだ。人は決してお金のためだけに働いているのではなく、やりがいを求めていると思う。つまり、人は誰かに評価されたい、認められたい、そういう気持ちがあるから一生懸命に働ける。

 だから上司は人前で部下を叱ってはならない。何かのミスを犯してしまったなら、それがどうして生まれたか、気付かせるのが上司の役割だ。それでも、部下に気付かせるには部下から信頼される、尊敬される上司でなければ、うまくはいかないであろう。上司が権威だけをちらつかせるようなら、聞く耳も見る目も育たない。上司がキチンと自分のビジョンや思いを伝えないなら、部下は働きようがない。

 私の友人に、「ヨイショ」のうまい人がいる。広告代理店に勤めていた彼女は、仕事はチームワークだと知っていたのだ。彼女は部下のよいところを素早く見抜き、引き立て伸ばし、いつの間にかみんなが気持ちよく仕事に取り組む雰囲気を作ってしまうのだ。仕事以外の場所でも同じで、彼女といればどんどんやる気にさせられてしまう。天性の明るさに加えて、よいところを見つけて口にするから、周りの人はみんな気持ちよくなってしまうのだ。これぞ上司のお手本というような人である。
 会社やお店を盛り上げるのは、トップが良い上司の事業所である。
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ホームステイ

2007年07月09日 22時49分32秒 | Weblog
 大和塾の9月講座の講師には、日本自分史センターの平岡俊佑さんをお願いしている。平岡さんが面倒を見ている「春日井市自分史友の会」が、発行している『わだち』第35号に、ニュージーランドの高校生をホームステイした話が載っていた。私自身はホームステイをしたことはないが、国際交流グループの一人として、韓国から小学校5年の女の子を長女夫婦に頼んで引き受けてもらったことがある。孫娘が小学校4年の時だったので、彼女のためにもなると思って、押し付けてしまった。

 やはり一番困ったのは食事だった。何でも食べられると聞いていたが、初めの頃はほとんど食べられなかった。夜になるとメソメソしだすので、これには参った。それでも1週間を過ぎる頃にはかなり慣れてきて、いろいろいたずらをするようになった。ホームステイを引き受けた家では、子どもがいないためにどう時間を使ったらよいのか困り果てた人もいたようだったし、たまたま引き受けた子どもがとんでもなくわがままで、「もう絶対にいや」と言う人もいる。その反対に今では親戚同様な付き合いが続いている家庭もある。

 我が家の長女も19歳の時、アメリカに一人で行き2週間滞在したことがある。カミさんの友だちがユタのソルトレイクにいて、カミさんに一度遊びに来ないかといってくださったので、長女を代わりに行かせた。カミさんの友だちは子どもの頃に両親とアメリカに渡った人と結婚していた。丁度、長女が行った時にそこの娘さんの結婚式があった。

 カミさんの友だちは長女を近所に住む白人の教師の家庭で暮らせられるように頼んでくれた。長女に言わせると、カミさん友人の家は小さくて自分が暮らせるような場所がなかったから、白人の家に押しやったのだということのようだが、私は彼女の思いやりだと思った。せっかくアメリカまで来たのだから、アメリカの家庭を味合ってもらうと考えたのだ。ここで、長女は幼い子どもの面倒を見ることになったが、これも英語が話せない長女への配慮だと思ったけれど、長女の方は「まるでベビーシッターだった」と言う。

 そんなこんなで、長女のアメリカ滞在は「何も良いことがなかった」ようだ。ホームステイの難しいところは、生活習慣の違いや持っている価値観の違いを理解し、受け止め、その上に信頼と愛情を築き上げるには余りにも時間が少ないことだ。逆に時間が長ければ、余りにも多くのストレスを抱え込んでしまうことだってある。長女のアメリカ滞在の話は、ボタンのかけ間違いというかすれ違いというようなことばかりだったが、私が一番感心したのは、長女の勇気にである。ソルトレイクから西海岸に行く飛行機の便が確保できなくて、シカゴへ行き、ここで1泊してから成田へ帰ってきたと聞いて驚いた。飛行機の乗り換えはなれた人ならそれほど難しくないが、初めてでしかも言葉が通じないところでは何をどうしてよいか迷う。シカゴのホテルに一人で泊まるのもどうすればよいのか、ヘルプと言いたくなる。本当によく無事に帰ってきたと思った。
 これこそが彼女の一番の手柄だ。
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