友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ミニスカートの女たち

2007年07月20日 22時58分37秒 | Weblog
 公共交通機関、たとえば電車とか地下鉄とかに乗ると大勢の人に出会うことができる。夏になってきて、女子大生の多くがミニスカートで生あしを見せ付けてくれる。それはそれで男としては、ほどほどにしろよと言いながらもチラチラと目線がいってしまうものだ。しかし、どういうわけかミニスカートなのに、その下に男の股引のような下着なのかタイツなのか、ヘンなものを身に着けているのが流行っている。

 車内での現象は相変わらずだ。若いというだけで、女性は美しくできているのに、まるで人が違ってしまうほど丹念に化粧をし続けていた女子大生がいた。それはまるで、これからキャバレーかスナックか知らないが、男相手の仕事をする女性のようだった。丁度、夕方5時過ぎの電車だったから、冗談ではなく、そんなところで働いている女子大生だったかもしれない。

 そんなにまでして働いて、お金を稼いで、いったい何に使うのだろう。どう見ても大学の勉強に没頭しているような会話は聞かれなかった。話題といえば、男のこととか化粧品のこととか遊びに行く話しばかりだった。ホントにこの子たちは何のために大学へ通っているのだろうかと他人事なのに気になった。女子高校生がミニスカートになったのは、性しか見せられるものがなくなってきたからだという評論を聞いたことがあるが、女子大生はさらにその傾向を強めているのだろうか。

 長い黒髪が美しく、腰がキリッと締まった若い女性が乗り込んできた。その後姿からどんな美人なのかと見ていてビックリした。見つめることに罪悪感を覚え、どうしたらよいのかと迷った。正面を向いた彼女は、まるで怪談映画に出てくるような顔だった。右側半分が青瓜を貼り付けたように盛り上がり、目の周りと唇が青紫で、一瞬見た時は背筋が寒くなるような気さえした。生まれつきなのか、病気のためなのか、私にはわからないが、彼女のこれまでの苦労というか苦痛というか、いやおうなしに背負わされた人生を思い、自分勝手に息が苦しくなった。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言ったのは、福沢諭吉だ。この後の文章では、しかし現実の社会はなんと格差があることかと言っている。この不合理を無くすことが新しい明治という時代の課題だと看破したわけだ。それでも福沢諭吉を共産主義者とは誰も言わない。まだ封建的な慣習に染まっていた人たちは、福沢諭吉の主張に反発し固執したが、近代への流れを止めることはできなかった。

 いらぬおせっかいかもしれないが、電車で乗り合わせた厚化粧する女子大生も、醜い顔の若い女性も、誰も彼もみんな幸せになってもらいたいと思う。もちろん、幸せは人様々だから、どうなることが幸せなのだと私は言え無い。私たちが暮らす社会の最低の基準を決めるのは政治で、その決める場は議会だ。参議院議員選挙の投票日は7月29日である。選挙だけでおしまいにしてはならないと思うけれど、まずは選挙かとも思う。
コメント
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