友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

心を開くことができない

2018年09月26日 16時47分52秒 | Weblog

 昨日のブログで、私は小3の孫娘から、「小さい子になれなれしくするのは、いけないのよ」と叱られたと書き、それは彼女の嫉妬から出たのだろうと結論付けたけれど、どうも私の間違いだった。子どもが誘拐されたり、女の子がいたずらされたり、そんな事件が続いたので、学校では「知らない人からなれなれしく声をかけられたら、無視して逃げる」とか、「近くの大人に助けを求める」と指導しているようだ。

 そういう不埒な輩は、初めから「なれなれしく」声をかけてくる。「なれなれしい人には気をつけよう」と教えられたことが、彼女の中では「なれなれしい」は「悪い人」とつながり、「小さい子になれなれしくしてはダメ」となったのだろう。先生の教えを忠実に守っているが故にの発言だが、なれなれしいことにも「善悪」があることが分かっていない。

 小学校の校門の前で、「おはようございます」と挨拶運動が行われている。挨拶を交わすことは、人と人が理解し合える第一歩だからだ。マンションでも「知らない人でも挨拶しよう」をスローガンに掲げようという運動があった。ところが、「エレベーターに痴漢が出た」となると途端に、「知らない人から声をかけられたらすぐ逃げる」ということになった。

 誰もが挨拶を交わし、気持ちよく過ごせることが大事なのに、ひとりでもヘンな人が出ると、それッとばかりに警戒する。みんないい人だったのに、みんな警戒しなくてはならない人になってしまう。人間の本質は「善」なのか「悪」なのか、人間自身が判断ができない。永遠の課題なのだろう。

 イスラム諸国には、「客を招かない家には天使も来ない」という格言がある。他人に心を開かずに、他人に心を開けと求めることは、矛盾だと気付かなくてはならない。他人というか、自分と違う人を受け入れなくなっている。「なれなれしい」大人に気をつけようと、子どもたちに教えなくてはならない現実を変えていかないと、他人不信が他人抹殺へとなりかねない。


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