友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

生まれ育った町のこと

2011年10月26日 22時46分18秒 | Weblog

 今朝の朝日新聞に、「童話『目ぐすり』紙芝居に」という記事が載っていた。童話作家の森三郎の生誕百年を記念して、代表作のひとつ「目ぐすり」を紙芝居にして30日の講演会の後で上演するとある。私は知らなかったけれど、森三郎さんは私が生まれ育った町の人で、子どもの頃から童話を書き、21歳から児童雑誌『赤い鳥』の編集に携わり、新見南吉らと共に活躍したとあった。明治44年生まれだから、私の父と同年である。父もなにやら童話を書いていたけれど、そういう人が私の町に居たのだと思うとなぜか誇らしい気持ちになった。新聞記事を読んでいくと、紙芝居を描いたのは、私が中学生の時の美術の先生だった。

 

 そんな時、高校2年の孫娘のために買った、しかしまだ孫娘は1冊も読んでいないけれど、全集『中学生までに読んでおきたい日本文学』の「悪人の物語」に森銑三著の作品が2点載っているのに出会った。偶然にも出身は同じ町で、作者の紹介に「図書館臨時職員、代用教員、雑誌記者などの職を経て、一時期、東京帝国大学史料編纂所に勤めたが、おおむね独学で近世学芸史を研究した。(略)軽妙な文体でつづられた江戸や中国の小話や怪異物語も得意としていた」とあった。私はとっさに今朝の朝日新聞の人だと思ってしまった。しかし、名前が違う。生まれた年を見ると1895年とあり、亡くなったのは1985年とあるから90歳である。長生きなのだと変なところに感心したが、二人の関係は親子なのだろうかと思った。

 

 私の生まれ育った町は小さいながらも城下町だったから、そういう文化人が輩出されたとしても不思議ではない。私が教えてもらった大学の先生はこの城の家老の末裔だったし、私が7歳まで住んでいた家の隣も重臣の子孫だった。近代絵画では有名な河原温氏や同郷ではないが同じ高校の卒業生には、私の中学からの友だちが敬愛する外山滋比古氏などもいる。森氏も同じ高校の卒業生なのかも知れない。今ではすっかりトヨタの城下町の風情しかないけれど、私の小さな時の記憶では城下町の面影が残っている町だった。お城の周りには堀があり、天守閣こそなかったけれど、天守閣のあったところには料亭が建っていた。堀の東側が私たちの小学校だったけれど、きっとこの辺りも城郭のひとつではなかったかと思う。

 

 私の家は材木屋だったが、私が二十歳になる頃に破産してしまっていた。行き場がなくなった私を引き取ってくれたのが私の大学の恩師で、私を離れに住まわせてくれた。先生の子どもたちの勉強を見て、先生の書生として車の運転をしたり家の掃除をしたりして、お小遣いをもらっていた。先生のお父さんは町の首長を務めた人だった。私の祖父が議員をしたこともあってか、「あんたは孫さんか」と親しく声をかけてもらった。先生のカミさんは東北の人だった。確か、仙台の呉服屋さんの娘さんではなかっただろうか。モダンガールだったのか戦後に流行った女性スタイルだったのか、いつもタバコを吸っていた。私を子どものように可愛がってくれたのに、何一つ恩返しも出来ないうちにふたりともあの世へ旅立ってしまった。

 

 私は21歳になる時に、先生の勧めで東京へ出たが、それ以来生まれた町から離れて暮らしている。墓はまだ町にあり、お盆には墓参りをするけれど、生まれた町に残るものはそれしかない。材木屋だったところはもう何もその面影がない。わずかに父や兄そして私が通った高校の正門だけが当時を思い出すことの出来る。母校から同窓会への寄付のお願いが来ていたけれど、その封筒すら見当たらない。思い出は多くあるけれど寄付するほどの良き生徒ではなかった。

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