友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

薔薇と経験

2016年04月18日 17時17分36秒 | Weblog

 バラが咲いた。連休の頃に咲き始めるのに今年はずいぶん早い。昨年の秋、バラの剪定して鉢の土を入れ替える作業をした時、根元に痛みのあった一番古いバラをあまりに構い過ぎた。冬場に新しい芽ができていたが育たない。ひょっとしたらと思いながら観察していると、新しい芽は3つとも枯れてしまった。あの時、何もせずにおいたら、今年はもっと多くの花を咲かせたのに残念だ。「過ぎたるは及ばざるごとし」は、経験から生まれた格言である。

 私は子どもの頃から、「人間とはどういうものか」に興味と関心があった。人は平等である。人の上にも下にも人はいない。平等のはずの社会に貧富がある。身体が不自由であったりする事情があれば、そこに差が生まれる。けれども助け合うことは出来る。「ある者がない者に与えれば」平等になる。それを「愛」とキリストは言った。西洋はキリスト教社会になったが、平等にはならなかった。フランスで革命が起り、「自由・平等・博愛」の社会に向かった。

 近代は民主主義社会と位置付けられた。誰もが投票できる選挙で政治家を選び、社会の仕組みが決められていく。けれども国民の気持ちと実際の政治とは大きな開きがある。これはどこの国でも見られる傾向だ。民主主義は過渡的なものなのだ。まだ、これから人間は「自由・平等・博愛」社会がどういうものか、手探りを続けていくのだろう。

 15日の夜、私が参議院議員の秘書をしていた時の仲間が集まって飲んだ。ひとりは選挙の最初から事務所に入り浸っていて、議員のことが心底好きだった。私も他のひとりも、途中から事務所入りしたので議員とは主従の関係でしかない。選挙は候補者にぞっこん惚れ込んだ者がいなければ回っていかない。けれども政策はファンだけでは立案できない。そんな昔の思い出話になった。

 「国民の多くが戦争はダメだと思っているのに、国会では成立してしまう。選挙になると国民の気持ちとは違う人が当選する。ここが一番の問題だ」。「個人がどこに立っているのか、個人主義に徹することだと思う」。「個々の人間が自分の考えを極めること」。酒が回ってきた。政治も経験の積み重ねである。

コメント
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