友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

女の関心、男の関心

2007年10月24日 22時38分02秒 | Weblog
 中学1年の孫娘は、中間試験の結果をもらってきて、少々ガッカリしている。目標の順位に1つ足りなかったからだ。「1つくらいなら達成したのも同じことだから、約束どおり小田和正のCDを買ってあげるよ」と言うが、「いい。約束どおり出来なかったから、今度の時でいい」と答える。律儀というか、次には実現できる自信があるのか、なかなかなことを言う。中学に入って4回の試験を受け、期末以外は全て同じような順位を得たことが彼女には自信となったのだろう。

 その孫娘が突然、しごくだったか、さするだったか、今思い出せないが、要するに男の自慰を意味する言葉を知っているかと聞いてきた。「え!なに?」と聞き返した時、「男が‥」と言うので、「ああ、自慰のことか」とわかった。最近の彼女は、SだとかMだとか、SEXとか、KISSとか、いうことに関心が高い。「私の周りの子はみんな男がいるのに私にはいない」とぼやくから、「いいじゃないか、ここにいい男がいるんだから」とチャカすと、「別に男なんかどうでもいいんだけださ」とすねる。

 私も中学1年の頃は、性について関心を持っていた。いや、男どもは一様に興味津々だった。エロ本を手に入れてきてはそれを廻して見た。友人の父親にガリ版刷りのエロ本を持っている人がいた。友人らは絵もなければ写真もないただの小説だったので、余り関心がなかったが、その描写はすごかった。大人になって、野坂昭如の『四畳半襖の下張』を読んだ時、それを思い出した。あの頃、女の子はそんなことには全く関心がない素振りをしていたけれど、孫娘を見ていると、女も男も同じなのだと思えるようになった。

 孫娘たちの間ではケイタイ小説と言うものが流行っているそうだ。以前、孫娘と一緒に書店に行った時、そのケイタイ小説というものを教えてもらったが、内容はどれも彼女たちが喜びそうな、KISSやSEXの話ばかりだ。当たり前と言えば当たり前のことである。ケイタイで書いた小説というだけあって、文章が極めて短い。だから、あっという間に読めてしまう。それがいいというので子どもたちに受けているのだ。ちょっと読ませてもらったが、誰でも書けそうな出会いと別れである。

 やはり世の中は、重厚なものを避ける風潮があるようだ。そういえば孫娘もすぐ「めんどくさい」と言う。それでも彼女は小さい時から水泳をしてきたおかげで、「努力しなければ結果は出ない」と知っている。だから彼女は結果を求めて努力をする。今は律儀で正直だ。時々母親に問い詰められると、黙ってしまうがウソはつかない。あの「赤福」の社長のように、「誠に申し訳ありません。認識が間違っていました」などと、何度も何度も平気で繰り返してしまうような人にはならないだろう。

 人は大きくなるにつれて、知識とともにズルさも身につける。生きていくための防衛本能なのかもしれないが、本当に素晴らしいなと思える人は、身につけてしまったズルさを見せることはない気がする。人は真っ正直には生きられないかもしれないが、正直に生きようとすることはできる。孫娘の真っ正直さに比べるとさすがに私は年の功だけのことはある。
コメント
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