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ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」などを務めたライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。

今井町で最も長い歴史を誇る、重要文化財の「今西家住宅」を見学

2011-09-22 | 旅行
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今も昔の面影を色濃く残す奈良・今井町。
ミモロは、トコトコと町の散策を続けます。


江戸初期、東西600m、南北310mの周囲にぐるりと濠を巡らし、その中に、1100軒、約4000数百人の人々が暮らす財力豊かな町でした。その豊かさを物語るように、立派な構えの町家が軒を連ねる町は、今も、人々が暮らす生活の町でもあるのです。

さて、ミモロは、今井町の西門の近くにやってきました。
細い路地を見つけたミモロ。「こういう道って、入りたくなるよねー」と、漆喰で塗られた壁が続く路地を奥へと進みます。この路地は、どうも大きな家の裏のよう。路地を抜けると、表通りには大きな町家の玄関が。

ここは、今井町でも惣年寄筆頭を務めた由緒ある「今西家」。慶安3年(1650)に建てられた町家ですが、その構えは、まるで城郭のような堂々と風格漂う「八つ棟造り」と呼ばれる豪壮な建物。
今井町で最も古い民家で、国の重要文化財です。

「あのー見学したいんですけどー」とミモロは、インターホンを押して、お願いします。
やがて大きな玄関の扉の一角が空き、中へ。いよいよ見学がはじまります。(ミモロは、たまたまラッキーにも当日訪れて見学することができましたが、事前に見学の申し込みをおすすめします)

入れていただいた場所は、この家の玄関部分。玄関といっても、広々した土間が続き、高い天井の空間です。
「わー広い」高い天井を見上げて、思わず声が。

正面には、一段、いいえ3段ほど高くなった場所の奥に座敷が続く不思議な造り。


主人が訪問者を見下ろす「上から目線」の造りで、ほかの町家とは違う雰囲気です。
ミモロが不思議に思っていると、
「今からこの家の解説をしますから、どうぞ、こちらにいらしてください」との声。
広い土間の一角で、解説がはじまりました。さっそくミモロも聞くことに。


いただいた解説書によると・・・・。
今井町の場所は、昔、興福寺の寺領で、戦国大名の一族である今西家のご先祖、川井権兵衛清長が、永禄9年(1566)より、この地に移り住んだことから、今日に通じる今井町の歴史が始まります。
共に町に移り住む郎党と一向宗の門徒が結び、町の周囲に濠を築き、自衛都市として、信長の勢力に対抗する時代を迎えます。その後、信長により武装解除されるものの、自治権を有し、以前より深い絆のあった堺と同様、商業で栄えて行きます。徳川の世になり、高度な自治を展開する今井は、江戸、大坂、京都、奈良と同様に、惣年寄、町年寄を置く町制のもと、発展してゆきます。

この今西家は、元和7年(1621)、時の郡山城主、徳川家康の孫、松平忠明のすすめにより、今井の西に位置することから「今西」の姓を名乗ることになったそう。

江戸時代、大きな戦いはないものの、盗賊などから豊かな財力を誇る町の安全を守るため、今西家は、司法権、行政権を委ねられ、奉行のような役割を担っていたそう。

この家の高い位置の座敷と土間の関係は、時代劇によく登場するお白洲のような罪人を裁く場でもあったのです。


「フーム、そう言われてみると、この家の造りがよくわかるー。主人が威厳が保つように、座る位置が高いんだね」とミモロも納得の様子。

土間の片隅には、罪人を入れる部屋もあり、かつては牢屋も敷地内にあったそう。

家の中を覗くと、6間続きの座敷が奥へと広がっています。
仏間には、りっぱな仏壇がチラリ。

「あ、お庭も広そう・・・」ミモロは、トコトコと土間を過ぎて、お庭へ。


「ホントに大きなお家だねー」。ミモロは、庭に置かれた石に座って、しばしお庭を眺めます。

ミモロ、そこから先には、行ってはダメよ。「わかってるもーん。これ止め石でしょ」
う、ミモロ知ってたのね。「もちろん!」

「今西家」の解説をしてくださったのは、この家の奥様の今西優美さん。

「今井町を多くの方に、知っていただきたいもの。今後、町の歴史的な建造物を舞台に、いろいろな文化的なイベントができたらと思っています。ぜひ、一度、今井町にいらしてくださいね」とのメッセージも。

大阪や京都、奈良の旅に出かけたら、ちょっと足を伸ばしてみては、いかがでしょうか。

*「今西家住宅」奈良県橿原市今井町3-9-25  電話0744-25-3388 見学の場合は、事前に連絡をしてください。見学は有料。






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歴史的な町家が並ぶ今井町。幕末期の建物「高木家住宅」へ

2011-09-20 | 旅行
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奈良の今井町は、歴史的な町家が軒を連ねる趣ある町。
町の周囲には、濠がめぐらされ、城塞都市として独特の造りをしています。

町の中を網の目のように広がる道は、敵の襲来に備え、見通しがきかいように一度屈折しています。


ミモロは、今井町の地図を眺めて、まずは、大きなエノキからほど近い「高木家住宅」を見学することに。


ここは、19世紀初頭、酒造業などを営んでいたところ。現在、重要文化財の指定を受けています。

「あのーお邪魔しますー」
ミモロは、玄関で声を掛け、中を見学させていただくことに。

「高木家」は、二階建て、1階、2階とも2列6室型の部屋構造。襖を開け放つと広い1つの部屋として使えます。

「広いお座敷だねー。昔は、ここで結婚式など冠婚葬祭の集まりをしたんだって」

りっぱな床の間が、昔の繁栄の面影を留めます。

使い込まれた階段箪笥、

かまどや井戸など、当時の生活を物語るものが、静かに時の流れのなかに。


古い面影は、ほかにもいろいろ。
「これ、何が書いてあるのかな?」


「すごい、鉄砲もある・・」
自衛のための鉄砲でしょうか。商家ながら、自分の暮らしを自ら守ろうとする人々の姿勢が伺えます。

建物の一角には、この家で使われた生活用具などが、陳列され、それらを次々に見て行くミモロです。
「誰が、遊んだのかな?」
小さな貝合わせは、細かな絵が描かれた品。当時の商人の豊かな暮らしが伺えます。


「高木家住宅」は、今井町の中では、比較的新しい時代のもの(でも、幕末ですが・・・)。
今井町には、400年、300年、200年前の建造物を見ることができます。

今井町では、多くの歴史的な町家は、有料で見学でき、
その家に住む人が、建物の解説をしてくださいます。
ただし、あくまでも個人宅のため、居住者の都合で見学できないことも。



町には、9軒の重要文化財の建物があるけど、全部1日で見るのは、ちょっと大変かも・・・・

さぁ、ミモロ、他のお家も見学しましょ。
「ハーイ、待って、今、行くから・・・・」
お座敷の奥にいたミモロは、慌てて玄関に急ぎます。
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ミモロの日帰り旅。江戸時代の歴史的町並みが続く、奈良 今井町へ

2011-09-19 | 旅行
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JR奈良駅から和歌山行きの「まほろば線」で、今井町へ出かけたミモロ。

「まほろば線」は、2両編成の小さな電車で、ドアが全部開く駅と一部しか開かない駅があるローカル電車。でも、中には、素敵な絵で飾られた車両がある電車も。(全部の車両に絵があるわけではありません)


畝傍駅で下車し、トコトコ歩いて、赤い蘇武橋を目指します。そこは今井町の入口。大きなエノキが目印に。


「どこから回ろうかな?」地図を眺め、見学ルートの研究をするミモロです。


今井町は、戦国時代の天文年間(1532~1555)に、一向宗本願寺の僧、今井兵部卿豊寿が、寺内町を作ったことから始まります。周囲には、濠をめぐらし、寺を中心とした城塞都市の形を整え、織田信長に抵抗したのです。その後、明智光秀を通じ信長に降服。大坂や堺などとも交流する商業都市へと変わります。江戸時代には、南大和最大の在郷町となり、その繁栄を誇ったそう。

称念寺を中心に、江戸時代初期は、東西600m、南北310mの町の周囲をぐるりと濠が囲み、戸数1100軒、人口は、4000人を越す規模に。道は、敵の侵入を妨害するよう屈折し、わざと見通しの悪いつくりに。江戸時代は、裕福な商人たちの財産を守る役目を果たします。


現在も人々が暮らす、約600戸(重要文化財9件を含む)の古き町家が軒を連ね、当時の面影を今に伝えています。<観光協会の資料より>



「昔に戻ったみたい・・」歴史的な町並みを眺め、不思議な感覚に陥っているミモロです。

ミモロが、今井町を訪れたのは、ある金曜日の昼過ぎ。
「あれ、通りに誰もいない・・・。みんなどこにいるんだろ?」


ちょっと心配になるミモロです。

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京都の旅の楽しみ方。すぐ近くに感じる清少納言の「枕草子」の情景。

2011-09-07 | 旅行
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京都に暮らして、素敵だなぁと思うのは、この場所が古典文学の舞台であることを実感するとき。

たとえば、清少納言の「枕草子」の一節は、散歩をすると、思わず浮かんできます。



『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく 山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる・・』

春に限らず、雨が降った次の朝は、東山に沿うように低く雲が浮かんでいます。

「この景色を清少納言も見たのかな?」

東京育ちのミモロには、京都に来るまで目にしたことがない景色です。
「町の中に暮らしているのに、すぐ近くで、こんな景色が見られるなんて、京都って素敵だね」



ミモロは、朝のお散歩のとき、疎水にかかる橋の上から、東山を眺めるのが大好き。
朝にしか見られない景色です。

京都に来たら、歴史的建造物や寺社仏閣の見学、美術館の鑑賞、お買い物、季節の料理と共に、楽しんでほしいのが、自然のうつろい。
四季のうつろいだけでなく、時間のうつろいがとても心に響きます。


市街地からも、周囲の山が見える京都。時と共に、山の色や趣も変化してゆきます。
ぜひ、ときどき見上げてください。


『夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ。蛍の多く飛びちがいたる、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし…』


「この夏、蛍見たね。白川に夜、飛んでたよー。かすかな光が幻想的だったぁー」
そうね、ミモロもこの夏、初めて蛍を見ました。それも家のすぐ近く・・・。
「家のそばで蛍が飛ぶなんて、田舎以外ではないことだよねー」といたく感激していました。


『秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり…』


「これも見たことあるね。夕日は西山に沈んだけど、その時、山が大きく、すぐそばに感じられるよね。カラスもよく飛んでるよね」。

『・・・日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言うべきにあらず…』

「あ、これも・・・最近、虫の声が夜、よく聞こえるよね。清少納言が聞いた虫と一緒かなぁ?鈴虫?もう秋が近いってことだね。平安時代の人たちが見た情景を今も、見て、同じように感じることができるって、スゴイ!」
ミモロは、『枕草子』の書き出し部分を読みながら、自分の体験とひとつひとつ照らし合わせてゆきます。

『冬はつとめて。雪の降りたるは言うべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも・・・』

ミモロは、冬の部分を読みながら「わー。京都の冬って寒そうだねぇー。どうしようー」
まだ、京都の冬を体験していないミモロは、残暑の中にいながら、震え始めました。

突然、タンスに行って、なにかゴソゴソ探しているよう。


なにしてるの?

「冬に備えて、セーターのチェックしてたの・・・。だって寒そうなんだもの・・・」

本当に気が早いミモロです。まだ先よ。
でも本当に寒いんだって、京都の冬は・・・。
「ゾー、ブルッ」ミモロは、また震えました。

*京都の旅の楽しみ方:古典文学や京都を舞台にした小説やエッセイなどを読むと、いっそう興味深いものに。川端康成の「古都」、梶井基次郎の「檸檬」なども、もう一度読み返して、北山や寺町を歩くと、面白いと思います。大人の京都旅は、なにかテーマがあるといっそう楽しめますよ。
コメント (3)
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淀君の息子、秀頼が寄進した相国寺法堂。何度も焼失しても再建されるパワーを感じて

2011-09-01 | 旅行
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ハンブルク浮世絵コレクション展を開催する承天閣美術館がある相国寺は、京都御苑の北側に位置する寺院。金閣寺、銀閣寺をはじめ全国に100を越える数の寺の臨済宗相国寺派の本山です。

開基は、室町三代将軍・足利義満。1382年に幕府を置く「花の御所」のそばに、大伽藍を建立することを発願し、竣工はその10年後。初代住職は、夢窓疎石となっています。でも、夢窓疎石は、1351年に亡くなっています。不思議?その訳は、義満が禅の師である春屋妙葩に初代住職を依頼したのですが、彼は、師である夢窓疎石を初代住職にするなら、2代目になるという条件で引き受けたそう。それで、夢窓疎石が開山に。

「いろいろ複雑だねぇー。でも師をすごく尊敬していたんだね、きっと・・・」とミモロ。

松の木が茂る境内を、トコトコと巡ります。広い境内は、お散歩にぴったり。


現在、境内の中心に位置するのは、堂々と聳える法堂です。天井には、狩野永徳の長男、狩野光信が描いた「鳴き龍」があります。

現存する建物は、慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進によるもの。

「秀吉と淀君の息子でしょ。ずいぶん若いときに寄進したんだね・・・」
確かに、秀頼は、享年23歳ですからね。

実は、彼は、とても教養も高く、書も見事。人望もカリスマ性もあったとか。
体格も堂々として、長身だったという話も。(だから小柄な秀吉の子ではないのでは?との疑惑も)

「えー。ママである淀君のイメージが強いから、マザコンのひ弱なお坊ちゃまかと思ってた・・意外・・・」

私たちが抱く歴史的人物のイメージは、テレビドラマや映画の俳優のイメージが強いようです。秀頼役の俳優さんは、たいてい、繊細でひ弱なイメージの人が多ですよね。
秀頼がたくましい大男だったら、関ケ原の戦いや大坂夏の陣などのイメージもずいぶん変わってしまうような気がします。

まぁ秀頼の話は、いずれまた・・・ということで。

この法堂(はっとう)は、何度も火災で焼失し、秀頼が寄進したのは、なんと5回目の再建。
日本最古の法堂建築です。

相国寺は、なんども火災に見舞われ、その都度、時代の有力者が再建を繰り返します。それだけ重要な寺院だということです。


「昔、ここには、七重塔があったんだって、どこかに書いてあったよ」とミモロ。

そう、日本様式の仏塔として史上最も高い100m以上のものだったそう。でもその塔も数年で焼失。

「みんなの力で作ったのに、すぐ火事で焼けちゃうなんて、悲しいね・・・。でもくじけないのは、すごい!」と感心するミモロです。

「あ、こんなところに小さな神社がある・・・・」ミモロが見つけた神社とは?
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