波乱万丈 乳がん転移ライフ!

39歳で乳がん ステージⅢ告知。術後1年経たずに肝臓、骨に転移。そこから始まる長い転移ライフ!

8年前乳がん発覚時のこと【7】・・・退院後の孤独

2012-01-31 16:13:53 | 8年前乳がん発覚時のこと
 
2004年1月下旬に退院。
自宅へと帰るタクシーの中で、「あー、生きて帰れたんだ。」と(大げさではなくて)実感。
窓から見える表参道の景色が眩しい。またここに元気に遊びに来るような日が訪れるのだろうか。

自宅に着き、ドア開けると、義母が息子を抱っこして迎えてくれた。
息子(生後8ヶ月)は嬉しそうにというか半分不思議そうに私に抱っこされる。
あああー、暖かくて柔らかい。ふ~、やっと家だ。またいっしょに生活しようね。
おっぱいないし、髪の毛も無くなるけど、びっくりしないでね。
義母は大阪に帰らず、しばらく私のサポートのためにいてくれる。

(当時の手帳をめくり、思い出しながら書いています。)

なるべく日常を早く取り戻そうと、子供の予防接種や子育て教室やらに通った。
ベビーカーで散歩にも出かけた。駅周辺にはベビーカーを押しているお母さんがたくさんいる。

どのお母さんも健康で元気そう。“がん”なんて無縁に違いない。それに比べて私は
助からないがんになってしまい、その上おっぱいもない。元気そうなお母さんたちは、
子供の将来の事考えたり、成長を楽しみにしているんだろうな、成長を見届けるなんて
母親として当然だし。でもその当然のことが、私には多分叶わないんだ。子供の成人式
どころか、小学生いや幼稚園に通う姿さえ見られるかどうかわからない。まだ赤ちゃんなのに、
いつ別れが来るかわからない。そんな思いを抱えたまま子育てしないといけないんだ。
そんなの辛すぎる。そんなのきっと私だけだ。

他のお母さんを見るたび、必ず条件反射的にそんなことを思ってしまう。そしてその度に
悲しくて情けなくなる。私は、私だけはこっち側の世界に入ってしまったのだ。数年以内に
死ぬかもしれない世界。私だけ・・・世界が違う、景色が違う。すごい孤独感。

若いお母さんだけではなく、私よりうんと年上のおばさんやおばあさんを見ても落ち込む。
あー、こんなに長生きできていいなあ、孫もいるんだろうな、私は恐らくそんなに歳をとる
ことができない。コワイよ、コワイよ、私は、私だけこれからどうなるんだろう。
今ベビーカーで子供連れて散歩しているけど、1ヶ月後は、半年後は、来年はどうなっているんだろう。
考えてもキリがない、意味がないことを、ぐるぐる考えては落ち込む。自分ではどうすることもできない。

こんな精神状態だから、家でダンナにあたることも多い。
「あなたはがんじゃなくていいよね。私はあと数年しか生きられないんだから、何をしても
意味ないし。」
「キミには○○(子供の名前)がいるだろう、まずそのことを考えなよ。」
「そんなこと言ったって、もちろん子供のことは第一だけど、それとこれは違う。
 不治の病は不治の病なの!もうダメなの!」

もう、こうなるとだだっこ状態だ。自分でもどう気持ちを整理していいかわからないのだ。

義母は「○○(子供の名前)もおるんやし、絶対治るて。治ってくれな困るで。
    明るうしてれば病気かて逃げるよって。」

力なく苦笑するしかない私。

(今考えても、ひどい精神状態だったと思います。)

退院後、通院は週1~2回。抗がん剤や傷の処置の他、精神科にも通っていた。
精神科ではカウセンリングのみで、薬の処方は確か無かった。薬をもらっていてもよかったかも、
と今は思う。

抗がん剤CEFの副作用は、投与当日の夜が数時間気持ち悪くて動けないことと、その後数日間
軽い気持ち悪さが続くこと。だるさもあったと思うが、当時は副作用かどうかよくわからなかった。
髪の毛も抜けてきた。洗髪後にごそっと。初めて見るそれは、恐ろしい光景だった。義母も泣いた。
(3回目ともなると、バリカンでさっさと刈って息子に触らせて遊んでいるんだけどね。)

そして、さらに落ち込みのピークがあった。退院後2ヶ月ぐらいのころ。
そう、民間療法のクリニックに行くために用意してもらった、診療情報提供書。
気になって封を開けると、そこに病理診断書があった。数字とアルファベットの羅列で
難しそうだけど、いちばん気になっていた、リンパ節転移数・・・・27個!驚愕の数字が
飛び込んできた。一気に落ちた。少しは前向きになろうと努力していたが、この数字を見ては
もう無理。絶対再発する、いやもうどこかに転移しているかもしれない。
治ると信じてがんばろうよ、なんて周りは言うが、それって無・駄・だ・よ!
ダイニングの机に突っ伏して泣く日もあった。

ネガティブ連鎖から抜け出せない、8年間の闘病生活の中で、いちばん辛くキツイ日々でした。
そうは言っても、毎日、育児、家事、通院などで、一日はアッという間に過ぎて行く。

そして、じたばたの中で統合医療に目覚める、つまりは民間療法にハマってしまったのだ。

つづく・・・。



*** 重苦しい記事になってしまいましたが、今の私は元気でーす。だから気軽にコメントいただければ
   嬉しいです。大阪的突っ込みも大歓迎ですう~。 ***




1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
コメント (31)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TDM-1情報と、抗がん剤の「人道的使用」

2012-01-27 11:02:20 | 診察
昨日は3週間ぶりの通院日。

本日のプチお楽しみは、外来化学療法室が新病棟にリニューアルオープンしてから初めて行くこと。
で、行ってみた。ひ、広い。リクライニングチェアも2倍以上の数。カーテンもピンクの新しい物になり
気持ちいい。でもTVとか新設備はなかったので少し残念。
あ、コート掛けるハンガーかけがついたのはマルです。
でもこれだけだけの数があれば“今日は混んでいるので・・”と待たされることもなくなるね。
ただ、外来センターの時のように、リラックスする音楽や絵とか花など何か飾り気が欲しいなー。

ハーセプチンの点滴が終わり、診察室へ。
私からは、指の爪の生え際が膿んで痛いことを話す。
その他、エアロビやストレッチをはじめたが、どこまでやっていいかなどを聞く。
もちろん主治医の答えは「自分ができそう、と思うところまでやっていいんじゃないんですかね。」

私から、今のタイケルブが効かなくなった時の抗がん剤の話をする。
主治医からは、ハラベンやアバスチンの名前が出る。ハーセプチンと併用できるかが微妙。
もうひとつ私から、今一番気になる分子標的薬T-DM1の話題を出す。

私「興味あるんですよ。いずれの時は是非使いたいです。臨床試験もあちこちでやっていますよね。」

主治医、臨床試験のことを少し説明
 「・・・・たぶん、アッピアさんが使う頃には、承認されているんじゃないですかね。」とのこと。

T-DM1:なじみのない名前、と思われる方が多いと思います。
    少し説明:ハーセプチンが抗がん剤DM1をがん細胞まで送達し、DM1が悪性腫瘍のみを
    選択的に攻撃する作用がある。分子標的薬と抗がん剤が効率的に作用するため、
     副作用は少ないのが特徴と言われている。

良いとこ取りの、なんとありがたい薬。しかも今まで長くハーセプチンを使い耐性ができているかもしれない
患者にも有効とのこと。これは使うしかない。使わずして死ねない!

本当にHer2陽性ばかり次々新薬が出てきて、申し訳ないぐらいです、でも有難いです。

それと、最近厚労省も、抗がん剤をはじめとする新薬のドラッグ・ラグ問題を重視してきているのか、
主治医が責任下で使うならば、未承認薬でも使用していい、という気運がでてきているようです。
主治医からそんな話が出て、私もびっくりしました。

それは、欧米では導入されている「人道的使用」に近い考えでしょうか。それならとても嬉しい動きです。
大賛成!ですよ。責任、リスク、何でもとっちゃうから、いろいろ使わせて~~~、というのが、
再発治療で抗がん剤模索している私の切なる願いです。

私のがん友(トリプルネガティブ)が、進行した肺転移で、カルボプラチンを使い始めることができたのも
そうした動きからかしら。そして彼女は効き始めている!
よーし、よーし、いいぞ!希望の光がまた少し大きくなった!




1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ


コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8年前乳がん発覚時のこと【6】・・・衝撃の術後病理結果

2012-01-25 11:45:32 | 8年前乳がん発覚時のこと
手術が終わり麻酔から起こされた後、痛みは感じなかった、というか術側の左胸は感覚もない。

しばらくして病室に運ばれる。家族が迎えてくれるが、私はまだ寝る。誰とも話したくない。
ダンナがそばにいることはわかっているが、ひたすら目をつぶってそのうちにまた寝る、の繰り返し。
そう、ふて寝していたのだ、というか怖かった。リンパ節転移がレベル2まで広がっていたのでは、という恐怖。
だから何も聞きたくなかった。寝ているふりをして話しかけられないようにしていたのだ。
「もうお話になれますよ。」とダンナは看護師に言われたが、私が起きようとしないので、
その日はろくに話もせず家に帰っていった。罰当たりな私。

手術翌日の朝、起きあがり、管をはずしてもらったりいろいろ処置してもらい身軽になると、
朝食も普通食が出てきて、同室の胃全摘の人は「へぇーーー。」と驚いていた。
左腕は、脇からドレーンも出ていたし腕も上がらないが、胸は痛くない、やはり感覚もない。

午後になり母が来てくれて、洗濯物やらいろいろ世話を焼いてくれる。
その日には、執刀したベテラン女医やチームのドクターや看護師が入れ替わり立ち替わり様子を見に来てくれる。
「手術お疲れ様でしたね。きれいに取れましたからね。」と口々に言ってくれるが、リンパ節のことは
だれも触れない。そんなこんなで不安を残しながら2日間が過ぎ、土曜日になり、ダンナが見舞いに来てくれた。
私、怖々「結局リンパ節はどこまで取ったの?」
ダンナ 「え?まだ聞いてないの?」
私   「だって誰も言わないから、聞くのも怖くて。」
ダンナ 「レベル2にも転移があったから、レベル3も取ったよ。」
・・・・やっぱりか!ダメだったか。最悪のがんなんだ・・・。

同時期に入院し私の2日後に全摘手術をしたKさんも、管がはずれて元気になってきた。
またデイルーム(兼食堂)に行くようになって、がんベテランのおじさんおばさんやおばあさんからも、
さんざんいじられる。39歳でがんなんて超若手(消化器がんの世界ではね)。

リンパ転移の心配はなさそうなKさん、いったい何個転移しているか想像すらつかない私。
自ずと表情に明暗が出てしまうのだ。

「そんな暗い顔していると治るものも治らないよ。」
「Kさんは目に力があるけど、アッピアさんはそんなんじゃダメだなあ。」
「私なんて10年前に胃全摘で、リンパにもたくさん転移していたのに、今こんなに元気よ。
 抗がん剤の吐き気なんて気持ちの問題なんだから、絶対負けない、という気持ちを強く
 持ちなさいよ!」

言いたい放題である。なんでそんなにデリカシーないの?
私も「そうですよね。子供のためにも頑張るしかないですよね。」とか合わせるしかなかった。
心では泣いていた。それならデイルームに行かなければいいのだが、何か変なコミュニティが
出来上がっていて、そうもいかない雰囲気だったのだ。今思えばバカらしいが。

朝と夕方、乳腺チームの回診がある。ドクターたちがKさんのところに来ると、明るい話し声や
笑い声が聞こえてくる。Kさんが終わって、ドクターたちが私のところに来ると、優しい態度では
あるがどこかよそよそしい、と感じた。
「リハビリは順調ですか?傷の方もキレイですよ。」
でもリンパ転移や予後のことは聞いてくれるな、オーラ満載?
なんかこちらもいたたまれなくなり、悲しくなる。ますます暗くなる私の表情。

(また思い出して辛くなってきた。エアロビ行ってこようかな。)

なぜかこの病院は、術後に骨シンチをやる。
この時間のかかる検査はかなり恐怖だった。緊張しっ放しで終わったらぐったりだった。
(今では寝てしまうのにね。)
結果は問題なしで、心底ホッとした。

それでも辛い気持ちを抱えていることが多く、精神科受診を申し出てみた。
精神科はあいにく若手の医師で、どうも合わなかった。私が今の不安を吐き出したのだが、
「そうですよね、子供の成長が見られないかもしれないと思うと辛いですよね。」
と言い放ったのに私がキレて、『それじゃあ私は助からない、て言いたいのね。』と心の中で
叫んだ。今なら普通に受け止められる言葉でも、当時いかに気持ちがささくれだっていたか。

術後の病理検査の結果が出たので、ベテラン女医先生と面談。母親とダンナが同席。
いよいよ、私の最悪のがんの詳細が告げられるのだ。
女医先生のオペが終わるのを夜まで待つ。外科医の仕事は本当に過酷だ。
呼ばれて3人で部屋に入る。
「あ、どうもこんばんは。」とにこやかに対応してくれる。
そしていよいよ本題。

「・・・しこりの組織の結果ですけど、やはりリンパ節は鎖骨下のレベル3にもしこりの影響
 がありました。(“転移”という言葉は使わないでくれる。)
 ホルモンは、少しですが陽性が出ています。それからHer-2が陽性なので、再発した場合に
 ハーセプチンが使えます。これは効きます。
 リンパに影響があったということで、これからしっかり予防していきましょうね。
 ○日から抗がん剤をはじめていきますので、その説明をします。・・・・・・・・。
 今のところ術後の経過も順調なので、○日に退院の予定にしましょう。
 退院したら普通の生活して問題ありません。注意することは・・・・・。
 それ以外は、アクティブに、明るく、温泉旅行なんていいかもしれないし、自分の免疫力
 上げて治していきましょう。・・・・・・・。」

病理については、私があまりにも知識ないために、何も質問できなかかった。リンパ節転移の数は、
やはり怖くて聞けなかった。とにかくすごく進行していたことだけはわかった。
ハーセプチンなんて薬よく知らないけど、やたら進行の早いがんなのだろう。
明るく過ごせ、なんて言われたって、多分無理。

・・・詳しい病理結果は、数ヶ月後に民間療法のクリニックに行く際に作ってもらった、
診療情報提供書に、病理診断書の紙が同封してあり、封を破いて見たのが最初である。

 ステージ:3A
 しこりの大きさ 5.8×3.8センチ 
 硬がん、グレード3、
 リンパ節転移 レベル1+2+3 合計 27/38(27個に転移)
 エストロゲン(±)、プロゲステロン(±)、Her2 3+

これを見たとき、27/38の意味がわからず、まさか転移数が27個だんなて考えられなかった。
多くても10個以内だと思っていた。2ケタの人ってほとんど聞かないし。
後で事実を知って衝撃を受けた。もう絶対ダメだと思った。再発しないワケがない、と思った。
ちなみに、Ki-67なるものを当時計っていたら、とんでもない高値だったはずだ。
 
そして、初めての抗がん剤が始まる。CEF4クール → タキソールの予定。
その時は抗がん剤の名前もわからず受けていた。
(今ならハーセプチンも併用して、再発予防に大きな効果が期待できるだろうに)
どうせ副作用でボロボロになるんだ、もうどうにでもなれ。
しかし、受けてみると幸い酷い副作用はなく、きもちわるーい、ぐらいで1回目は済んだ。

そういえば、Kさんの方は、病理の結果も良く、晴々した顔で
部屋から出てきた。もちろん抗がん剤もなし。いいなあ。助かるんだ・・・・。

退院の日が来た。みんないろいろな言葉で励ましてくれる。いっしょに輪になって歌まで歌った。
ありがとう、頑張るからね、みなさんもね!
とは言ったが・・・・はやく家に帰りたい・・・・まだやさぐれているかも・・・・。

母といっしょにタクシーで家に帰った。家では義母が待っていた。
そしてそして、3週間ぶりに会う、生後8か月の息子が迎えてくれる・・・・。

しかし、本当の苦悩は、退院後からはじまった・・・・。

つづく・・・・。




1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8年前乳がん発覚時のこと【5】・・・入院~全摘手術

2012-01-22 23:23:32 | 8年前乳がん発覚時のこと
2004年の、赤ちゃんと初めてのお正月は、乳がんの手術になるかもしれない不安を抱えながら
過ごし、正月明けの1月4日に都内の大学病院に入院した。
看護師が持ってきた紙には、「告知を希望しますか?」「一番不安なことが何ですか?」
などが書かれており、すべてが「がんで手術」が前提になっているように感じた。
私は堪え切れなくなり、「詳しい検査でがんでなければ手術はしないんですよね。」と確認していた。

翌5日にいよいよ生検。ドキドキしながら受けたが、かなり痛かった。こんな検査が続くかと思うと、
初日から負げた。お腹のエコー検査もあった。これも転移が見つかったらどうしよう、とかなり恐怖だった。
その日の夜に組織検査の結果が出て、クラス5を告げられる。乳がん確定。
予定どおり明後日7日に手術。明日6日に執刀医のベテラン女医先生から詳しい説明があるとのこと。
やっぱりダメだったか。最後の望みが断たれた瞬間だった。が、ある程度予測もしていた。

話が前後するが、入院の部屋は7人部屋。外科疾患の部屋で乳がんだけではないので、
肝臓がんや胃がんで全摘の人や腸閉塞の人などいろいろ。乳がん以外は高齢の方が多い。
同じ日に入院した40代の乳がんの人がいて、検査や説明が私とほぼ同時で、何かと話をするようになった。
年齢も近いし(当時私は39)、しこりの大きさも似ている(4~5センチ。2人ともかなり大きい)。
大丈夫だよね、頑張ろうね、とお互い励まし合う。

同じ部屋の人たちや、食堂に集まる人たちとも顔見知りになり、
私はどこのがんだ、ここに転移している、手術はいつだ?などの話題が飛び交っている。
私たち若手女性2人は、がんベテランのおじさまおばさま方の格好のエサになってしまった。
子供は何人でいくつ?だとか、どこに住んでいるか?などは序の口で、
「絶対治ると思わなければいけないよ。」「笑っていれば大丈夫だよ。」
「手術したら一皮むけてキレイになるよ。」
などなど・・・・。私は苦笑するしかなかったが、そんな気分でもなく、とても面倒で辛かった。
そして、もう1人の女性(Kさんとします)とは、これから手術・病理結果と進むにつれて、
ハッキリと明暗が分かれていくのだ・・・。

さて、手術前日のベテラン女医による説明。
組織検査の結果と手術の説明、術後の抗がん剤治療の有無など。
「アッピアさんの場合は、センチネル・・・は適用できません。しこりが大きいので、温存もできません。
すでにリンパ節に転移があるので、レベル1~3まですべて取る可能性もあります。
術中の病理検査の結果によって決めます。・・・・・。」

女医先生の説明はカンペキ。言葉も慎重に選んでいる。「がん」という言葉は使わず「しこり」
で通している。それでも、“かなり進行している”というニュアンスは充分伝わり、
ちょっと絶望的な気分になる。
それにしても気になるのは研修医クン。徹夜続きなのか、横でコックンコックン。
頭揺れ過ぎ。気持ちを紛らわすために研修医クンをチラ見する私。

同席したダンナと両親と、肩を落として病室に戻る。泣いても笑っても手術は明日。
女医先生に全てを任せて頑張るしかない。眠剤をもらい、明日の準備を確認して早めに休む。

翌朝、朝一番の手術に向けて看護師たちも忙しそう。私もまな板の鯉状態で、言われるがままに
指示に従う。早朝からかけつけてくれた家族に見送られて手術室へ。全身麻酔の手術は2度目なので
恐怖感はあまりない。ただがんであることが怖いだけだ。

手術着に着替え、手術台に横になり、たくさん管を付けられ、身動きできない状態になった。
「眠くなるお薬入れていきますからね。」の声がする。
間もなく酸素マスクが口のそばにあてられ、指示どおりに
「イチ、ニ、サン、・・・・あ、なんか気持ちいいナ・・・。」意識喪失。

「アッピアさん、アッピアさん。」
誰かが肩を強くたたいている?せっかく気持ちよく寝たばかりなのに何で起こすの?
「アッピアさん、手術無事終わりましたよ。」
「へ?もう終わったの?」時間の感覚がまるでない。一瞬の感覚。
時計を必死で見ると、午後の3時か4時。結構時間が経っている。
リンパ節切除に時間がかかったのかなあ。たくさん転移していたのかなあ・・・。

つづく・・・。



1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マツゲは濃くなるの?

2012-01-20 17:41:48 | 日記
ここ川崎市でも朝から雪が降り、本当に寒い一日でした。
よく降った割には雪は積もらなかったので、子供たちはつまらない感一杯なのでしょうね。
みなさんも、足元是非気をつけてくださいね。

さて私は、エアロビ行くぐらいだから体調は良いのですが、爪の方が少し厄介な事に。
右手の中指薬指小指の爪の生え際がまた膿み始めていて、痛いです。
新しい爪が下から生えてきているのですが、軽く炎症起こしているのでしょうね。
爪が完全に生え替わるまでにあと何ヶ月かかるのやら。
おまけに親指と人指し指は酷使しているのか、ひび割れが酷く、つまり全部の指が痛い。
もう、お願いだから誰か夕飯作って!

毛の方は本格的に生えてきましたよ。(なんかリアルな表現)
パクリタキセルを止めてから3ヶ月。頭は高校球児か。
身体や顔のうぶ毛も元通りになってきて、こちらはせっかくツルツルで気に入っていたのに。
あと、気のせいか、眉毛とマツゲは濃く太くなったような・・・。
眉毛はアイブロウ使わずに済んでいるし、マツゲは濃いめの毛がビューラーせずにくるんと
上向いている。これは気に入った。

ウィッグ生活は7ヶ月目に入ったけど、それに冬だから汗の不快さは無いのだけれど、
被っている時、うなじとおでこの辺りが痒くなります。ウィッグが人工人毛の混合だからかなあ。
家に帰りつくなり、まず「ふぁーっ」と帽子ごとはぎ取ることが快感なのです。
いろいろ面倒ですが、私はベリーショートは似合いそうもないので、ウッィグ生活はまだまだ続きそう。
さらにうっとうしい夏まで突入か・・・。

今月は通院は2回。副作用はいろいろあれど、骨の痛みに苦しんでいた昨年と違い、
どこも痛くないから(爪は痛い)、
病気の事も少し距離を置けるのがありがたい。





1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ




コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアロビ行ってきた

2012-01-17 17:06:18 | 日記
今年の目標の一つに「身体を動かして体力維持する。」を掲げているので、昨日早速、
スポーツクラブでエアロビやってきました。
息子の通っている、○ントラルフィットネス。今月入会キャンペーン中で、施設使用体験500円
+シューズレンタル300円の計800円。オトクオトク。

参加したプログラムは3つ。

ステップZERO(30分)・・・踏み台昇降ね。
アロマストレッチ(40分)・・・部屋薄暗くしてアロマ焚いてヒーリング音楽の中ストレッチ。
エアロビクス(40分)・・・・・説明不要よね。

どれも初級者レベルのクラス。ここのスポーツクラブは息子の体操・水泳で3年ほど通っているが、
自分が参加したのは初めて。果たして付いて行けるのか、と心配したが、初級者向けなので大丈夫でした。
そして楽しかったよ。身体を動かすって気持ちいい。家でビデオエアロビやっていたので、
動きには慣れていたんだね。

ただ、足の爪を少し気にしていたのと、左腕はちゃんと上がらないし重だるいし、何しろ格好が・・・。
左腕には浮腫み予防のサポーター、それでも左右の腕の太さが一目瞭然で違うし、昔のフィラの
パンツで全然今風でないし、極めつけは頭、ネットウィッグにケア帽子つけている。
そしてその姿を、スタジオ全面の巨大鏡で直視しながらエアロビするのだ。なかなかこたえました。
でもおかげで、自分の動きのクセを知ることができましたよ。もっと上手になろっ!

インストラクターは知っている顔が多い。息子の体操の先生だったり。今度是非、ナチュラルヨガ
のプログラムに参加したいのだけど、インストラクターの先生は・・・私が以前息子の体操のことで
クレームつけたことがあるんだよね。いやあ、困った、ま、いいか。

ということで、疲れもあまり残らず息があがるようなこともなく、すっかり気をよくした私は、
勢いで、ショップに置いてあったナイキのフィットネスパンツを買ってしまった。
今日はネットでシューズを買おうかな、と計画している。オイ、形から入るタイプか。

それにしても感無量。ちょうど1年前、そうこのブログ始める少し前は、肋骨・肩甲骨の痛みで
夜もぐっすり寝られず、横になると痛いので毎日ソファで身体起こして寝ていたっけ。
2月になってついに医療麻薬の痛み止めを使い出した時には、いよいよもうダメか、という心境だったよ。
そばで見ていたダンナも同じこと感じていたって。いよいよかって。
だから1年後の今、元気にエアロビができるなんて、やっぱり感無量、素直にうれしい。

転移して長い治療が続いても、この先悪くなるばかりとは限らない、ということが証明できて、
そこがうれしいのよ。

さ、次は○―イスカウトのイベントでスケートにチャレンジしようかな。調子に乗るなよ。



1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ











コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8年前乳がん発覚時のこと【4】・・・入院直前、赤ちゃんと初めてのお正月

2012-01-13 17:40:58 | 8年前乳がん発覚時のこと
 前回の【3】では、2003年12月19日に大学病院に初受診し、生検と入院予定が決まったところまで。

19日の翌日は土曜日。私の両親もそのまま我が家にお泊まり。朝起きるととても寒いが空は快晴。
気持ちは複雑で揺れ動いているけど、家族がみんな集まっているから何となく安心。
気分転換に、皆でベビーカーをひいて散歩に出かけた。子供はにぎやかな雰囲気でお散歩ができて
ご機嫌な様子。私もお日さまを浴びながら、がんではなくてこんな穏やかな日々が続きますように、
と願わずにいられなかった。

週末が明けて12月22日月曜日は、断乳のため、○ケタニに行った。
いつも施術をしてくれる助産師に事情を詳しく話し、断乳のためのマッサージをしてもらう。
しこりを触りながら助産師曰く「ほら、よく動くしこりだし、まさかこれががんだなんて考えにくいよ。」
私も、そうだよそうだよ、と思いつつ、でも脇のぐりぐりはどう説明するんだ、と思い悩む。

街はクリスマス一色。イブの24日は子供の予防接種に、25日はまた○ケタニへ。
クリスマスなのに、私は必死にパンパンのおっぱいを絞り、頭はがんのことでぐるぐる。
25日は父が来てくれて、私の代わりにクリスマスケーキでささやかなお祝いをしてくれる。
子供はまだ赤ちゃんでクリスマスはわからないだろうけど、子供ができて初めてのクリスマスは、
こうして寂しくならずにすんだ。家族って有難い。

クリスマスが終わり年末モードに突入。乳がん騒動がなければ、30日から大阪に帰省の予定で、
荷造りしていたころだろう、それが同じ荷造りでも入院の準備になってしまった。
お正月は、私の両親のいる横浜で新年のお祝い予定。

大みそかは自宅で静かに迎える。子供を寝かし付けて、ダンナと二人で紅白歌合戦と年越しそば。
この年の大トリは、SMAPの「世界にひとつだけの花」で、白組圧勝。

明けて2004年元旦は我が実家へ。両親にとっては、待ちに待った初孫を迎える初めてのお正月。
加えて、弟夫婦にも子供ができたようで、9月出産予定。もうおめでたいことだらけ。
みんな知っているけれども、間違っても自分の乳がんの話題はできない。少しでも触れたら、
絶対父が泣き出すだろう。私も、子供と初めて過ごす幸せなお正月を味わった。
そう、乳がんの疑い濃厚だなんて何かの間違いだ、と考えないようにして。

夜になりそろそろお開きという頃、おもむろに父から、これからの入院の予定とかどうなってるんだ、
スケジュールを確認しよう、ということで、現実に引き戻された。
父も実は心配で頭から離れてなかったんだろう。
でもこうして楽しくお正月を過ごせてよかった、私のせいで暗い雰囲気にならなくて本当によかった。

あくる日2日は、義母が大阪からやってくる。私の入院は明後日4日からの予定で、
手術になれば3週間ほど入院になるので、その間子供の世話と家事を一手に引き受けてもらうのだ。
実母は、入院中の私の世話を担当。もう、老親総出でアッピア乳がん手術プロジェクトのスタート。
(アレ?ダンナの役割は?一応医師の説明の同席とか、お見舞いとか・・・。でも両母の活躍で
 だいぶ助かったと思う思う。)
ちなみに、義母は10年以上前に乳がん手術をしており、今回の私の手術にすごく胸を痛めている。

かわいい孫の世話ができて有難いと言ってくれているが、0歳児の世話は生半可ではない。
オムツやミルクや昼寝や離乳食のことなどノートに書いて説明した。義母も必死。
私はその間、断乳と入院準備でバタバタ。

そしていよいよ2003年1月4日、入院。翌5日に生検。結果を待って7日に手術予定。
私は、もしかしたらシロかもしれないとまだ希望は持っていたのだが、実はすでに腫瘍マーカーCEA
が高く、病院側はクロという前提で手術に向けて準備していたのだ。

つづく・・・。



1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ





コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今までの抱負・今年の抱負

2012-01-10 18:18:16 | 日記
今日から学校も始まり、私も日常モードに入ってきたので、遅まきながら今年の抱負などを書いてみたいと思います。

実は、今年これをしよう、とか特にないんですよ。月並みですが、普段通りの日常を送れたらそれが一番と、
キレイごと抜きで心からそう思います。心身の状態が良ければ、後は本能の赴くままにやりたいことを
してしまうアッピアですから、特に目標立てなくてもいいかな、と。
いやいやそれでは、やりたいことだけで終わってしまって、やらなければいけないことは
スルーになってしまいますね。例えば大掃除や勉強など。

まずは、ここ数年分の手帳を出して過去の抱負を見てみました。フムフム、2007年の分から記録があるぞ。
ここ5年間は毎年同じような抱負ですね。大そうなものはない、ハードル低め。
だから7割方達成できています。どんな感じかというと・・・。

読書

  100冊以上の目標掲げるもこれは達成したことなく、最高88冊。
  昨年は体調の事もあり30冊いかなかった。もちろん乱読ですよ。

趣味系

 ピアノでこの曲にチャレンジしたいとか。タイルの作品を展示会に出すとか。
 (今は爪トラブルもありお休み中)
 
その時の興味系(マイブーム的な)

 資産運用だったり、アンチエイジングだったり。

育児系
 
 勉強、スポーツ、いろいろな体験、しつけなど、世のお母さん方とだいたい同じ。

友人との付き合い

 旧友、患者仲間、近所のママ友など。

運動系

 ストレッチやエアロビやって体力維持しよう。今年はこれは重点目標です。

病気関係

 治療をがんばって続ける・前向きな気持ちの維持・患者会参加・情報収集・
 情報発信などなど。

いちばんやりたいこと決行・・・旅行!

 今までは家族旅行だったのだけれど、今年からは味をしめた“一人旅”が
 加わることは間違いなし。
 
こうしてみると当たり前なことばかり。

でも昨年最大の成果は、やはりブログを開設したことでしょう。時々闘病体験談など依頼されて
することはあっても、それは“その時”の考え・感じたこと。
“今の” “リアルタイムの”情報発信をしたかったので、そういう意味ではブログははまさに
希望を実現させてくれました。思いがけない出会いや発見もありました。
もちろんこの成果を継続することは今年の大事な目標のひとつ。

今年はこんな「大成果」があるかわかりませんが、とにかくやりたいことは躊躇わずに一歩
踏み出したいと思います。

やりたいことをやるためには、何といっても「病気でも体調が良く、心が健康なこと」が前提条件
なので、この部分は努力したいと思います。

そういうわけで今年の抱負も、いつもとほぼ同じです・・・ではつまらないので、ふたつ追加。

 ・勉強する・・・ーマはまだ決めていないのです。漫然と読書をするだけでなく、
         何か「勉強」したいなあ、と。ダンナも資格試験の勉強中だし、息子は
         「勉強」が仕事でもあるし。勉強仲間に入れてえ~。
         考えているのは「英語」。息子と一緒にリ・スタートしたいな。


 ・ワクワクドキドキする・・・あー、そっちの方面ではなくて(どっちの方面や?)。
               自分が一番好きな事 = ワクワクドキドキできることを
               たくさんする&できるように環境を整える。
               私の場合、やはり「旅行」ですね。「キャンプ」ではなくて。
               他にもワクワクドキドキすることをたくさん見つけたいです。

ちなみに「今年は新たな再発はしない、今の治療をできるだけ長く継続する」とかの目標は立てません。
それは自力だけではできないから。運はある意味天に任せ、自分のできることは努力し、
あとは生活を楽しむ、これに尽きますね。

こんな感じで2012年スタートしてみます。もちろん途中追加修正大いにありでしょうね。


        


1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ





コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通院はじめ

2012-01-07 15:15:11 | 診察
正月明け5日は早速通院の日。久し振りに電車に乗って都心に出かける。
前日までのお正月気分からすっかり現実モードに引き戻されるなあ。
採血も5本採った。結果を待って診察室へ。今日は看護師助さんも顔を出してくれて、新年のご挨拶ができた。
私 「今年もいろいろあると思いますが、よろしくお願いします。また大騒ぎしちゃうかもしれません。」

助さん「どうぞ、どうぞ、いつでもお待ちしていますよ。」

私からは体調の報告。食事後にガスが溜まりやすく頻便であること、足の親指の爪が剥がれる寸前で、
膿んで痛くてびっこをひいていること、数日前に腕に蕁麻疹が出て痒かったこと、など。

主治医曰く、お腹の件は、以前に開腹手術を2回やっているので癒着があるのかもしれない、
痛くなければ大丈夫とのこと。足指の膿は、見せたら、これは痛そうだとのことで、
飲み薬の抗生剤が処方された。蕁麻疹は原因不明。

採血の結果が出ていた。
白血球4500、good。腫瘍マーカーCEA 2.1、very good。
ただし、貧血が出ていたのと、肝機能数値が上限ギリギリの値だったことが気になる。
肝機能値は、3ヶ月ほど前から微増しているが、主治医は気にするほどではない、とのこと。
と言いつつ、しっかり2月の腹部エコーがオーダーされてしまった。

しこりの方はますます小さくなり、皮膚転移も目立たなくなってきた、very good。
ハーセプチンとタイケルブがしっかり効いている。問題はいつまで効いてくれるかだが、
そのことは考えても仕方ないのでやめよう。あまり長くは効かない、と思うぐらいで丁度いいだろう。

和やかな雰囲気で診察室を出た後、助さんと雑談。

助さん「そういえば、この前精神科の○○先生と会う機会があって、アッピアさんの話で盛り上がったよ。
   (盛り上がらんでいいよ)
    『アッピアさんは、最初来た時(精神科初受診の昨年6月)よりだいぶ変わって良くなったよね、
    今は多少の気持ちの揺れはコントロールできているし、充実しているみたいだよ。
    やっぱり、がんの精神ケアはすごく大事だと思う。これからもどんどんがん患者さん回して。』
    と先生も話していたよ。この病院もがん患者の精神ケア専門外来作った方がいいんだよね。・・・・」

そうそう、その通り。がん患者は、つらくて当たり前と我慢していることがとても多いように思う。
がん患者本人だけではなく、周りの人もそう思っているフシが多い。

つらいのは仕方ないから、そっとしておいてあげよう、とか、ワガママは許してあげよう、とか。
それでは患者本人はつらいのが続くだけだ。そっとしておくのではなく、関わって欲しい。
そして本人も、我慢せず気軽に精神ケアを受けた方がいいと思う。驚くほど気持ちがラクになって、
今までのつらさは何だったか、と思うだろう。

私の場合は、抗鬱剤パキシル30mgの服用によって、劇的と言ってよいほど気持ちが落ち着き
不安感が減った。不安感の多い生活は、まさにQOLの低下に直結する。
病気が進行しようと症状が多少出てこようと、QOLを低下させては楽しく生きることはできない。
私が言いたいことは、薬を飲もう、ではなく、早めに専門のケアを受けて、つらいことは解決しよう、
ということである。前向きな気持ちになるのは、その後で充分。

精神ケアの重要性を訴えながら、5日の精神科受診はパスした。時間が遅かったのと、足指が痛かったから。
パキシルも在庫が家にあるので大丈夫。

点滴はゾメタとハーセプチン。その日の針刺しは若い女医。その先生、4回失敗した挙句に、
失敗した針の入ったトレイを不注意で落としてしまった。その瞬間、私の左足甲のあたりがチクッと痛んだので、
針が当たったのではないか?女医先生に訴えても無視されたので、看護師に言ったら、
女医先生、しきりに謝っていた。自分の針だからいいが、もし他人の使った針だったらと思うゾッとする。
ちなみに私は針アレルギーがあり、特定のメーカーの注射器しか使えない。
他の人はみな、針が引っ込むタイプの注射器を使うので、私のような心配はないのだろうが。

それにしても昼間から眠い。行きの電車でも点滴中もウトウト。帰りも乗り過ごす始末。正月休みについて
しまった夜更かし癖を早急に直さねば。

本日の業務終了。
次回26日の通院日には、外来化学療法室が新病棟にリニューアルオープンするので、
ちょっと楽しみ・・・。





1日1回、クリックお願いします。励みになります。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅くなりましたが2012年ごあいさつ。

2012-01-06 17:19:01 | 日記
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

もうお正月気分も抜けてくる頃ですよね、いやすっかり抜けてますか?
ご挨拶遅くなりすいません。

私は、12月30日から1月4日まで、隣の市の実家へ、息子と2人で帰っておりました。
元旦は、ダンナと弟家族が来て、賑やかにいつものようにおせちを囲んで新年をお祝いしました。
なぜか夕方から大人4人が麻雀を始め、子供たちも参戦、教育上良いのか?と思いつつも
楽しいひと時でした。私も最初加わっていたのですが、途中で脱落。
1年に1回のアッピア家麻雀大会なのであります。

その日の夜にダンナと弟家族は帰り、翌日から、父母と私と息子の4人で、
ひたすらのんびり好きな事をして過ごしました。
息子はおばあちゃんの持っているDSでひたすらゲーム、たまに日記や勉強。
私はテレビでバラエティ三昧。あー極楽。こんなにのんびりダラダラなお正月を過ごしたことは・・・
過去に記憶がない。

さすがにこれ以上実家にいると身体がなまり元の生活に戻れそうもないし、
なんせ5日は早速通院なので、4日に戻ってきました。
昨日の病院も行くのが面倒でした。
なんで病院に行かなければいけないんだっけ?私、何の病気だっけ?

病気になってから自分の実家でこんなに長く過ごすのは、初めて。
まず両親に、自分の元気な様子を見せたかったし、孫となるべく長く一緒にいさせてあげたかった。
そして、母(今月で81)は相変わらず元気だが、父(80)が思いのほか元気だったので安心した。
足腰は悪いし歩くのもしんどそうだが、老化による嚥下障害も改善して食事も普通だし、
大好きなお酒も飲んでいるし、何より口は相変わらず達者だった。

父は涙もろく、今回も私の坊主頭を見て泣いていたが、何よりお互い元気であることを確認できて
良かった。孫と別れる帰り際はまた涙し、春休み泊まりに来るからね~、としばしのお別れ。

ところで母の元気の源が少しわかった。昔からSMAPのキムタクは好きだったが、今回は嵐も加わっていた。
当然各メンバーの情報にも詳しいし、さすがジャニーズ好き。まあそれぐらいなら理解できるが、
紅白を一緒に見ていて、EXILEの解説をし始めたのにはびっくり。
ボーカルのアツシが天皇陛下の前で初めてサングラスを取ったとか、
ダンスはアキラのこの足の動きが見もの、とか・・・いろいろ。
はあ・・・、まずは気持ちを若く、好奇心を失わないこと、これ秘訣ね。

親孝行はできたかなあ。でもみんな楽しく過ごせたから、笑いがたくさんあったから、良かった。

今年の抱負は後日に。特に目新しい目標などないのだけれど。

ではでは、今年もつれづれなるアッピアブログにお付き合いくださいませ。




アッピアブログ、今年も付き合ってやるぜ、と思って頂いた方、クリックお願いします。
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする