波乱万丈 乳がん転移ライフ!

39歳で乳がん ステージⅢ告知。術後1年経たずに肝臓、骨に転移。そこから始まる長い転移ライフ!

8年前乳がん発覚時のこと【10最終回】・・・再発転移発覚

2012-02-23 08:33:54 | 8年前乳がん発覚時のこと
2004年10月に入り、涼しくなり、治療のための通院、子供との生活、友人とのランチなど、
バランスの取れた過ごし方が少しはできてきていた。

11月には一通りの検査を受けた。採血、腹部エコー、胸部レントゲン。
まあ、大丈夫でしょう、とあまり緊張せず診察室へ・・入って椅子に座るなり、中堅女医が
パソコンの画面を変えた。なんか嫌な感じ。エコー、レントゲンの結果は問題ないとのこと。
採血の結果は・・・ここでパソコンの画面を先ほどの画面に戻した。やはり。腫瘍マーカー
CEAの数値が赤色になっている。良く見ると、基準値を超えていた。さらによく見ると、ここ
数か月で少しづつ上がっていたではないか。

ついに、ついにこの時が来たのか。そういうことなのか。
私「再発・・・てことですよね。」
中堅女医「うーん、マーカー値だけでは何とも言えないねえ。検査してみないと・・・。」
いつかは来ると思っていたが、今日来るとは想定していなかったので、心の準備が全くできていなかった。
でも大丈夫、こういうことは判っていたから。うんうん、落ち着こう。

だが、パソコン画面の赤い数値を眺めているうちに、なんかクラクラしてきた。
うっ、気持ち悪い、ズルっ、椅子から落ちてしまった。
私「す、すいません、トイレ行きたいです。」
先生、「え、うんち?」 私「いやあ、なんか気持ち悪くて・・・。」
車椅子でトイレへ。うんちではない。とりあえず頭低くしてじーっとしていた。脳貧血かな。
やっぱりショックだったのかな。まだわからないのに。私ってダメだ。
診察室に戻って、少し落ち着いた。必然的に詳しい検査のオーダーが入った。
CT、脳MRI、骨シンチ。年明けにはPET/CTも。

実は細かいところはよく覚えていないのだが、結果は、CTはグレーのようだった。
グレー、って何がどう怪しいのかわからないが、そんなあいまいな結果のまま、お正月を迎えた気がする。
私「検査の結果ははっきりしないのですが、年末は大阪に帰ります。」と義母に伝えたことは覚えている。
かといって憂鬱なお正月を過ごしたというわけでもなく、恐らく検査疲れでもうどうでもよくなっていた
のかもしれない。
何しろ、1年前は、突然の乳がん告知、年明け手術でドタバタだったから、今年こそはゆっくり
帰省して、孫の顔を義両親にも見せたい、と思っていたのだ。
義母は、私の事をとても心配していたが、私はもう転移覚悟で、あまり深く考えていなかった。

そして年が明けて2005年。
骨シンチでひとつクロが出た。
ベテラン女医 「骨のここ、一箇所だけホントに一箇所だけ(胸椎3)黒くなっているのね。
ここを薬で治療して行きましょう。・・・・」
え・・・つまり骨に転移したっていうことよね。そんな明るくさらりと。

脳はシロ、転移なし。

1月下旬のPET/CTでとどめがさされるのか。
・・・手帳を見ると、具合が悪かったのか、結果が心配だったのか、主治医受診日の前に病院に行き、
別の医師を受診している。そこで覚えているのは、しつこくPET/CTの結果を聞いていたことだ。
医師「・・・、主治医の先生から聞いてもらわないと。・・・まだはっきりとはわかりませんが、
   肝臓に集積が見られますね。」

か・ん・ぞ・う・・・。来たか。肝臓。早くも重要臓器。

翌週のベテラン女医受診日に、改めて、肝臓転移を告げられた。ダンナも同席していた。
ここ数カ月の検査検査で、既に再発転移の心づもりはある程度できていたのか、ショックはあまり
なく、「やっぱり」という感想。

治療については、意外な提案があった。
肝臓をさらにMRIで詳しく調べ、可能ならラジオ波で焼くという治療をやってみましょう」
ということだった。
抗がん剤は、ハーセプチンとウィークリータキソール、アレディアに決まった。
最初は入院で行う。

再発転移確定。術後1年。普通に考えれば早いのだろうが、私の場合は想定の範囲内。
当然家族は相当ショックを受けていた。でも両親や義父母は「がんは転移したら治らない」
ということはよくわかっていなかったかもしれない。いやそう考えたくなかったということだろう。

私は・・・。転移かも、と思った時は衝撃が走ったが、検査を繰り返して転移が確定した頃には、
だいぶ落ち着いていて、正直ホッとした部分もあった。
つまり私が恐れていたのは、“いつどういう形で転移するのか”であって、再発転移することは
ほぼわかっていたので、今回ケリがついて、治療方針も告げられて、ある意味気持ちが休まった
のかもしれない。

もう転移してしまったのだから恐れることはない。
「ひょっとしたら治るかもしれない」とかすかな希望を抱く必要もない。
周りから「治ると信じればきっと大丈夫よ。」と気休めにもならないことを言われることもなくなる。
「ほーら、もう転移したのだから、私治らないんだよ。」
と開き直れる。ホントにどういう性格じゃ。

転移して安心する、ってかなり変。だけど、不思議な事に、よーし、抗がん剤ガンガンやって
まだまだ頑張るぜい、というような戦闘モードになっていたのも事実。

恐らく私の場合は、最初の乳がん告知の時に、再発転移も含めてすべての不安・恐怖を
感じてしまったので、再発告知の時は衝撃が少なくて済んだのかもしれない。

まあ、とにかく乳がん生活第2ラウンドが早くもスタートするのだ。

つづく・・・。

今回で、「8年前シリーズ」は終わりです。次回から、「転移後シリーズ」を引き続き書いていきますので、
どうぞお付き合いください。





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8年前乳がん発覚時のこと【9】・・・つかのまの幸せな日常

2012-02-16 14:32:11 | 8年前乳がん発覚時のこと
2004年1月7日、左乳がん全摘後、術後抗がん剤→放射線治療→ホルモン療法と進んだ。
ここで、私の術後治療について少し説明。
退院前の主治医(ベテラン女医)の説明では、術後治療に、
CEF6クール → タキソール4クール → 放射線治療 → ホルモン治療
の予定だったが、CEF6クール終了時点で、なぜかタキソールはやらずに放射線治療になった。4
今の私なら、理由を納得するまで聞くのだが、当時は何もわからないまま、
抗がん剤が少なくなったから楽でいいかな~、ぐらいに考えていた。

ウルトラハイリスクの病理結果の私が、理由もなしに抗がん剤治療が減る要素はないはずなのだ。
しかし、実は未だに術後のタキソールがなくなった理由はわからない。しばらく後に一度ベテラン女医の
子弟の中堅女医に聞いたことがあるが、歯切れが悪くてよくわからなかった。
ただ、タキソールをやろうがやるまいが、再発間違いなしの私にはどうでもいいことだった。
ただし今の標準治療である、術後にハーセプチンなら話は別。これは絶対やった方がいいと思うが、
当時はハーセプチンは再発後にしか使えなかった。
というわけで、今の主治医にも理由は聞いていないままだ。

CEFも終わりに近づいた5月初旬、子供の1歳の誕生日を迎えた。じいちゃんばあちゃんと
弟夫婦も来て、にぎやかに過ごした。治療真っ最中でも、こうした幸せの時間がとてもうれしく、
もちろん来年だって再来年だって、こんな幸せの時間を奪われてたまるか、と思った。
でも、でもダメかもしれない。奪われているかもしれない。楽観と不安が交錯する中、1歳の、
まだ歩き始めたばかりの無邪気な子供を見つめるばかりだった。

術後抗がん剤CEFが終わり、6月下旬から放射線治療が始まった。全摘でも、リンパ節転移多の
人は、胸壁や鎖骨周りに再発予防として放射線をやることが当時は一般的らしい。(今はよくわかりませせん。)
このころ猛暑で、通院から帰ってきてバテバテだった。ついでに巨人軍の長嶋さん(ミスターの方ね)
が脳梗塞で倒れて私の通う病院に運ばれたとのことで、テレビカメラの人達が来ていた。
ちなみに、病棟には政治家部屋というのもあるらしくて、一度覗いてみたい!

ところで、術後一旦大阪に帰った義母だったが、6月にまた私のサポートのために来てもらった
頻繁な通院と1歳児の育児はやはり私にとっても相当な負担で、実母も私のサポートに疲れ気味
だったので、応援してもらうことにしたのだ。今でも元気な義母(71、乳がん経験あり)と
実母(81、病気知らず)だが、物理的なサポートは、今でも本当に有難い有難い有難い!
何度でも言ってしまう。

退院後の不安感や落ち着かない感も、各種治療と子供の世話でそれなりに忙しく、週1~2回も
応援に来てくれる母のおかげで、少しずつ落ち着いてきた。

当時の手帳を見と、胃の調子が悪かったのか、近所の内科に行ってドグマチールという胃腸薬を
もらっている。この薬は面白い薬で、胃腸薬として飲んだ患者が、気分も良くなり元気になる
ということが判ってから、抗精神薬としても使われている。副作用はもっと面白くて、
おっぱいからお乳が出てきてしまうこと。プロラクチンというホルモンのせいだが、男の人もなるのか?

で、この薬を飲み始めてしばらくたったころ、乳首をギューッとすると、黄味がかった白い液体が
出てきて息子が面白がった。
なぜこの薬の話題をしたかというと、飲み始めてからすぐに身体のだるさが減り、なんとなく
元気になってきたのだ。8月に入り、折しも世の中は夏休みモード突入。私も、身体が軽くなってきた
ことでフットワークも良くなり、子供を連れて乳幼児が集まる遊び場サロンに行ったり、
スーパーに併設している小さな遊戯施設(アンパンマンの乗り物の類)で遊んだりして、
当たり前の子供との生活を楽しみ始めた。

8月中旬からは、アテネオリンピックも始まって、なんかウキウキ気分。夜中の女子マラソンを
ダンナと義母と私3人で見ているときに、うるさくて目が覚めたのか子供がフラフラ起きてきて
リビングに顔を出し、結局みんなで野口みずきの金メダル獲得を応援したっけ。

私はまた、次のオリンピックは見られるのかなあ、中国の開会式ってどんなんだろう、なんて当時思った。
しかし北京オリンピックが過ぎ、ロンドンオリンピックも楽勝で見られそうである。

義母がひとつプレゼントをしてくれた。子供を家で見ているから、ダンナと私2人で旅行でも行って
くれば、とのこと。旅行好きの気持ちがムクムク起き出し、私は場所や宿探しに精を出す。
夏なので長野の高原あたりがいい、と思い、安曇野の創作料理が美味しい宿に決定。
1泊2日の旅をゆっくり楽しんだ。その時の食事のおいしさは今も忘れられない。

こうして、倦怠感が抜け体調が良くなってきたのをきっかけにして、あちこち外へ遊びに行く
ようになると、素直に“遊ぶのって楽しい”と思えるようになった。楽しいことを積み重ねると
ますます楽しいことがしたくなり、気がついたら術後のみじめな不安はかなり和らいでいた。

9月に入ると、子供とリトミックの体験教室に行ったり、子供向けのコンサートに行ってみたり、
普通のおかあさんをしていた。たまには学生時代の友人とランチもした。旧友にはほとんど、
病気の事は打ち明けた。
この頃には通院は月1回、リュープリンの注射のみ。病気の事を忘れることはもちろんないが、
ことさらに考え込んだりこだわったりはしなくなった。

術後半年間の辛い時期を何とか乗り越え、ようやく日常生活、子供との楽しい穏やかな生活を
取り戻した感じがあった。こんな生活が長く続いて欲しい。いや、きっとあっという間に数年経って
子供もすぐ大きくなり、病気も過去のものになるのではないかな。そんな甘い願望が芽生えた。
しかしそれは甘いというものだ。リンパ節24個転移の元気ながんは、そんなに大人しくしてくれる
はずはなかった。
つまり、もう再発の足音は静かに忍び寄っていたのだ・・・。

つづく・・・。





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8年前乳がん発覚時のこと【8】・・・試行錯誤の民間療法

2012-02-05 18:01:05 | 8年前乳がん発覚時のこと
前回、たくさんの温かいコメントありがとうございました。私と同じように、授乳中や妊娠中
に乳がんが発覚した方が多く、やはり早期発見ができなくて・・・というパターン。
こういう人をひとりでも減らしていくにはどうしたらよいのでしょう、と考えてしまいました。
看護師や助産師の方も認識が不足しているのかしら?

それでは、シリーズ続けます。

2004年1月に全摘手術後、がんである孤独感に悶々としていたが、現実の日常は1歳にもならない子供の
子育てに忙しかった。でも、やはり何かしないと落ち着かない。再発しないための何か、自分でできる何か。
本屋やネットで探したり、同じ病室だった人が試していたものを取り寄せたり。
病院の治療ではない、自分でできる療法、いわゆる代替療法(民間療法ともいう)をたくさんやれば、
どれか効くのではないか、再発の予防につながるのではないか、そのためには、情報を集めて、
片っ端から試してみるしかない。そう考えてしまった、相変わらず極端な発想しかできないアッピアである。

この時ほぼ同時進行ではじめた民間療法を書き出してみる。そして続いたかどうか、その後の顛末も。

■食事療法:新品のジューサーとミキサーを買い、無農薬ニンジンを入手するため野菜の宅配
      サービスも始めた。肉・魚はなるべく控え、調味料も自然のものをとこだわり、
      もちろん玄米も食べ始めた。
      最初は、ジュースも物珍しく、フルーツを入れるとそれなりに美味しかったので
      続けていたが、しだいに毎日は面倒になっていく。
      食事も、授乳がなくなり好きなものが食べられると思った矢先に、がんの食事療法
      だなんて、無理があった。元々肉好きなので、それもキツかった。
      おまけにそのころ子供の離乳食作りもあり、自分の食事療法も負担感でストレスになり、
      案の定半年も続かなかった。ただ、新鮮な野菜は美味しかったので、無農薬野菜の宅配は    
      2年以上続けた。

■サプリメント:自然療法のクリニックに通い、そこの医師に相談して、フコイダンを購入。
        ひと月分約36000円かかった。毎月購入しているので、少し安くならないか
        薬剤師に交渉したが、冷たく「がんの方はみなさん○○円ぐらいは購入されています。」
        と言われ、すごく腹が立った記憶がある。
        フコイダンの錠剤を言われた通りの量を飲むと、途端に胃がもたれ気持ち悪くなり、
        これも次第に飲めなくなった。
        その他にも、ホメオクトパシー?(ホメオパシーとは微妙に違う)のよくわからない
        サプリも飲んでいた。

■自律神経免疫療法:○○○東洋クリニックに通い、鍼灸と漢方の処方を受けた。抗がん剤で弱りきった
          免疫を少しでも上げなければと考えたのだ。
          そこの老医師は「大丈夫だよ、きっと治るよ。」と言いながら、毎回同じような   
          施術をして、たくさんの漢方を処方し(保険は効かない)、自分でもわけがわからず、
          ある日私が「この薬、病院でもらえるし今お金がないので要りません・・。」と言ったら、
          看護師も医師も冷たーい視線で見るのだ。いたたまれなくなって二度とそのクリニック
          には行かなくなった。

■サイモントン療法:サイモントン博士の考案した、一種の心理療法。
          指導役(?)の女性と1対1の面談方式で進めて行く。
          今の自分の状態を嘆くのではなく、自分に楽しく、幸せなリラックスした状態を
          与えてあげる、がんがあってもなくても、自分は健康で幸せになることができる・・・。
          そんなような思想だった。
          毎回課題が出され、ノートに書いていく。
          6回で終了(1回1万円)、これは終了まで受けた。でも買わされた、がんを退治
          していくイメージのCDは一回も聴かずじまい。
          当時私の精神状態が不安定だったので、効果はどうだったかなあ。 
          もう少し落ち着いてから受けていれば、また違った成果があっかも、と思う。
          でも興味深い体験ではあった。


■丸山ワクチン:一日おきにお腹に注射するのだが、いちいち病院に行くのは面倒なので、
        自分で注射できるよう近所の医者を探しまわってやり方を教えてもらった。
        1歳の子供がいるので、部屋にカギをかけて、自己注射していた。
        ある日、提供元の日本医科大のスタッフに「抗がん剤の副作用は軽いみたいです。」
        と言ったら「ではワクチンが効いているようですね。」とすかさず何かに書き込んで
        いたのを見た。体調を聞かれたからそう答えただけで、丸山ワクチンが効いているとは
        一言も言っていないし、効いている感もまったくないんだけどなあ。
        こうやって都合のよいデータが作られていくのね、と一気に冷めた。
        でもダラダラと1年半ぐらい続けた。

以上が、術後半年間ぐらいで、私が試行錯誤した民間療法の主だったものである。
ナントカクリニックやナントカ療法に毎週のように通い、もちろん抗がん剤もやり、抗がん剤後は
放射線も入ってきて、なんだか週に半分以上はどこかに通院していた。子供の面倒があるので、
義母が大阪に帰った後は、実母に泊まり込みで来てもらうこともあった。なんだか毎日何しているか
わからなかった。そうして忙しくして、身体のために良いことをしていると信じ込んで不安を紛らわせて
いたのだろう。少し異常だとは思いながらも、母もダンナも、何も言えなかったらしい。

梅雨の時期になると、抗がん剤の副作用なのか暑さなのかわからないが、身体がだるくスッキリせず、
どの療法も効いている感がまったくなく、長い短いの違いはあるものの、結局全部止めてしまった。
特に食事療法はストレスが大きく、「食いたいもの食わして死なせてくれーーー。」的な叫びとともに
すぐ打ち止めにしてしまった。高価なフコイダンもほとんど飲まずにビンごと捨てた。(ヤフオクにでも
出せばよかった?売れないよな。)
ひとつひとつ止めるにしたがい、体調が良くなっていったのは気のせいか?

こうして、苦しかった術後半年間の、戸惑いと悩みと試行錯誤の期間は少しづつ過ぎて行き、
もう少しまともな日常を取り戻していくことになる、のか?

つづく・・・・。 



民間療法(代替療法)については、賛否両論あるし、各人の価値観もあると思います。
いずれにしましても、今回も共感反感含めて気軽なコメントお待ちしていまーす。
書き続けるモチベーションアップしますので。


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8年前乳がん発覚時のこと【7】・・・退院後の孤独

2012-01-31 16:13:53 | 8年前乳がん発覚時のこと
 
2004年1月下旬に退院。
自宅へと帰るタクシーの中で、「あー、生きて帰れたんだ。」と(大げさではなくて)実感。
窓から見える表参道の景色が眩しい。またここに元気に遊びに来るような日が訪れるのだろうか。

自宅に着き、ドア開けると、義母が息子を抱っこして迎えてくれた。
息子(生後8ヶ月)は嬉しそうにというか半分不思議そうに私に抱っこされる。
あああー、暖かくて柔らかい。ふ~、やっと家だ。またいっしょに生活しようね。
おっぱいないし、髪の毛も無くなるけど、びっくりしないでね。
義母は大阪に帰らず、しばらく私のサポートのためにいてくれる。

(当時の手帳をめくり、思い出しながら書いています。)

なるべく日常を早く取り戻そうと、子供の予防接種や子育て教室やらに通った。
ベビーカーで散歩にも出かけた。駅周辺にはベビーカーを押しているお母さんがたくさんいる。

どのお母さんも健康で元気そう。“がん”なんて無縁に違いない。それに比べて私は
助からないがんになってしまい、その上おっぱいもない。元気そうなお母さんたちは、
子供の将来の事考えたり、成長を楽しみにしているんだろうな、成長を見届けるなんて
母親として当然だし。でもその当然のことが、私には多分叶わないんだ。子供の成人式
どころか、小学生いや幼稚園に通う姿さえ見られるかどうかわからない。まだ赤ちゃんなのに、
いつ別れが来るかわからない。そんな思いを抱えたまま子育てしないといけないんだ。
そんなの辛すぎる。そんなのきっと私だけだ。

他のお母さんを見るたび、必ず条件反射的にそんなことを思ってしまう。そしてその度に
悲しくて情けなくなる。私は、私だけはこっち側の世界に入ってしまったのだ。数年以内に
死ぬかもしれない世界。私だけ・・・世界が違う、景色が違う。すごい孤独感。

若いお母さんだけではなく、私よりうんと年上のおばさんやおばあさんを見ても落ち込む。
あー、こんなに長生きできていいなあ、孫もいるんだろうな、私は恐らくそんなに歳をとる
ことができない。コワイよ、コワイよ、私は、私だけこれからどうなるんだろう。
今ベビーカーで子供連れて散歩しているけど、1ヶ月後は、半年後は、来年はどうなっているんだろう。
考えてもキリがない、意味がないことを、ぐるぐる考えては落ち込む。自分ではどうすることもできない。

こんな精神状態だから、家でダンナにあたることも多い。
「あなたはがんじゃなくていいよね。私はあと数年しか生きられないんだから、何をしても
意味ないし。」
「キミには○○(子供の名前)がいるだろう、まずそのことを考えなよ。」
「そんなこと言ったって、もちろん子供のことは第一だけど、それとこれは違う。
 不治の病は不治の病なの!もうダメなの!」

もう、こうなるとだだっこ状態だ。自分でもどう気持ちを整理していいかわからないのだ。

義母は「○○(子供の名前)もおるんやし、絶対治るて。治ってくれな困るで。
    明るうしてれば病気かて逃げるよって。」

力なく苦笑するしかない私。

(今考えても、ひどい精神状態だったと思います。)

退院後、通院は週1~2回。抗がん剤や傷の処置の他、精神科にも通っていた。
精神科ではカウセンリングのみで、薬の処方は確か無かった。薬をもらっていてもよかったかも、
と今は思う。

抗がん剤CEFの副作用は、投与当日の夜が数時間気持ち悪くて動けないことと、その後数日間
軽い気持ち悪さが続くこと。だるさもあったと思うが、当時は副作用かどうかよくわからなかった。
髪の毛も抜けてきた。洗髪後にごそっと。初めて見るそれは、恐ろしい光景だった。義母も泣いた。
(3回目ともなると、バリカンでさっさと刈って息子に触らせて遊んでいるんだけどね。)

そして、さらに落ち込みのピークがあった。退院後2ヶ月ぐらいのころ。
そう、民間療法のクリニックに行くために用意してもらった、診療情報提供書。
気になって封を開けると、そこに病理診断書があった。数字とアルファベットの羅列で
難しそうだけど、いちばん気になっていた、リンパ節転移数・・・・27個!驚愕の数字が
飛び込んできた。一気に落ちた。少しは前向きになろうと努力していたが、この数字を見ては
もう無理。絶対再発する、いやもうどこかに転移しているかもしれない。
治ると信じてがんばろうよ、なんて周りは言うが、それって無・駄・だ・よ!
ダイニングの机に突っ伏して泣く日もあった。

ネガティブ連鎖から抜け出せない、8年間の闘病生活の中で、いちばん辛くキツイ日々でした。
そうは言っても、毎日、育児、家事、通院などで、一日はアッという間に過ぎて行く。

そして、じたばたの中で統合医療に目覚める、つまりは民間療法にハマってしまったのだ。

つづく・・・。



*** 重苦しい記事になってしまいましたが、今の私は元気でーす。だから気軽にコメントいただければ
   嬉しいです。大阪的突っ込みも大歓迎ですう~。 ***




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8年前乳がん発覚時のこと【6】・・・衝撃の術後病理結果

2012-01-25 11:45:32 | 8年前乳がん発覚時のこと
手術が終わり麻酔から起こされた後、痛みは感じなかった、というか術側の左胸は感覚もない。

しばらくして病室に運ばれる。家族が迎えてくれるが、私はまだ寝る。誰とも話したくない。
ダンナがそばにいることはわかっているが、ひたすら目をつぶってそのうちにまた寝る、の繰り返し。
そう、ふて寝していたのだ、というか怖かった。リンパ節転移がレベル2まで広がっていたのでは、という恐怖。
だから何も聞きたくなかった。寝ているふりをして話しかけられないようにしていたのだ。
「もうお話になれますよ。」とダンナは看護師に言われたが、私が起きようとしないので、
その日はろくに話もせず家に帰っていった。罰当たりな私。

手術翌日の朝、起きあがり、管をはずしてもらったりいろいろ処置してもらい身軽になると、
朝食も普通食が出てきて、同室の胃全摘の人は「へぇーーー。」と驚いていた。
左腕は、脇からドレーンも出ていたし腕も上がらないが、胸は痛くない、やはり感覚もない。

午後になり母が来てくれて、洗濯物やらいろいろ世話を焼いてくれる。
その日には、執刀したベテラン女医やチームのドクターや看護師が入れ替わり立ち替わり様子を見に来てくれる。
「手術お疲れ様でしたね。きれいに取れましたからね。」と口々に言ってくれるが、リンパ節のことは
だれも触れない。そんなこんなで不安を残しながら2日間が過ぎ、土曜日になり、ダンナが見舞いに来てくれた。
私、怖々「結局リンパ節はどこまで取ったの?」
ダンナ 「え?まだ聞いてないの?」
私   「だって誰も言わないから、聞くのも怖くて。」
ダンナ 「レベル2にも転移があったから、レベル3も取ったよ。」
・・・・やっぱりか!ダメだったか。最悪のがんなんだ・・・。

同時期に入院し私の2日後に全摘手術をしたKさんも、管がはずれて元気になってきた。
またデイルーム(兼食堂)に行くようになって、がんベテランのおじさんおばさんやおばあさんからも、
さんざんいじられる。39歳でがんなんて超若手(消化器がんの世界ではね)。

リンパ転移の心配はなさそうなKさん、いったい何個転移しているか想像すらつかない私。
自ずと表情に明暗が出てしまうのだ。

「そんな暗い顔していると治るものも治らないよ。」
「Kさんは目に力があるけど、アッピアさんはそんなんじゃダメだなあ。」
「私なんて10年前に胃全摘で、リンパにもたくさん転移していたのに、今こんなに元気よ。
 抗がん剤の吐き気なんて気持ちの問題なんだから、絶対負けない、という気持ちを強く
 持ちなさいよ!」

言いたい放題である。なんでそんなにデリカシーないの?
私も「そうですよね。子供のためにも頑張るしかないですよね。」とか合わせるしかなかった。
心では泣いていた。それならデイルームに行かなければいいのだが、何か変なコミュニティが
出来上がっていて、そうもいかない雰囲気だったのだ。今思えばバカらしいが。

朝と夕方、乳腺チームの回診がある。ドクターたちがKさんのところに来ると、明るい話し声や
笑い声が聞こえてくる。Kさんが終わって、ドクターたちが私のところに来ると、優しい態度では
あるがどこかよそよそしい、と感じた。
「リハビリは順調ですか?傷の方もキレイですよ。」
でもリンパ転移や予後のことは聞いてくれるな、オーラ満載?
なんかこちらもいたたまれなくなり、悲しくなる。ますます暗くなる私の表情。

(また思い出して辛くなってきた。エアロビ行ってこようかな。)

なぜかこの病院は、術後に骨シンチをやる。
この時間のかかる検査はかなり恐怖だった。緊張しっ放しで終わったらぐったりだった。
(今では寝てしまうのにね。)
結果は問題なしで、心底ホッとした。

それでも辛い気持ちを抱えていることが多く、精神科受診を申し出てみた。
精神科はあいにく若手の医師で、どうも合わなかった。私が今の不安を吐き出したのだが、
「そうですよね、子供の成長が見られないかもしれないと思うと辛いですよね。」
と言い放ったのに私がキレて、『それじゃあ私は助からない、て言いたいのね。』と心の中で
叫んだ。今なら普通に受け止められる言葉でも、当時いかに気持ちがささくれだっていたか。

術後の病理検査の結果が出たので、ベテラン女医先生と面談。母親とダンナが同席。
いよいよ、私の最悪のがんの詳細が告げられるのだ。
女医先生のオペが終わるのを夜まで待つ。外科医の仕事は本当に過酷だ。
呼ばれて3人で部屋に入る。
「あ、どうもこんばんは。」とにこやかに対応してくれる。
そしていよいよ本題。

「・・・しこりの組織の結果ですけど、やはりリンパ節は鎖骨下のレベル3にもしこりの影響
 がありました。(“転移”という言葉は使わないでくれる。)
 ホルモンは、少しですが陽性が出ています。それからHer-2が陽性なので、再発した場合に
 ハーセプチンが使えます。これは効きます。
 リンパに影響があったということで、これからしっかり予防していきましょうね。
 ○日から抗がん剤をはじめていきますので、その説明をします。・・・・・・・・。
 今のところ術後の経過も順調なので、○日に退院の予定にしましょう。
 退院したら普通の生活して問題ありません。注意することは・・・・・。
 それ以外は、アクティブに、明るく、温泉旅行なんていいかもしれないし、自分の免疫力
 上げて治していきましょう。・・・・・・・。」

病理については、私があまりにも知識ないために、何も質問できなかかった。リンパ節転移の数は、
やはり怖くて聞けなかった。とにかくすごく進行していたことだけはわかった。
ハーセプチンなんて薬よく知らないけど、やたら進行の早いがんなのだろう。
明るく過ごせ、なんて言われたって、多分無理。

・・・詳しい病理結果は、数ヶ月後に民間療法のクリニックに行く際に作ってもらった、
診療情報提供書に、病理診断書の紙が同封してあり、封を破いて見たのが最初である。

 ステージ:3A
 しこりの大きさ 5.8×3.8センチ 
 硬がん、グレード3、
 リンパ節転移 レベル1+2+3 合計 27/38(27個に転移)
 エストロゲン(±)、プロゲステロン(±)、Her2 3+

これを見たとき、27/38の意味がわからず、まさか転移数が27個だんなて考えられなかった。
多くても10個以内だと思っていた。2ケタの人ってほとんど聞かないし。
後で事実を知って衝撃を受けた。もう絶対ダメだと思った。再発しないワケがない、と思った。
ちなみに、Ki-67なるものを当時計っていたら、とんでもない高値だったはずだ。
 
そして、初めての抗がん剤が始まる。CEF4クール → タキソールの予定。
その時は抗がん剤の名前もわからず受けていた。
(今ならハーセプチンも併用して、再発予防に大きな効果が期待できるだろうに)
どうせ副作用でボロボロになるんだ、もうどうにでもなれ。
しかし、受けてみると幸い酷い副作用はなく、きもちわるーい、ぐらいで1回目は済んだ。

そういえば、Kさんの方は、病理の結果も良く、晴々した顔で
部屋から出てきた。もちろん抗がん剤もなし。いいなあ。助かるんだ・・・・。

退院の日が来た。みんないろいろな言葉で励ましてくれる。いっしょに輪になって歌まで歌った。
ありがとう、頑張るからね、みなさんもね!
とは言ったが・・・・はやく家に帰りたい・・・・まだやさぐれているかも・・・・。

母といっしょにタクシーで家に帰った。家では義母が待っていた。
そしてそして、3週間ぶりに会う、生後8か月の息子が迎えてくれる・・・・。

しかし、本当の苦悩は、退院後からはじまった・・・・。

つづく・・・・。




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8年前乳がん発覚時のこと【5】・・・入院~全摘手術

2012-01-22 23:23:32 | 8年前乳がん発覚時のこと
2004年の、赤ちゃんと初めてのお正月は、乳がんの手術になるかもしれない不安を抱えながら
過ごし、正月明けの1月4日に都内の大学病院に入院した。
看護師が持ってきた紙には、「告知を希望しますか?」「一番不安なことが何ですか?」
などが書かれており、すべてが「がんで手術」が前提になっているように感じた。
私は堪え切れなくなり、「詳しい検査でがんでなければ手術はしないんですよね。」と確認していた。

翌5日にいよいよ生検。ドキドキしながら受けたが、かなり痛かった。こんな検査が続くかと思うと、
初日から負げた。お腹のエコー検査もあった。これも転移が見つかったらどうしよう、とかなり恐怖だった。
その日の夜に組織検査の結果が出て、クラス5を告げられる。乳がん確定。
予定どおり明後日7日に手術。明日6日に執刀医のベテラン女医先生から詳しい説明があるとのこと。
やっぱりダメだったか。最後の望みが断たれた瞬間だった。が、ある程度予測もしていた。

話が前後するが、入院の部屋は7人部屋。外科疾患の部屋で乳がんだけではないので、
肝臓がんや胃がんで全摘の人や腸閉塞の人などいろいろ。乳がん以外は高齢の方が多い。
同じ日に入院した40代の乳がんの人がいて、検査や説明が私とほぼ同時で、何かと話をするようになった。
年齢も近いし(当時私は39)、しこりの大きさも似ている(4~5センチ。2人ともかなり大きい)。
大丈夫だよね、頑張ろうね、とお互い励まし合う。

同じ部屋の人たちや、食堂に集まる人たちとも顔見知りになり、
私はどこのがんだ、ここに転移している、手術はいつだ?などの話題が飛び交っている。
私たち若手女性2人は、がんベテランのおじさまおばさま方の格好のエサになってしまった。
子供は何人でいくつ?だとか、どこに住んでいるか?などは序の口で、
「絶対治ると思わなければいけないよ。」「笑っていれば大丈夫だよ。」
「手術したら一皮むけてキレイになるよ。」
などなど・・・・。私は苦笑するしかなかったが、そんな気分でもなく、とても面倒で辛かった。
そして、もう1人の女性(Kさんとします)とは、これから手術・病理結果と進むにつれて、
ハッキリと明暗が分かれていくのだ・・・。

さて、手術前日のベテラン女医による説明。
組織検査の結果と手術の説明、術後の抗がん剤治療の有無など。
「アッピアさんの場合は、センチネル・・・は適用できません。しこりが大きいので、温存もできません。
すでにリンパ節に転移があるので、レベル1~3まですべて取る可能性もあります。
術中の病理検査の結果によって決めます。・・・・・。」

女医先生の説明はカンペキ。言葉も慎重に選んでいる。「がん」という言葉は使わず「しこり」
で通している。それでも、“かなり進行している”というニュアンスは充分伝わり、
ちょっと絶望的な気分になる。
それにしても気になるのは研修医クン。徹夜続きなのか、横でコックンコックン。
頭揺れ過ぎ。気持ちを紛らわすために研修医クンをチラ見する私。

同席したダンナと両親と、肩を落として病室に戻る。泣いても笑っても手術は明日。
女医先生に全てを任せて頑張るしかない。眠剤をもらい、明日の準備を確認して早めに休む。

翌朝、朝一番の手術に向けて看護師たちも忙しそう。私もまな板の鯉状態で、言われるがままに
指示に従う。早朝からかけつけてくれた家族に見送られて手術室へ。全身麻酔の手術は2度目なので
恐怖感はあまりない。ただがんであることが怖いだけだ。

手術着に着替え、手術台に横になり、たくさん管を付けられ、身動きできない状態になった。
「眠くなるお薬入れていきますからね。」の声がする。
間もなく酸素マスクが口のそばにあてられ、指示どおりに
「イチ、ニ、サン、・・・・あ、なんか気持ちいいナ・・・。」意識喪失。

「アッピアさん、アッピアさん。」
誰かが肩を強くたたいている?せっかく気持ちよく寝たばかりなのに何で起こすの?
「アッピアさん、手術無事終わりましたよ。」
「へ?もう終わったの?」時間の感覚がまるでない。一瞬の感覚。
時計を必死で見ると、午後の3時か4時。結構時間が経っている。
リンパ節切除に時間がかかったのかなあ。たくさん転移していたのかなあ・・・。

つづく・・・。



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8年前乳がん発覚時のこと【4】・・・入院直前、赤ちゃんと初めてのお正月

2012-01-13 17:40:58 | 8年前乳がん発覚時のこと
 前回の【3】では、2003年12月19日に大学病院に初受診し、生検と入院予定が決まったところまで。

19日の翌日は土曜日。私の両親もそのまま我が家にお泊まり。朝起きるととても寒いが空は快晴。
気持ちは複雑で揺れ動いているけど、家族がみんな集まっているから何となく安心。
気分転換に、皆でベビーカーをひいて散歩に出かけた。子供はにぎやかな雰囲気でお散歩ができて
ご機嫌な様子。私もお日さまを浴びながら、がんではなくてこんな穏やかな日々が続きますように、
と願わずにいられなかった。

週末が明けて12月22日月曜日は、断乳のため、○ケタニに行った。
いつも施術をしてくれる助産師に事情を詳しく話し、断乳のためのマッサージをしてもらう。
しこりを触りながら助産師曰く「ほら、よく動くしこりだし、まさかこれががんだなんて考えにくいよ。」
私も、そうだよそうだよ、と思いつつ、でも脇のぐりぐりはどう説明するんだ、と思い悩む。

街はクリスマス一色。イブの24日は子供の予防接種に、25日はまた○ケタニへ。
クリスマスなのに、私は必死にパンパンのおっぱいを絞り、頭はがんのことでぐるぐる。
25日は父が来てくれて、私の代わりにクリスマスケーキでささやかなお祝いをしてくれる。
子供はまだ赤ちゃんでクリスマスはわからないだろうけど、子供ができて初めてのクリスマスは、
こうして寂しくならずにすんだ。家族って有難い。

クリスマスが終わり年末モードに突入。乳がん騒動がなければ、30日から大阪に帰省の予定で、
荷造りしていたころだろう、それが同じ荷造りでも入院の準備になってしまった。
お正月は、私の両親のいる横浜で新年のお祝い予定。

大みそかは自宅で静かに迎える。子供を寝かし付けて、ダンナと二人で紅白歌合戦と年越しそば。
この年の大トリは、SMAPの「世界にひとつだけの花」で、白組圧勝。

明けて2004年元旦は我が実家へ。両親にとっては、待ちに待った初孫を迎える初めてのお正月。
加えて、弟夫婦にも子供ができたようで、9月出産予定。もうおめでたいことだらけ。
みんな知っているけれども、間違っても自分の乳がんの話題はできない。少しでも触れたら、
絶対父が泣き出すだろう。私も、子供と初めて過ごす幸せなお正月を味わった。
そう、乳がんの疑い濃厚だなんて何かの間違いだ、と考えないようにして。

夜になりそろそろお開きという頃、おもむろに父から、これからの入院の予定とかどうなってるんだ、
スケジュールを確認しよう、ということで、現実に引き戻された。
父も実は心配で頭から離れてなかったんだろう。
でもこうして楽しくお正月を過ごせてよかった、私のせいで暗い雰囲気にならなくて本当によかった。

あくる日2日は、義母が大阪からやってくる。私の入院は明後日4日からの予定で、
手術になれば3週間ほど入院になるので、その間子供の世話と家事を一手に引き受けてもらうのだ。
実母は、入院中の私の世話を担当。もう、老親総出でアッピア乳がん手術プロジェクトのスタート。
(アレ?ダンナの役割は?一応医師の説明の同席とか、お見舞いとか・・・。でも両母の活躍で
 だいぶ助かったと思う思う。)
ちなみに、義母は10年以上前に乳がん手術をしており、今回の私の手術にすごく胸を痛めている。

かわいい孫の世話ができて有難いと言ってくれているが、0歳児の世話は生半可ではない。
オムツやミルクや昼寝や離乳食のことなどノートに書いて説明した。義母も必死。
私はその間、断乳と入院準備でバタバタ。

そしていよいよ2003年1月4日、入院。翌5日に生検。結果を待って7日に手術予定。
私は、もしかしたらシロかもしれないとまだ希望は持っていたのだが、実はすでに腫瘍マーカーCEA
が高く、病院側はクロという前提で手術に向けて準備していたのだ。

つづく・・・。



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8年前乳がん発覚時のこと【3】・・・大学病院受診と検査

2011-12-28 15:20:19 | 8年前乳がん発覚時のこと
8年前シリーズ3回目。衝撃のがん告知の翌日、大学病院へ初通院の日。
2003年12月19日金曜日、近所のママ友さんとミニコンサートに行く予定をドタキャン。
朝から緊張モードで、弟と叔母に抱えられるように電車で移動。通勤タイムなので混んでいる。
病院の外来センターに着く。昨年建てられ替えられただけあって、やたらと広くて明るくて開放感一杯。
こんな理由の来院でなければワクワクしそう。

受付で紹介状を渡し初診手続きを行う。1階の外科のブロック受付を済ませ、待合いスペースの椅子で待つ。
今日はどういうスケジュールになるか全く読めない。1日がかりを覚悟。
しばらくして予診に呼ばれ、若い医師にいろいろ聞かれ答える。医師は勢いよくPCに内容を打ち込む。
採血とマンモとエコーを受けるように言われ、再度検査を受ける。結果クロを確認するようなものだが、
進行具合がどれほどかが気になるし恐怖。エコーの技師の顔を横眼で擬視するも、顔色からは何もわからない。
結果がわかり、診察に呼ばれるまで昼食をとることにする。
(昼食の事は覚えていません。どこかで3人でとったのでしょう。)

ベテラン女医先生の診察に呼ばれるのをひたすら待つ。ここまで来るともう、まな板の鯉状態なので、
弟や叔母と雑談をして気を紛らわせる。
授乳中なので、数時間おきにトイレで搾乳もする。パンパンに張ったおっぱいを必死に絞り出しながら、
なんか最悪な気分。こんなところでなんで搾乳なんだ、しかも死刑判決待ちかもしれないなんて、
最悪、最悪、最悪。

何時間待っただろうか、掲示板に私の番号が表示され、一瞬ドキっとして中待合室に移動する。
いよいよだ、急にドキドキしてきた。もう結果が出ているのだ。
私の前の人が診察室から出てきた。心の準備・・・できん。
なかなか呼ばれない。やっぱりややこしい結果がでたからだろうか。いちいち不安になる。

私の番号が光る。ドキン、緊張しながら診察室へ。ベテラン女医と初対面。
(このベテラン女医先生は私の執刀医、今は昇進して教授です。私の今の主治医ではありません。)

ベテラン女医「・・・・・検査お疲れさまでした。しこりが悪い物であるかどうかは、最終的には
       組織検査をしないと確定できません。細胞診はクラス4でまだ確定していないので、入院して
       検査結果がでた上で、必要なら手術ということになります。
       紹介状には、炎症性乳がんの疑い、とも書いてありますが、そうでもなさそうだし。
       ともかく組織検査の結果で決めて行きましょう。・・・・・脇のしこりも、お乳のしこりが
       悪い物でなければ心配ないものです。・・・・・」

え・・・、そうなんだ。死刑宣告じゃなかなかった。もしかして、がんじゃないかもしれない?
まだがんて決まったわけじゃなかったんだ。なんか首の皮一枚でつながっている感はあるけど、
とにかく人心地ついた。それに、この女医さん、説明も丁寧で信頼できそう。
弟も「先生の話聞いて、少し安心したよ。」との感想。

(2003年当時は、術前化学療法は行っている病院もあったが、まだ一般的ではなかったし、
 私も術前療法の選択支は示されなかった。)

診察室を出てからもまだ帰れない。入院の手続きやら、産科で断乳の説明など聞く。
そうです、入院の前に断乳しなければいけない。これはつらい。まだまだ出る気満々の
おっぱいを強制終了するのだ。おっぱい張りまくって痛いだろうなあ。

すでに夕方で外は真っ暗。3人でタクシーで帰ることに。安堵感一杯の私は、急に甘い物が欲しくなり、
売店でお菓子を買ってタクシーの中で食べた。街はクリスマスのイルミネーションで華やか。
きれいだなあ、と感じる余裕も出てきた。「せっかくだから入院前にクリスマス外出しちゃおうかな。」
あ、いけないいけない、断乳という大仕事があるし、入院前に風邪など引いたらたいへん。

そんなことを思いながら家路に着いた。とにかく昨日の奈落の底気分よりははるかにましな心地。
家に帰り、すぐに子供に授乳。あと何回授乳できるのだろうか。
乳腺炎であんなに辛かった授乳。何度ミルクの人をうらやましいと思ったか。
でも、突然終了しなければいけないと思うと、とても寂しいし、心の整理もつかない・・・。

ともかく長い一日は終わった。

つづく・・・。

    


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8年前乳がん発覚時のこと【2】・・・告知の日

2011-12-23 21:47:49 | 8年前乳がん発覚時のこと
クリスマス3連休にバッドタイミングな暗い記事で申し訳ないです。
アッピア自身は元気に過ごしていますので、皆様も楽しいクリスマスをお過ごしくださいね。
さて、つづきです。


あれから1週間、いよいよ検査結果がわかる日、2003年12月18日は、冷たい雨の降る日でした。
ダンナと二人電車に乗って健診センターのある駅で降り、十数分の道のりを無言で傘をさして
下を向いてとぼとぼ歩く。
受付を済ませ、廊下で待つ。途中看護師さんが廊下の私たち二人を覗き込み、診察室に入る。
「アッピアさんご主人といらしています。」とでも話しているのだろうか。
間もなく呼ばれて診察室に入る。いよいよだ。

医師「検査の結果ですが。細胞診の結果は、クラス1から5まで分けられます。1は・・・
(ひとつひとつ説明)。アッピアさんの場合は、クラス4が出ました。(ほぼがんということ。)
・・・・・アッピアさん、大丈夫ですか。」

私とダンナはどういう顔をしていいかわからない、「やっぱりダメだったか。」という思い。
深呼吸しても息が吸えない感じ。私の人生の幕がストーンと降りた感じ。先が真っ暗。
だんだん恐怖に震えてくる。この先どうなるのか。医師が言葉を続ける。

医師「手術になると思いますが・・・希望の病院はありますか?なければこちらで紹介します。
   ボクのよく知っている女医の先生で・・・○○医大病院の・・・。」

その病院は、親戚のツテのある病院で、もしもの場合紹介をお願いしようといていた病院。
偶然だが、縁があるということだろう。何となく安心したが・・・。医師はさらに続けて、

医師「・・・アッピアさんの場合は、授乳中ということで、身体の環境が通常とは違い、
   とにかく進行が速いようです。もう年末に近いですが、年を跨がずにできるだけ
   早く○○医大病院の診察を受けてください。今から紹介状書きます。細胞診のプレパラート
   は○○先生に送っておきます・・・・。」

つ、通常とは違うって・・・。進行が速いって・・・・・。何それ。前回の検査から1年経ってないよ。

私(振り絞るように)「今年2月の妊娠中に検査した時はどうだったんでしょう?」

医師「その時は問題なかったですね。今回は明らかに違います。」(だから進行が速いということか。)

進行が異常に速いことは、自分が一番わかっている。授乳中に、以前の良性腫瘍切除跡の部分が硬く
なり出して、他の乳腺炎のしこりはなくなっても、このしこりだけはしつこく残り、
しかもどんどん大きくなっている。気が付いたら脇の下にも大きなぐりぐりがある。
でもまさか乳がんてことはないよね、こんなスピードで大きくなるわけないよね、乳腺炎のなごりだよね、
万一これががんだったら、もう絶対助からないだろうしね・・・・と思っていた。

でも、これが「がん」だったのか・・・。

私、出産前に検査も行ったし、○ケタニの助産師も、保健所の助産師も、脇のグリグリを触りもせずに
「副乳」と言っていたじゃない!私に落ち度ないじゃん!それでも見逃されたということ?
もう手遅れなの?いつ気がつけばよかったの?どのタイミングで病院に行けば助かったの?

診察室を出て、紹介状をもらうために待つ。看護師さんが心配して「大丈夫ですからね。」
一瞬ほっとした。根拠のない「大丈夫」でも声を掛けられただけで少し救われた気持ちがした。

紹介状を受け取り、冷たい雨が降りしきる中、ダンナと二人で来た道をとぼとぼと無言で歩く。
私は我慢できずにダンナに「何か喋ってよ。」「オレだってショックだし何言っていいかわからないよ。」
何だよ、肝心な時に助けてよ!

家に着くと、母が子供の面倒を見ながら待っていた。既に電話で伝えてあったので、結果は知っている。
今日告知される可能性があることも事前に言っていたので、やっぱりダメだったのね、という感じで
衝撃的なショックはなかったと思う。

改めて生後7ヶ月の息子を見た。お座りをして機嫌よく遊んでいた。
蓋をしていた気持ちが一気に湧き出てきた。

この子が歩く姿を見ることはできるのだろうか。
この子が自分をママと呼んでくれる声を聞くことはできるのだろうか。
この子とおしゃべりすることはできるのだろうか。
この子が私を母親だと記憶してくれる歳まで、自分は生きることができるのだろうか。
幼稚園や小学生になる姿を見ることはできるのだろうか。いや、それは多分無理だろう。

もう涙が止まらない。なんで、なんで?この子とはすべてがこれからだというのに。
私はどうなるの?もう全身に転移してすぐに死ぬの?痛くなったり苦しくなったりするの?
嫌だ、嫌だ、嫌だ。

(いやあ、書いていて辛くなってきた、泣きそうになるわ。)

でも泣いてばかりはいられない。まずは○○医大病院に電話。紹介状がありすぐに診察を受けたい
を旨を話し、紹介先のベテラン女医先生の予約を明日入れてもらう。
まずは良かった。明日病院に行ける。あれこれ考えるヒマはなく明日診察を受け、これからの
ことがわかるはず。

次は人のアサイン。赤ちゃんの息子を見てくれるのは母しかいない。問題はダンナが明日休めないこと。
一大事なのだが、今日休んだので明日はスケジュール上どうしても無理。なので、
急遽、実弟と叔母に明日同行してもらうことにする。もう親戚巻き込んでのてんやわんや状態。

とにかく明日、すべては明日。それまでは何も考えるまい。
今日は家族に甘えて、子供の顔を見ながら早めに寝てしまおう。
不安と恐怖と動揺と、そして明日への戦闘モードと、もう頭も心もぐちゃぐちゃ。
でも頑張って授乳しながら寝た。

つづく・・・。





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8年前乳がん発覚時のこと【1】・・・しこりの自覚と細胞診

2011-12-22 11:11:27 | 8年前乳がん発覚時のこと
私がブログを始めた今年2月は、すでに乳がん歴7年が経過していました。
しかも現在進行形で病状も治療も変化していたので、そのことを記事にするのが精一杯で、
初発時の事は病歴のところに簡単に書いただけなんです。

8年前(2003年)    12月11日、いつもの乳腺定期健診でがんの疑い、細胞診実施。
              12月18日、細胞診結果、事実上のがん告知。
             12月19日、紹介先の大学病院(現在通院中の病院)受診。
         翌年   1月 7日、左乳房全摘手術。

こんな流れで進んで行きました。
私はほとんど手遅れ状態の進行癌で見つかり、初発の告知 = 死刑宣告
な感じだったので、正直振り返ることが辛いです。でも一度きちんと記録しておきたかったので、
8年後の今日、再発しながらもこうして元気でいられることに感謝しつつ、この時のことを振りかえって
書くことにします。

8年前と言いつつ、私の乳がんの成り立ちを考えると、27年前の20歳の時に遡ることになります。

大学3年の夏、何気なく左乳房の下の方にしこりを見つけてしまった私。
もちろん当時すでに、しこり = 乳がんかも、という知識はありました。
なので、びっくりして怖くなって、母親と一緒に近所の大学病院に駆け込みました。
丁度ゼミの夏合宿の初日で、結果が出てから遅刻参加しました。
その時、おそらく生まれて初めて「死」の恐怖を感じたと思います。
20歳でがんだなんてあり得ない、もう生きた心地のしない数日でした。
マンモとエコーの検査の結果、3ヶ月の経過観察になり、確か半年後ぐらいに日帰り手術で
腫瘍のみを摘出して、良性という結果でした。

しかし、乳腺症になっているので毎年検査は受けるように、とのことでした。
それからほぼ毎年、マンモかエコーは受けていました。乳がんが発覚する39歳まで欠かさずです。
だから本来なら、手遅れの乳がんが見つかる、なんて事態はあり得なかったのです。

結論から言うと、がん見逃しがあっかどうかは今でもわかりません。当時の先生にもはや恨みも
ありません。ただただ、残念なだけです。

少し話を戻して、38歳で妊娠した私は、出産の3ヶ月前に大きなお腹を抱えて、一応毎年の乳房検診に行きました。
乳腺が張っているのでマンモはせずエコーのみ。結果は特に問題なし。これで安心して出産に臨める、と
思いました。そして予定日の2003年5月初旬に無事出産、授乳開始。
それはもう、すべてが初体験で想像すらできないことだらけで、大変でした。
まあその辺りのことを書きだすと違うブログになってしまうので。
一番大変だったのは、授乳開始から1ヶ月ほどで酷い乳腺炎になったこと。
おっぱいの中に大きな岩がはりついてしまったような。あり得ないぐらいの痛さとそして高熱も。
腫れと痛みがピークの時は、○ケタニのマッサージに連日通いました。

授乳と乳腺炎のコントロールがようやくできてきて、子供もおすわりが出来るようになり、
子育てをだんだん楽しいと感じ始めたころ、○ケタニのマッサージでもとりきれないしこりが
あることが時々気になりました。マッサージのおばさん(と言っても看護師と助産師の有資格者)に、
「ここの左側の下のところ、お乳の固まりがしこりになってとりにくくなっているから、
授乳終わったら一度乳腺科で診てもらってね。」と言われました。

このしこりの場所は、そう、20歳の時に良性のしこりがあった場所。しこりのみ取っていたのだが、
取ったあとが組織のひきつれのような、しこりのできそこないのような少し固い部分がずーっとあった。
今回しこりができたのはまさにその場所。しかもだんだん大きく硬くなってきたような気がする。
実は、左の脇の下にも、とれないぐりぐりのしこりもあるので言ってみたが、
マッサージの助産師は「副乳かなあ?」と。

今考えれば恐ろしいことです。マッサージでがんを成長促進させていたわけだし、
数ヶ月であっという間にリンパ節転移していたんですね。ちなみにそのころ子供は、
左のおっぱい飲むのを嫌がることが多かった・・・・。教えてくれていたんだね。

まさかとは思いつつ忙しさにかまけつつそれでも、産後7ヶ月の2003年12月10日に乳房の健診に行った。
前回の妊娠中の健診から10ヶ月。しこりが気になるから一応早めに行ったわけです。

ちなみに診察の医師は、20歳の良性腫瘍の時からずーっと診てもらっている。
いっしょに歳とっていった感じ。だからもちろん信頼している。
今回は、しこりのことを言って、すぐにエコー実施。
私はまさか悪い物ではないと思っていたので、あまり不安はなかった。

しかし検査技師の人が、私のしこりのエコー画面を見るなり、ギョとした表情になるのを横目で見てしまった。
医師が部屋に入ってきて「どう?わかった?お乳の固まりでしょ?」
技師は「・・・・・しゅ、しゅよう性のものが・・・、しかも炎症性の・・・・。」

私は意味がよくわからず、少し不安になった。間もなく診察室に呼ばれて、医師の表情を見て、
不穏な雰囲気を察知した。
医師「お乳の固まりではないような影像が見えたので、針で細胞取って調べてみましょう。」
私「・・・・・え?悪い物の可能性はあるんですか?あの・・・ここの脇の下にもぐりぐりがあるんです。」

すぐに再度脇をエコー検査した。
医師「脇のしこりもエコーで見たけど、うーん、フクザツだね。」
フクザツって?意味わからない。もうそれ以上聞けなかった。医師の表情見れば言いたいことがだいたいわかった。
いつも会社の事や雑談で終わる健診も、今日はまったく空気が違う。
不安MAX。だって、だって、脇が腫れているんだよ、リンパ節転移の知識ぐらいはあるよ。
もしがんなら、もう完全に手遅れじゃん、進行速すぎるよ、あり得ないよ。
もううなだれて帰ってくるしかなかった。結果は1週間後。どういう気持ちで過ごせばいいのか。

家に帰って、子供を見てくれていた実母に報告。夜には帰宅した主人に報告。
「もしかして私乳がんかもしれない・・・。」
最初はまさか~、という反応だったが、検査や医師の様子を話したら、これは本当かもしれない、
と感じたらしく、某大学病院にお世話になっている親戚筋など、手術する病院を探すべく家族で動き出した。
私は乳がんの事をネットで調べようともしたが、怖くて無理だった。もう手遅れで手術もできない的な事を
見つけようものなら立ち直れないと思ったから。1週間後の結果には、主人にも同席してもらうことにした。

そうは言っても、クリスマス近い1週間、ママ友の集まりや、家に旧友招くだの予定がいろいろ
入っていて、でも今の段階で誰にも何も言うことができないし、ドタキャンも申し訳ないので、
がんばってこなした。もちろん頭から離れることはなかったが、いっとき考えることからは逃避
できたので、家で悶々としているより良かったかもしれない。

そして1週間後、シロクロ付ける日が来た。嫌でも今日判る。恐ろしくもあり、待ちわびた日でもあった。
その時の私の気持ちは・・・医師の態度だとほぼクロの感じだが、検査の結果シロでした、良かったですね、
と言われることをひたすら心に描いていた、祈っていた・・・・。
その日2003年12月18日は、冷たい雨の降る日だった。

つづく・・・。

 *端折って書いてある部分も多いので、疑問質問等あれば遠慮なくコメント欄にいただければ幸いです。
  もちろん、突っ込みも大歓迎!



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