懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

蒸気機関車 名寄駅発車

2017年12月23日 | 蒸気機関車
撮影場所 北海道 宗谷本線 名寄駅

厳冬期の名寄駅 あの頃は名寄が一番寒い土地で知れ渡っていた。
名寄岩という力士が記憶にある。あの頃は横綱と言えば北海道だった。
大鵬、千代山、千代富士、若乃花と有名な力士がいた。
横綱は寒いところの出身がほとんどであったようにおもう。
モンゴルに相撲界が独占されるとは思いもよらなかった。
外人は言葉や生活習慣になじめず尻を巻いて帰国するであろうと思っていたら平気で順応する。

家電は日本の独擅場と思っていたら韓国、中国、台湾に席捲されてしまった。
グローバル化に一番立ち遅れた国になってしまった。
子供の誕生が94万人 老人の死亡が134万人と言われている。40万づつ人が減る。
老人が減っていく分は年金も介護医療費の削減のため喜ばしい事だが子供がどんとどん減るのは問題だ。

名寄駅から名寄線が分岐してオホーツク海沿岸を走り遠軽まで走っていた。
国鉄の解体に伴い廃止された。
廃止されるのが分かっていればそんな写真も撮ったのにと思う。

この写真を撮影して45年日本の状況も暮らしも随分替わってきた。
45年間漠然と生きてきたように思う。年末に当たり今年は何がありどんな商品がヒットしどんな事故や災害がありどんなブームが起き人の暮しはどうであったか経済指標や人口動向も記録してみると人生の歴史が認識できるかもしれない。

懐かしい物 電気機関車EF581号機

2017年12月22日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県 山陽本線倉敷駅

過去に撮影しているフィルムを定年後スキャンしていた。
車椅子生活になり何処へもいけず昼間はラジオを聞きながらフィルムスキャンが暇つぶしに都合がよかった。

その中に電気機関車の写真もあった。よく見たらEEF58の一号機を撮影している。
全く撮った記憶が残っていない。
蒸気機関車ならば撮った記憶も残っていたのであろうが電気機関車など一杯いたのでいちいち覚えていない。

今にして思えば昭和40年代の風景は電車も電気機関車も気動車も駅舎も駅前の風景も何もかも懐かしい消えた風景なのだ。
その時代に生きていると何が消えてどう変化していくのかが分らないものだ。

EF58はその当時の主力機関車であった。ブルトレも牽引していた。
岡山にも糸崎でもよく見たが情けない事に撮っていない。
1946年の戦後すぐに作られて改良されている。全部で172両つくられている。
この一号機は保存もされず解体されている。
直流区間で走っていたので早く電化された区間のみ走っていた。

茅葺き民家 故郷の風景

2017年12月21日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県旧勝山町


故郷の風景とはどんな風景であろうか、人それぞれ生まれ育った場所が故郷の風景になるのであろう。
しかし、田舎や山の中で育った人と都市部では感じ方が違う。
私も余り田舎の懐かしい風景は知らないが写真のような風景は故郷の風景と思う。
この土地は河岸段丘になっていて背後に浸食された谷と川がある。
山や川や田や畑、里山のある風景が故郷の風景であろうか
平野ばかりの土地より近くに山があった方が日本の風景らしい。

田舎好きの人はこんな場所は住むのには楽しいと思う。
魚釣りや山菜採りや猪狩りや農作物作りやキノコの栽培、ヤギや鶏の飼育、石ガメの繁殖など楽しみはいくらでもある。

日本茅葺紀行 NO,414 岡山県旧賀陽町

2017年12月20日 | 日本茅葺紀行
賀陽町は現在、吉備中央町になっている。
茅葺きを探しに休日は車で走り回っていた。
地元の人にも声を掛けて茅葺民家が無いか訪ね歩いた。

この家は山の上にあり道も車一台しか通れない。
普通ならば行かない道だがあると聞いていたので心強い。
細い道を登りつめて車を一台置くスペースがある。
そこから茅葺民家が見える。
それから急な坂を歩いて登ったら茅葺民家に行ける。

厳しい土地で暮している。次男や三男は養子に行くか都市部に出るかである。土地に残る者は山を開墾するしかない。
しかし、水が無いので米は作れない。畑作だけだ。
戸は少し下がったところに掘った。山さえあれば岩石が水を含んでいるので横穴か竪穴を掘れば水はしみ出してくる。中国地方は横に穴を掘り進んだ横穴水を目にする。ちょろちょろと絶えず流れている一日溜めると結構な量になる。

野菜を作り現金収入を得ていたと言っていた。
現金収入は工事現場や建設会社で働き収入を得ていた。

息子は二人いて都会で働いている。2人とも高校を卒業して一部上場の会社に勤めている。
子供が素直に育ち元気に働き家庭を持っていのが親の自慢なのであろう。
息子と言っても私と同年代だった。茅葺き民家の撮影と言ってもその家の暮らしや人生を垣間見てしまう。
厳しい環境でも人々は弱音も吐かず逞しく生きてきたものだ。

石垣を積み畑を一枚一枚広げたのがその家庭の人生だったのだろう。

私の昭和鉄道遺産 その54 直方ヤード

2017年12月19日 | 私の昭和鉄道遺産
直方駅の貨物ヤードで発車を待つ9600型蒸気機関車
二台の96000型が発車を待っている。
標準レンズで邪魔にならないところから撮影。
ひっきりなしに本線を列車が走る。線路には入れない。
長いレンズがほしい。

構内だと135mmくらいのレンズでよい。
フィルムを一杯持ってきてどんどん撮っておきたかった。
ネガを見ると一.二枚撮ったら終わりだった。
老年になり自分の若い頃の生活記録がつくづく必要だと思う。
昭和30年代は歳も若くカメラも持たなかったので自分は撮影できない。
せめて40年代以降の変わりゆく風景を残して置きたかった。
写真を撮り始めてもモデルの撮影会や山の写真や個人の記念写真にカメラは使われていた。

鉄道写真でも昭和30年代に中学生から老人になるまで撮り続けている人がいる。
中学生で始めた動機、継続できた秘訣やその人の人生はどうであったのかも知りたいものだ。
自分はそれを知っても手遅れだが

懐かしい物 軒下

2017年12月18日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県旧大佐町君山

大佐町の北のはずれに君山はある。隣は新庄村だ。冬は雪が降る。
一軒だけ茅葺民家が残っていた。老夫婦で暮していた。
買い物は鳥取県の根雨町のスーパーが新見に行くより近いと言っていた。
限界集落とよばれている集落だ。
ここに20軒ばかりの集落がある。
山の上に盆地の平野があり先祖は住んだのであろう。
子供の学校となると厳しいところだ
軒下に資材や農作業に使う道具をおいてある。

蒲の穂で作った手提げが気に入った。
田舎の人は自分で手提げくらい作るのだ。
蒲の穂を二週間水に浸けて皮を腐らせる残った芯のスポンジ状の繊維で編んだものだ。
田舎の人は植物の繊維や皮から紐や衣服、紙、敷物などを作った。
昭和40年代のプラスチックが安価で大量に出回るまで続いた。

蒲の穂の手提げは道の駅などで土産品として売られている。
軽くて保温性があると作った奥さんが言っていた。




定年後のライフワーク

2017年12月17日 | 日記
定年後のライフワーク

定年後は20年は黄金の時間といわれている。
定年後はあれもこれもと夢を持っていても3年もダラダラ暮らしていたらやる気が失せて毎日散歩かゲートボールが日課になってしまう。
私が現役の時に上司のお父さんが65歳で仕事をやめて車の免許を取り全国の寺院1000ケ寺、神社を1000宮を巡ったと聞いた。四国八十八カ所、西国.秩父もめぐっている。
最初はコンパクトカメラとで撮影しデジカメが普及してからはデジカメに切り替え80歳近くで息子にパソコンを教わりパソコンで写真を整理したそうだ。
お参りは夫婦で訪れているのでいい思い出が残せたとおもう。
定年になる前から構想を練り下調べや行動を開始していないと難しい。
どんなライフワークがあるか私のリンクしている人や読者の人の撮影テーマから拾い上げてみた。

交通手段は辺鄙なところが多いので車かオートバイになる。自分が運転して探すのが基本になる。自分で運転していくのに意味がある。バスツアーなどどこをどう走ったかも記憶にないしルートなど関心もない。バスの窓からボケーと見るだけで判断や集中力や緊張感に脳は機能していない。地図を見ながら苦労して探すところに老人の脳活性に意味がある。ライフワークは苦労をして汗水たらさないと達成感ややる気が生まれない。
1000時間続けると夢中になれるという。お気に入りや読者に登録している人は夢中になり楽しんでいるとおもう。そんな人の行動を見ていると自分も刺激になる。

あれもこれもやろうと思っても病気や諸事情で断念せざる得ない
自分も車椅子生活になり車の運転ができなくなった。定年後の思い描いたことも諦めないといけない。
家内に車の運転をお願いして各地に出向いている。女も男が駄目になると根性が座るものだ。

どんなジャンルでもひとつの事に長年取り組んでいる人は多い。
何事も人生は体験である。本や映画、ネットの情報でなく歳をとって必要なのは実体験である。本やネットの知識だけで知ったかぶりするのだけはやめたい。人間の価値は体験の多さと何かあった時の対応力である。阪神大震災の時に役に立った人と役に立たなかった人のレポートがあった。統率力のある人や現場で工事をやっている人や職人などが率先して復旧に携わった。使い物にならなかったのはゲームばかりやっている若者や本ばかり読んでいて実行力の無い人と書いてあった。

みんなが熱中している老後のテーマをリストアップしてみた。

1.日本の海岸線を走破する。地形の起源と岩石を調べる。石コロ一個と砂少し採取
2.消滅集落、限界集落を巡り集落の全景、人の暮らし記録
3.日本の市町村1700箇所を巡り出会った人、風景を記録する。第一村人発見
4.日本の寺院2000箇所回る。
5.日本の神社2000箇所回る。
6.神社の狛犬3000体撮影する。
7.マンホールの蓋3000箇所撮影 マンホールカード蒐集
8.日本のダム探訪 ダムカード蒐集
9.天然温泉巡り500湯以上
10.巨木巨樹1000本以上撮影
11.日本の城、城跡1000箇所めぐる
12.鉄道路線、私鉄も含めすべて撮影、駅2000駅撮影、現行の電車、機関車 路面電車撮影
13.日本の漁港を1000箇所訪れる、東日本大震災で小さな魚港の写真を撮っている人少なかった。
14.各地の市場を訪れる 農産物、海産物市場500箇所
15.各地の美術館、博物館、郷土資料館巡り500箇所
16.各地の石仏を2000体以上撮影
17.日本の川、河口から上流まで訪れ撮影300箇所
18.各地の公園、遊園地巡り500箇所
19.各地の図書館巡り300箇所
20.各地の道の駅に立ち寄る1000箇所
21.各地の団地巡り500箇所
22.木造の古い民家を撮る1000棟
23.古い街並み昔からの集落を巡る
24.池、湖沼を訪れ起源と特徴を調べ撮影
25.鉄橋、橋を撮影する。山の吊り橋を撮る
26.日本の造り酒屋を訪れる1000箇所
27.各地の場末の飲み屋街を訪れ撮影
28.日本の火山を訪れる
29.各地の街路樹を撮影、木の種類500箇所
30.旧街道を歩く訪ねる、宿場町を訪ねる
31.全国の桜の名所、桜並木を撮る500箇所
32.日本の花公園、花の名所を訪れる500箇所
33.白砂青松を訪れる300箇所。
34.紅葉の名所を訪れる300箇所
35.離島を訪れ集落、民家や暮らしを撮影
36.日本のフェリー連絡船を撮影
37.茅葺民家3000棟撮影
38.レトロな建物2000棟撮影
39.近代化建造物1000棟撮影
40.古い旅館1000箇所撮影
41.郵便局のスタンプ  駅のスタンプ 道の駅のスタンプ サービスエリアのスタンプ 観光地のスタンプを押す
42.廃墟 廃坑の撮影
43.棚田を1000箇所訪れる
44.日本の各地の蔵、倉を1000棟撮影
45.半鐘や火の見櫓1000箇所撮影
46.自然の残る水路、昔からの水路を巡る
47滝巡り渓流巡り1000箇所
48.給水塔を巡る、上水の給水塔は撤去されている。
49.全国女子高生の制服姿撮影
50.全国のコンビナート、工場群撮影
51.屋敷林、生垣を撮影
52.日本庭園.公共、寺院.個人の家撮影
53.石垣を撮る、城、民家基礎、川の護岸、棚田、山間地段々畑、港湾護岸、風除け



茅葺き民家 クド造り

2017年12月17日 | 茅葺き民家
撮影場所 佐賀県白石町

クド造りを裏から撮影した民家。クドはオクドさん(かまど竈)のような形に似ているからこの名がついたそうです。
家の正面は特徴がないが裏に回ると形の違いに気づく。裏なので物が雑然と置かれている。
佐賀県では沢山の茅葺き民家が残っていいたが段々と姿を消している。
茅葺き民家は耐久性きが無いので痛みだしたら劣化が早い。

佐賀県には柿の実のなっている頃に行ってみたい思っていたが今年もかなわなかった。
九州は余りデジカメで撮っていない高画素のカメラで残っっている間に撮りたい。
死ぬまでに九州でもう一度撮りたいものだ。

初めて佐賀に行った時は佐賀平野を見渡すと転々と茅葺き民家が見えた。
長崎本線沿線にも茅葺民家はあった。

日本茅葺紀行 NO,413 福井県旧名田庄村

2017年12月16日 | 日本茅葺紀行
ブログを見ていると名田庄村に茅葺民家が残っているようなのでデジカメで撮影にいく。
二度来ているがどのあたりに茅葺民家があったか詳しいところは記憶が薄れている.
フィルムスキャンしたデーターもフィルム毎のまとめでなくCD.DVD毎のナンバーリングで探しにくい。いまからやり直すにしても6年はかかる。自分の寿命の事もあるしやる気がしない。
名田庄村のはずれに納田終(のだおえ)という地名がある。こに何軒か茅葺き民家があった。
名田の終わりがこの地名の由来だそうだ。神社に奉納する米がこれ以上奥では穫れないの意味かと思った。
ここは京都府の美山町に隣接していて小さな峠を越えて下ったところだ。
一番奥の集落にも二軒茅葺きがあったと思うのだが人の住んでいない民家が一軒残っていた。
いずれこのあたりの民家も消えて行くことであろう。

集落の一番奥に茅場があり以前来た時は神社の葺き替えに使う茅を集落の村人がでて刈り取りをしていた。




勿体ない

2017年12月15日 | 日記
通っている介護施設で商品宣伝にPR物品をもって説明会があった。
ヤクルトなどもサンプル商品をもってやってきたことがある。今日は老人にはタンパク質の摂取が必要との事で試食があった。
プラスチックのコップとスプーンが各人に配布された。
私の前の91歳の女性は食べたあとそのコップとスプーンをテッシュで拭いてテッシュに包んでいた。
持ち帰るのだろうと思ったが聞いてみた。

勿体ないので捨てられないという。
戦中戦後のモノ不足を体験した者のには捨てるのは悪の精神が定着していて捨てられない。
その女性も持ち帰っても嫁に見つかったら知らぬ間に処分されているそうだ。

私の母も家内の母も紐や包装紙、袋の類を沢山保管していた。
母の大事に保管してた物の9割はいらない物だろう。
新聞の広告の裏が印刷されていない白い紙も保管していた。
その広告の裏で封筒を作り広告の裏に書いた手紙を送ってきた事がある。
親子と言え広告の裏の手紙はないだろうと家内に話した事がある。
子供の頃の紙は粗悪であった。白い紙は高く馬糞紙と言われた紙もあった。チリ紙も今のトイレットペーパーのように白くなかった。
プリンターの用紙など500枚で280円位で売られている。電子通信機器が発達しているのにこんなに大量の紙を使っていいのだろうか思う。

家内の父親は戦後に戦地から帰還する時にアルミの鍋を持ち帰った。
煮炊きするのに鍋で困っているのではないかと思ったのであろう。
その粗悪なアルミ鍋は義父が亡くなるまで捨てずに残っていた。

会社勤めをしている時の上司は「整理とは捨てる事なり」という人であった。
帰る時に机の上に書類を残すな山積みにしているやつは仕事が出来ない者とよく言っていた。
会議の議事録も会議中に書き終える人であった。文章は簡潔にA4一枚にまとめる事と言っていた。自分はその教訓も実践できず言葉だけが記憶に残る。