みちくさ茶屋

いらっしゃいませ。どうぞごゆるりと。

「森に眠る魚」感想

2012-06-29 | book
「森に眠る魚」角田光代著

このところ、面白そうだと思った本がことごとくハズれていたのですが久しぶりに読み応えのあった小説。今回はネタばれなしです。

簡単に言うと、主婦5人の「お受験」をめぐる不協和音のお話です。

最初、誰がどういう環境でどの子供とセットだったか混乱してしまい、メモ用紙にそれぞれのプロフィールを書き出して、照合しながら読みました。

少し読んだだけで、「あれっ、これ、去年やってたドラマ『名前をなくした女神』にそっくりじゃ?」と思ったのですが(本のほうが先に出版されている)、ドラマとは関係がなく、1999年の文京区幼女殺人事件がベースになっているようです。

蛇足ですが、ドラマが放映されているときに、読者から「この小説のパクリじゃないか」と騒がれていたらしい。角田サイドは特にアクションは起こさなかったみたいですね。
でもまあ、「お受験」「ママ友」をテーマにしようとすると、キャラ設定がどうしても似てしまうのかも。


私は「お受験」とは今のところ無縁ですが、お受験しなくてもこういうママ友関係の亀裂はあるぞ、と思います。
こういう小説やドラマが「お受験」をワルモノにしちゃってるかな、という感が。


さておき、ストーリーはかなりドロドロです。
5人の女性のうち、自分は誰にもあてはまらないし、ここに出てくる人、誰とも友達になりたくない。

なのに!
そう思うのに!

5人全員の心の動きに「あー、わかるわかる」と共感できてしまう不思議。
このあたりが、さすが角田さん。
きっと、性格や生活レベルとは関係なく、母親なら誰もがこっそり隠し持ってる感情なんだと思う。


終盤で、突然、名前ではなく「彼女」という主語で数ページの描写があり、ここがちょっとわからなかった。
「彼女」がひとりなのか数人いるのか、それとも誰でもないのか、あの事件のことを言っているのか?
ここは読者に投げた感じ?
投げられるの得意じゃないんだよなー、受けとめるの下手だから。


ラストは、なんだかチャチャチャっとまとめられてしまって消化不良でしたが、とりあえず見ようによってはハッピーエンド……ともとれる…? うーん、どうだ?
子供たちのすこやかな成長を祈るばかりです。


ベランダのカマキリ

2012-06-22 | kid
こうたろうの昆虫好きは、保育園のころから皆に知られるところである。
中でも、好きで好きでたまらないのがカマキリ。
獰猛な強さも、メカっぽいフォルムも、心を捉えて離さないらしい。
図書館に行ってもカマキリとつくタイトルの本ばかり探している。

カマキリに限ったことではないけれど、こうたろうはよく虫をつかまえてきてしまう。
私もいろいろ学んだ結果、「ひと夏にバッタ5匹まで」という制限をつけた。
トンボや蝶、蝉など、羽のあるものはダメ。籠の中で飛べないなんてむごすぎる。
そもそも、自然界の生物を捕らえて狭い箱に閉じ込めておくというのが私には盛大に不本意なことで、バッタも本音を言えば歓迎しないところなのだが、男児の昆虫に対する好奇心をふさいでしまうのは親のエゴかもしれない。
なので、申し訳ないけれどバッタには来ていただくこともある。
バッタは飼育が比較的簡単で、意外に強い。エサもそのへんに生えている葉っぱでいい。

話を本題に戻して、カマキリである。
カマキリはとても飼育が難しい。
なんといっても肉食で、生きている虫しか食べないのだ。
こうたろうが立派なカマキリを「明日の朝逃がすから、今日だけお願い」と持ってきたことがあって、何を与えたらいいのか考えあぐねた。
ネットで飼育方法を調べてみると、「ペットショップにタランチュラ用のショウジョウバエが売っています」とか、「外にバナナやリンゴを置いておけば自然に虫がわきますので、それを与えましょう」とか、読んでいるだけで「ひー」と青くなってしまうような記述ばかり。
「ハムやするめを糸で吊り下げてブラブラ揺らすと、生きた虫と間違えて、飛びついて食べます」というのもよく載っており、こうたろうとふたりでやってみたのだが、我々の演技力が足りなかったのかダメだった。

よって、そのときこうたろうは、飼っていたバッタを与えたのである。
かわいがっていたはずのバッタは瞬時にエサと変わり、カマキリはまるで猿がバナナを食べるように、バッタを縦にして頭からもりもり食べた。
こうたろうはそれをすごく興味深そうに見ていて、私も実は、バッタがかわいそうとか、カマキリがひどいとか、気味が悪いとはぜんぜん思わなかった。
これが自然界で、私たち人間もやっぱり自然界の一員で、このようにして生きながらえている。

ただ、あまりにも素敵すぎるせいでこうたろうがいじりすぎてしまったため、カマキリは翌朝にはぐったりとしてしまっていた。
外に放したものの、学校から帰って見たら同じ場所で死んでいたらしい。
以来、カマキリも、うちは持ち帰り禁止である。

……だったのだが、おととしの冬、こうたろうはカマキリの卵を見つけて持ち帰ってきてしまった。
ひとつの卵から何百匹も生まれるのだ。生まれたら逃がすんだよ、とは言ったものの、実際そうなったらこうたろうが素直に外に放すとは思えなかった。
ベランダの植木の、土のところに卵のついた枝をさし、どうしたもんかなあ、と初夏を迎えたが、果たしてカマキリは生まれなかった。
不発に終わることもあるんだね、もう出てきた後の卵なのかもね、と、植木に枝ごとさしたまま、時が過ぎた。

そして数日前のこと。
ベランダのシンクに、1センチくらいの茶色っぽい小さなカマキリを見つけた。
まさか卵が孵ったのかと確認したが何もついていない。
どこかからやってきたんだな、こうたろうに見つかるなよ、と思いながら放置した。
翌日、リビングの壁にそのカマキリが止まっているのを発見してびっくりした。
たまたま私だけだったので、「こらこら、入ってきちゃダメだよ、つかまえられちゃうよ」と、そっとティッシュにとってベランダに出た。
どこに放せばいいのかなあときょろきょろしていたら、なんと、手すりに2匹いるのである。
あれっ、昨日と同じカマキリじゃなかったんだ!他にもいたんだ!と驚愕し、もう一度卵を見てみたがよくわからない。とりあえず、また放置。

そしてさらに次の日、卵からたくさん赤ちゃんが出てきているのを見た。やっぱり、この卵が生きていたのだ。
黄緑色で、目だけ黒い。大きさは50ミリくらいで、意に反するところだがかわいい。
100匹くらいいるだろうか。しかしその大半は土に埋もれかけて死んでいる。
運が良くて身体が強いヤツが何匹か、顔をこちらに向けた。
カマキリって、その年に孵るとは限らないだなとか、何回かに分けて出てくるんだなとか、この中でちゃんと生き残るのって選ばれたヤツだけなんだなとか、私はしみじみと観察して感嘆した。

私はゴミの袋から前日に食べたプリンのカップを取り出し、中をゆすぎ、ティッシュをしいた。そこに赤ちゃんごと卵を入れて、またティッシュでそっとふたをする。
そして近くの公園の、なるべく草が多くて人目につかないところに放した。
あとは、自力でがんばって生きていってください。

家に戻り、ベランダをくまなく見ると、4匹のカマキリがいた。
一見、大きめの蚊か蜘蛛みたいな感じ。よっぽど目をこらさないとカマキリとは思えない風貌なのに、いっちょまえにカマをふりかざしている。
よくよく見れば、微妙に大きさも腹の長さも違う。
私は、一郎、次郎、三郎、四郎と名づけ、彼らの行く末を見守っている。
うちのベランダなんて、エサあるのかなあとも思うが、ここまで育ったということはてきとうに小虫が飛んでいるんだろうし、エサがなければ共食いもするらしい。
共食いされても、こうたろうにいじられてプラスティックのケースの中で生涯を終えるよりはそのほうが数倍いいだろう。
もしこのまま大きくなって、こうたろうに見つかってしまったら、そこはまあ、運のつきだ。そのときは、なるべく早急に外に逃がすよう言い聞かせますので、少しの間よろしくたのみます。


「終末のフール」感想

2012-06-06 | book
 「終末のフール」伊坂幸太郎

前述の「世界の終わりの物語」のパンフレットに、おすすめ本として掲載されていた小説です。
図書館にリクエストしたらすぐきて、すぐ読了。


伊坂さんは仙台在住の作家さん。
震災後もご無事で、仙台で小説を書き続けている。

この小説は、「8年後に地球に小惑星が衝突して地球が滅亡する」と
告知された人々の「5年後」が描かれている。
つまり、「あと3年」で世界が終わるというところ。

告知のあとの大混乱…食べ物を争って奪い合い、買い占めようとする人々。
来ると予想される大洪水(という表記だったけれど、まぎれもなくこれは津波のことだ)に向けて、高いところに櫓を作ろうとする老人。
選ばれた人しか入れないというシェルターの勧誘。

いったいいつ作られた話なんだろうと奥付の初版を見たら
2006年3月だった。

仙台で暮らし、あの話を紡ぎ、5年後に311を体験するって
どんな想いだったのだろうと思う。

311以降、この小説を初めて手に取る人は、
誰もがある種のリアリティをもって読んでしまうだろう。


なのに、この小説は、状況に反して決して重いものではない。
大パニックがひとまず落ち着き、生き残った人々が、「あと3年」を
おおむねわりと「ふつう」に過ごしている。
そんなものかもしれないなと思うし、自分だったらどうかなと想像もした。

この本は、8つの短編の連作になっていて、少しずつリンクしている方式。
「篭城のビール」「冬眠のガール」「鋼鉄のウール」というように、
まるでハライチのギャグみたいにタイトルが並ぶ。

8つの物語はそれぞれにそれぞれの「いいぶん」のようなものが伝わってきて、
何が正しいとか間違っているとかではなく、
「どうすれば気がすむのか」ということにスポットが当たっている気がする。

私がとりわけ好きなのは「太陽のシール」と「演劇のオール」。
「太陽のシール」は、長年ずっと不妊だと思っていた夫婦に、子供ができる。
あと3年で終わるという世界で、出産するか否か? この奥さんが魅力的。
「演劇のオール」は、女優をめざしていた女の子が、近所の住人の
孫になったり母親になったり姉になったりして、「役」を演じる。
これがいちばん好き。オチがちょっと、イマイチなのが残念だったけど。


「8年後」っていうのも、長いのか短いのか。
案外、実感のわかない年数だと思う。
「8年あれば、なんとか回避する方法が見つかるんじゃないか」って
希望を持てそうな気がする。

あと、同じように「あと○年」と余命を宣告されるにしても、
「地球が終わる」のと「自分だけが死ぬ」というのとでは
ぜんぜん違うよなぁと思った。
自分がいなくなってもこの世界が変わらず続いてく場合と、
いっぺんに全部がなくなっちゃう場合とでは、
余生の生き方も変わってくる。
簡単にいうと、何かを残すか残さないかという点で。

小説の終盤、「あれっ、もしかして地球は滅亡しないのかな?」と
思わされる箇所が少しあり、そのあたりは読んでいただきたいのだが、
誰がどんな予報をしようとも、結局のところ未来は決まっていないんじゃないかなと
シンプルに思う。…というのが私の感想です。