細野豪志ブログ

衆議院議員 細野豪志の活動報告です

共同体

2010-11-20 21:51:49 | 沈思黙考
このところ、私のテーマの一つに「共同体」があります。

明治以前、わが国には、農村には農村の、都市には都市の共同体がありました。農村においては、農作業を共同で行うために、都市では、信仰や講や無尽を通じて、共同体は形成されてきました。明治以前の人々は、共同体の中で生きており、国家を意識することはほとんどなかったのでしょう。

明治に入り、農村から都市への人口移動や徴兵を通じて、農村の共同体は変質していきました。都市部においては、廃仏毀釈を通じ宗教的な共同体は崩れ、農村からの人口流入によって、地域的なつながりが希薄になっていきました。その過程は、中央集権的な近代国家の構築とも重なります。

もちろん、明治に入ってからも、共同体が完全に崩壊したわけではありません。その例が京都に見られます。先日、私は京都の番組小学校の跡地を訪れてきました。写真はその一つ。京都国際マンガミュージアムです。

京都では、学制が導入される前の明治2年。旦那衆にって、番組小学校がつくられました。敷地も建物も、地域住民が経済力に応じて負担した「かまど金」によって賄われ、設計も旦那衆によって行われました。さすが京都と唸ったのは、昭和初期に建てられた現存している校舎に、茶室や作法室がつくられていたことです。

廃校になった番組小学校は、今では、京都国際ミュージアムや京都芸術センターなどとして有効に活用されています。地域の住民の拠りどころとして、利用されています。私も、両施設を連合町内会長さんにご案内頂きました。

小学校というのは、共同体の核となる施設として最も適しています。

平成に入り、地域の核の施設として小学校を活用する動きが出てきています。9月に、私は、三鷹市の第四小学校のコミュニティスクールを見学してきました。第四小学校では、学校の警備、図書館の管理、授業のサポートにも、地域住民が参加しています。三鷹のような都市部においては、学校を通じて地域のつながりが強くなっているとのことでした。

学校にとっても、メリットがあります。第三者のサポートを得ることで、先生の授業の質が格段に上がったということです。総合学習において、一流の講師や地元の特産品を取り入れることもできます。先生と生徒、保護者との中で閉ざされた学校から、地域に開かれた学校への転換です。

共同体は、地域ごとに単独で存在するものではありません。むしろ、複数の共同体が存在する多様性、重層的が必要です。小学校だけではなく、鎮守の森や祭り、現代においてはNPOも重要な共同体の担い手になりえます。

これまで、地域社会という言葉は頻繁に使われてきましたが、ある種の復古的なニュアンスを含む共同体という言葉は、敬遠されてきました。私は、最近、むしろ復古的な意味も込めて、共同体という言葉を使うべきではないかと感じるようになってきました。

明治以降、国家と個人が正面から向き合った結果、今や砂のようなもろい社会となってしまいました。国家はどんどんお節介になり、国民はどんどんわがままになってきました。その中で、果たして人は幸せになったでしょうか?「共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる」「自分の存在が共同体と一体になっている」(内山節著「共同体の基礎理論)のと、どちらが幸せでしょうか?

鳩山前総理が提唱した「新しい公共」は、単なる税制優遇を意味するのではなく、新たな社会づくりへの挑戦です。中央集権的な国家運営を続けて140年以上。しなやかな、真に強い社会づくりに勇気を持って漕ぎ出す時期を迎えているように思うのです。


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