今年5月に小諸で高橋平四郎さんのところに保存してあった堅曹さんの名刺を
見せていただきました。(ブログ←クリック)
多分、明治10年(1877)か、11年(1878)に会ったときのものです。
日本で最初に洋紙がつくられたのが明治7年(1874)だと知り、
まだ作られ始めたばかりの洋紙で名刺を作ったんだな、と思っていました。
ところが先日、山梨県出身で明治時代「投機界の魔王」ともいわれた実業家
雨宮敬次郎(1846~1911)の回顧録 『過去六十年事蹟』 を読んでいたところ、
そこにこんな文章が・・
今度は通弁を連れて行って欧羅巴で作った名刺を出して
「主人に会いたいから会して呉れ」と申し込んだ。
彼は明治9年(1876)、ちょうど堅曹さんがフィラデルフィア万博へ行ったのと同じ時に、
同じルートでその万博に行き、そしてヨーロッパへまわり、イタリアに蚕種を売りにいっている。
それは結局大失敗に終わったけれど、貧乏旅行でとにもかくにも世界一周をして帰ってきた。
帰国後ちょうど明治10年(1877)、上記の引用のように、
横浜の居留地で、それまでは商売しようとおもってもなかなか西洋人に直接会えなかったのに、
世界を見てきて度胸がつき、一張羅のフロックコートを着て金時計をさげ、通訳を連れ、
外国でつくった名刺を出して、直接会いたいと交渉した、ということである。
まあ、なかなか面白い。
この交渉はみごと成立し、商売は大成功します。
当時はこんなものだったのかもしれない。
そこで、名刺です。
堅曹さんの名刺、アメリカで作ってきた物じゃないか、と思った。
アルファベットの名前だけが印刷されているのです。
しかもすごく精緻な筆記体。
日本語の住所や名前は青いインクのはんこで押したものです。
ということは外国でつくってきた名刺の裏に、帰国後
日本語の名前と住所をはんで押して使っていたと考えられないでしょうか。
同じ名刺類のなかに新井領一郎の名刺がありました。
彼は明治9年(1876)よりニューヨークに永住しており、時々仕事で帰国していました。
その時使ったものです。
おなじような英文の名前だけの名刺で、日本語の名前は手書きです。
堅曹さんの名刺とアルファベットも紙質も似ています。
堅曹さんはきっと明治9年(1876)にフィラデルフィア万博に行った時、むこうで名刺を作ったのだと思います。
あの名刺はアメリカ製だと確信をもってきました。
小諸で資料を見せていただいた後、高橋平四郎のご子孫からお手紙をいただきました。
その中に次のような一節がありました。
資料の中では名刺などよく保存しておいたものと感心しましたが、
速水堅曹様から曽祖父がこれを頂いたときは新しい時代の波に向い会ったものと
さぞ感激昂奮し、その感激をしっかり残そうとこの名刺を保存していたものと想像され、
私も大変感銘いたしました。
まさにその通り、
たった一枚の名刺でもきっと新しい時代の息吹を感じさせた、そんな時代だったとおもいます。