堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

庄内研修旅行① 松ヶ岡開墾場

2009-07-13 23:50:40 | 旅行記

7月9日10日と富岡製糸場世界遺産伝道師協会で山形県へ研修旅行に行ってきました。

山形といっても場所は鶴岡市と酒田市です。

どうして世界遺産活動で庄内なの?ということですが、


時は明治4年までさかのぼります。

庄内地方は庄内平野で有名な米どころで、元来養蚕や織物が盛んな土地ではありませんでした。

豊富な農作物を北前船にのせて京都へ届け、その帰りに京都の呉服をもってきて織物は間に合ったということです。

それが明治維新となり、庄内藩が解体され、藩士の授産として養蚕はどうだろうかと考えたのが

群馬県とのつながりがはじまったきっかけです。


養蚕をして当時破格の値段で海外に売れた蚕種をつくり旧藩士たちの生活基盤をつくりあげようとしたのです。

そこでまず養蚕をする場所を開墾することからはじめました。


明治5年から2年間、3000人の士族が原生林を開墾するために数千本もの松の木を切り、

体を使って311haの土地を耕し、桑の木を62万5千本も植えたのでした。

そして養蚕の先進地区であった群馬県の島村に17名が研修にいきました。

70日間泊り込みで養蚕の仕方を一から習い、帰郷後島村と同じ養蚕農家を造り、養蚕をはじめました。

そして苦闘の連続だった開墾も3年目にはやっと蚕種がとれ

800枚の種紙となり初めて横浜に出荷できたのでした。

それはそれはたいへんな事業でした。


その地は「松ヶ岡」と名付けられ、結局養蚕農家は10棟も建てられたのです。

その後、養蚕で作られた繭を糸にするため器械製糸場をつくり

富岡製糸場の一等工女が指導にきました。

このとき工女を派遣したのは、富岡製糸場長をしていた速水堅曹だとおもわれます。

その製糸場が現在日本にもう2ヶ所しかない製糸場のひとつ、松岡株式会社です。

次はその糸を織物にしようと、こんどは群馬の桐生に織物の修行に行き、

それが輸出用絹織物の「羽前羽二重」となります。


そうやって10年20年かけて庄内藩士授産は軌道にのっていきました。

その養蚕農家が130年以上たった現在、5棟が立派に残っているといいます。

そこで今回は養蚕農家のある松ヶ岡開墾場と松岡株式会社を見学に行くことにしました。




前置きと研修の目的はこのくらいで、さて9日の朝7時に前橋に集合。

島村蚕種の会の方との合同研修だったので、両方あわせて30人ほど。

大型バスで一路鶴岡を目指します。

バスは座席が3列でゆったりしていて足置きがあったり、両方に肘掛がついていたりと、

長時間の乗車に少々窮屈さは覚悟していたのですが、とても快適でした。


天気はあまりよくなく、雨が降ったりやんだり、湿度はたかくて、まさに梅雨。

関越自動車道から新潟にでて日本海を左手にみながら海岸線をずっと走ります。

海は穏やかですがどんより曇り空。


Cimg8659_2  海岸線より見える日本海と粟島


Cimg8655_2  昼食は村上市の岩船港で


太陽は顔を出していないので、今晩の宿で夕日を眺めるのは望み薄です。



結局7時間ほどバスに揺られ、ようやく午後2時過ぎに鶴岡市内を抜けて松ヶ岡開墾場に着きました。

原生林を切り開いてつくられた大型養蚕農家群てどんなんだろう、と近づくにつれ期待がたかまります。

到着しました。


Cimg8663_2  バスの中から


おお~!

勇壮な養蚕農家が目に入ります。一棟が大きいです。


Cimg8670_2   4番蚕室


Cimg8675  4番蚕室



敷地の真ん中に桜並木がありその両側に整然と農家が並んでいます。


Cimg8744  桜並木


Cimg8673_2  案内図


これは由来からして、養蚕農家という形をとっている養蚕工場という建て方です。

群馬をはじめ各地の養蚕農家というのは、全くの個人が養蚕を営むために自宅をそれに適した形につくっているものです。

ですから大きな敷地に全く同じ形の養蚕農家が均等にならんでいる、などというのはきっと全国でもここだけではないでしょうか。



さて、それらの農家群を見ながら桜並木の道をすすみ、

一番奥にある「松ヶ岡開墾記念館」となっている1番蚕室に行きました。


Cimg8683  1番蚕室「松ヶ岡開墾記念館」


ここは一番最初に建てられた建物で、このときは鶴岡城をこわした材料を持ってきて建てたので、

10棟のなかでも一番いい材料が使われているそうです。

大きさは間口21間(37,8m)、奥行き5間(9m)です。


中にはいりました。

おおきな土間があり、一階は歴史をたどる資料が展示されています。

鶴岡織物組合理事長の田中氏の解説をききながら資料をみていきました。


Cimg8702  一階で説明を聞く


何枚も古写真があります。

なんとまさに藩士たちが髷をおとしたザンバラ頭で、農民の格好をして一生けん命、

鍬を手に開墾をしている写真がありました。


Cimg8694  開墾をしている写真


Cimg8697  開墾をしている写真


皆、若い青年達、なかには少年といえるぐらいの子供もまじっています。

身なりはまずしいが決して悲壮な感じがせず、新しいことに挑戦しているという

エネルギーと希望に満ちた顔をしています。


そしてまたこの松ヶ岡の開墾が成功したのを知り、明治8年北海道開拓使長官の黒田清隆から要請をうけて

北海道の開墾に200名もの庄内藩士が指導に行きます。

その北海道での写真があり、全員なんともいえない自信に満ちたいい顔をしていました。

惚れ惚れとするくらいです。

まさに明治の黎明期を感じさせる写真でした。

古写真好きには、この一枚の写真をみれただけでもここにやってきた甲斐があったとおもいました。



そんな資料をみて、今度は2階にあがります。

こちらでは土人形が展示されていますが、中の構造や屋根裏の具合が見ることができます。


Cimg8716  2階


柱はお城の廃材をつかっただけあって、立派なものです。

真ん中に柱がずっととおされ、天井はトラスのようになっています。


Cimg8713_2


Cimg8711  真ん中の柱


床板なども今までみてきた養蚕農家のものと比べると、とてもしっかりしたものでした。


Cimg8734  一階の床


Cimg8719 階段を上がったところ


3階ははしごをかけて上がるようになっていました。

ここは雪国のため天窓にはしっかり板がはれるようになっていて、明かりが差しこんでいません。


Cimg8720  天井


また雪のための補強として一階の庇の骨にすべて柱が立てられています。

とにかく大きく頑丈なつくりの内部でした。



さて、こんどは2番蚕室「一翠苑」のなかの侍カフェに行き、そこで藩主酒井家18代目の酒井忠久氏と

資料館でも解説をしてくださった田中氏からお話をうかがいました。

松ヶ岡の歴史を実にわかりやすく、そして現在この遺産をどのように活用しているかなど

説明してくださいました。


Cimg8681  2番蚕室「一翠苑」


Cimg8743  「侍カフェ」にて18代目と19代目



この残っている5棟のうち一棟は今見学した資料館、もう一棟はこのカフェと展示スペース(写真展と織物展をしていました)。


Cimg8741  写真展の様子


あと2棟は鶴岡が藤沢周平の出身地で彼の小説を舞台にこの庄内で多くの映画が撮られていることから、

映画関係のスペースとしてつかわれています。


Cimg8679  3番蚕室「庄内映画村株式会社」


Cimg8747  5番蚕室「庄内映画村資料館」


あと一棟、4番蚕室はこれから改修をするそうです。

真ん中の桜並木では毎年クラフト展が開催され、それだけで3万人もの来場者があるそうです。

そういったイベントや利活用はとてもうまくいっているようにおもいました。

そして若い人たちのセンスがそこかしこに活かされています。

そういえばまだ若い酒井家19代目はカフェでコーヒーをいれてくれました。


時間があれば全部の棟を見学したかったです。

名残惜しく開墾場を後にしました。

つづく。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿