gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

和田誠『五・七・五 交遊録』その1

2011-08-30 06:23:00 | ノンジャンル
 先日、「ムーミンと仲間たち」展を見に山梨県立美術館へ、その後、昇仙峡へも行ってきました。前者では、ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの数々の写真や魅惑的なムーミンの原画、そして第二次世界大戦時に彼女の母国フィンランドを侵略したソ連への批判などを含めた風刺画を見て、彼女のトータルな世界に触れることができ、また後者では、自家用車で楽しめる渓谷美と、その先の「石門」や見事な仙娥滝、そしてそのまた上流の荒川ダムの奥の秘境「板敷渓谷」にある、これまた見事な大滝を見ることができ、大満足でした。秋には母を連れて昇仙峡を再訪し、紅葉の渓谷美と、今回は行けなかった昇仙峡ロープウェイ、影絵の森美術館を訪れようと思っています。

 さて、朝日新聞で紹介されていた、和田誠さんの'11年作品『五・七・五 交遊録』を読みました。折々に読まれた俳句と、それについて説明する文章によって綴られた著者の半生記、及び交遊録です。
 第一部では、著者がこの本を出すまでの半生記が書かれています。
 著者の幼い頃、著者の親戚の有志は俳句の会を作っていました。それも一堂に会して句会を開くというのではなく、持ち回りの幹事が兼題と締切の日を決めて、それに従って同人は句を読み、幹事の家に五句ずつ送り、幹事は全員の句を無記名でバラバラに並べ、謄写版で刷って綴じ、同人の家に送り、9つの家族からなる24人の同人がそれぞれいいと思った七句を書いて幹事に送り返し、幹事はそれを集計して順位と作者を発表する「選句集」を作って同人の家に送るというものでした。これが月一回行われ、著者は昭和17年に発行された1年分の冊子を発見して、記憶が確かだったことを知ります。そこにはまだ6才だった著者の句が「特別寄稿 雑詠六句」として掲載されていて、その一つは「シロサイテ アカハツボミノ アザミカナ」という写生句でした。句会の同人は著者の母方の親戚に限られ、父方のほうは教員とか僧侶とかいった堅物ばかりでしたが、著者の父は築地小劇場の創立メンバーで、音響効果担当だったため、後にNHKでラジオドラマの演出も手がけ、母方の親戚と付き合うほうが気がおけなくて好きだったようだとのことでした。戦後著者が預けられた母方の祖母は、よく著者を寄席や歌舞伎に連れていってくれ、その祖母の若い頃の連れ合いは文庫本を最初に売り出した人でした。回文や「江戸しりとり歌」といったものを著者に最初に教えてくれたのも母方の祖母で、その祖母の一番下の妹の連れ合いが俳句の好きな趣味人だったりと、母方の親戚は軟派系というかエンターテイメント系だったのでした。
 著者は幼い頃から創作意欲旺盛で、高校の頃はパロディに凝ったりしました。勉強は全くできませんでしたが、高校の世界史の小沢先生が、著者が試験の答案の裏に描いた試験官の似顔絵に点をくれ、それによって著者は勇気づけられます。小沢先生は海軍の一員として戦争で悲惨な体験をくぐり抜けてきた方でした。
 多摩美の図案科(今でいうデザイン科)を卒業し、デザイン会社ライトパブリシティに入社した著者は、その4年後に編集者であり企画者でもある矢崎泰久さんと知り合い、やがてアート・ディレクターとして彼の企画した雑誌『話の特集』で仕事をすることになります。その時に著者がその仕事に引き込んだ仲間は、イラストレーターの横尾忠則、宇野亜喜良、山下勇三、カメラマンの立木義浩、篠山紀信という、今考えると錚々たる面々。文章を永六輔さんに頼むと、彼は小沢昭一さん、黒柳徹子さん、渥美清さんを紹介してくれ、創刊号の読者カードに感想を書いて送ってくれた植草甚一さんも後に執筆陣に加わります。矢崎さんが獲得した執筆者は小松左京、野坂昭如、栗田勇、寺島修司、井上ひさしといった面々でしたが、中でも麻雀小説でメジャーになっていた阿佐田哲也さんを純文学の色川武大として復活させた矢崎さんの功績は大きいと著者は書いています。(明日に続きます‥‥)

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

最新の画像もっと見る

コメントを投稿