また昨日の続きです。
・「『キリストが大統領でもアメリカに帰らない』(セドリック・ベルフッジ〈チャプリン会見記〉『中央公論』1956年2月号)、と映画公開の前年の1956年、アメリカからの亡命者とのインタビューの中で刺激的な発言をしていたが、そのインタビューを読んでも、映画と同じようにもうひとつアメリカへの批判の的がしぼりきれていなかった。このインタビューでチャプリンは、アメリカが豊かさの陰で家族や隣人愛が崩れてきているとして、子供への影響をとくに心配していた。たしかに、ややエキセントリックであったが、映画(『ニューヨークの王様』)にはそれがあふれていた。大げさに言わなくても、やがてそのことが20世紀後半の先進国心理となり、映画のバックグラウンドとなっていく。高度経済成長が生産と雇用と消費などの生活の有り様を根底から変えてしまった。拡大された『モダンタイムズ』の到来である」
・「アメリカの高度経済成長の後ろ側で、人と人との結びつきが空虚になっていくというコミュニケーション不在(ディス・コミュニケーション)社会の到来を鋭く見抜いていた」
・「インタビュアー『そういう点で現在の映画傾向である七十ミリの大型映画をどう思いますか?』
チャプリン『大きらいだ。大型スクリーンは映画の緊張度---いわば、観客の興味のボーカル・ブレーン(焦点面)を殺してしまう。映画の美しさとは、ひとつにはある広がりを
一点に集中させるという、“サイズ”のなかにあると思う。その“サイズ”には限度があり、それをこえると芸術性が失われてしまうのだ』」
・「インタビュアー『原爆をテーマにした映画をつくるという噂がありますが、また広島へいくのですか?』
チャプリン『旅行の目的は前にも言ったとおり。もちろん、原爆には大きな関心をもっている。原爆には絶対反対、ぼくは平和を愛する男だ。だが、広島については、すでに山ほどの文学作品に書かれてしまったからね』」
・「女将の畦上輝井(てるい)はチャプリンの心境にふれている。
『チャプリンさんは冷房が大きらいだということでしたので、冷房を停め、窓を開放してお迎えしました。箸を左手にもって、とても器用にすき焼きを召し上がり、日本酒をお飲みになり、琴、長唄に続いて、日本舞踊をごらんにいれました。純日本式のものを、ひどく喜ばれたようです。(中略)琴で〈春の海〉をお聞かせしたら、アンコールされまして、〈鶺鴒(せきれい)〉をやりました。本当に熱心で、耳を澄まして聞くという言葉がぴったりするほどでした。帰りにお言葉をうかがったんですが、『この前来たときと違って、いまの日本はヨーロッパの文化ばかり入って悲しい。でも、ここで純粋な日本文化に接することができた」とおっしゃってくださいました』」(後略)
・「24日、左京区御陵の下町龍安寺へ。
(中略)百二坪の庭園がなんといっても著名。三方は杮葺(こけらぶ)きの土塀、白砂に七、五、三と十五の石を配しており、海と鳥の象徴という。蔵六庵という草庵風の質朴な茶室に座った。
チャプリンは、お茶をだす娘の一挙手一投足をみて、
『優雅だ。そう思わないか、バレエだ』(中略)
と感嘆、妻におもわず話しかけた」
・「それから西陣へ。
五、六世紀ごろ、渡来人によって養蚕と機織りがもたらされた。応仁の乱(1467)のときに、細川勝元の東の陣にたいして、山名宗全の構えたこの地が西陣の起源。この跡地に座が生まれ、西陣織が起こった。(後略)」
・「『あなたが日本にいらしたことを存じております。日本のテレビの視聴者になにかおっしゃることはありますか?』
と黒柳がたずねると、そのせつな、チャプリンは顔面が紅潮して、なみだが浮かんできた。そして、黒柳の手をにぎったまま、言った。
『日本のことは忘れない! 歌舞伎は素晴らしいものだった。ぼくが皆さんを愛していることを伝えてください。ありがとう。ほんとうにありがとう』(後略)」
・「チャプリンとかれの作品は、20世紀を代表する人物と作品として、これからの世紀にきざみこまれていくことはまちがいない。日本人はチャプリンの映画を見続けてきた。チャプリンもまた日本と日本人を見てきた。
桜の季節に日本を訪れる機会はついになかったが、チャプリンの八十八年の生涯のうち、日本滞在は34日と15時間10分。日本について考えた日々は、はるかにそれを超えていたはずである」
本文以外に「チャプリン シドニー 1932年5月14日 神戸港にて」「ゴダードの母親 ゴダード チャプリン 1936年3月6日 横浜にて」「チャプリン、日本最後の日 1961年7月26日 羽田空港にて」という1ページ丸々使った写真も掲載されています。文句無しにオススメの本です。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
・「『キリストが大統領でもアメリカに帰らない』(セドリック・ベルフッジ〈チャプリン会見記〉『中央公論』1956年2月号)、と映画公開の前年の1956年、アメリカからの亡命者とのインタビューの中で刺激的な発言をしていたが、そのインタビューを読んでも、映画と同じようにもうひとつアメリカへの批判の的がしぼりきれていなかった。このインタビューでチャプリンは、アメリカが豊かさの陰で家族や隣人愛が崩れてきているとして、子供への影響をとくに心配していた。たしかに、ややエキセントリックであったが、映画(『ニューヨークの王様』)にはそれがあふれていた。大げさに言わなくても、やがてそのことが20世紀後半の先進国心理となり、映画のバックグラウンドとなっていく。高度経済成長が生産と雇用と消費などの生活の有り様を根底から変えてしまった。拡大された『モダンタイムズ』の到来である」
・「アメリカの高度経済成長の後ろ側で、人と人との結びつきが空虚になっていくというコミュニケーション不在(ディス・コミュニケーション)社会の到来を鋭く見抜いていた」
・「インタビュアー『そういう点で現在の映画傾向である七十ミリの大型映画をどう思いますか?』
チャプリン『大きらいだ。大型スクリーンは映画の緊張度---いわば、観客の興味のボーカル・ブレーン(焦点面)を殺してしまう。映画の美しさとは、ひとつにはある広がりを
一点に集中させるという、“サイズ”のなかにあると思う。その“サイズ”には限度があり、それをこえると芸術性が失われてしまうのだ』」
・「インタビュアー『原爆をテーマにした映画をつくるという噂がありますが、また広島へいくのですか?』
チャプリン『旅行の目的は前にも言ったとおり。もちろん、原爆には大きな関心をもっている。原爆には絶対反対、ぼくは平和を愛する男だ。だが、広島については、すでに山ほどの文学作品に書かれてしまったからね』」
・「女将の畦上輝井(てるい)はチャプリンの心境にふれている。
『チャプリンさんは冷房が大きらいだということでしたので、冷房を停め、窓を開放してお迎えしました。箸を左手にもって、とても器用にすき焼きを召し上がり、日本酒をお飲みになり、琴、長唄に続いて、日本舞踊をごらんにいれました。純日本式のものを、ひどく喜ばれたようです。(中略)琴で〈春の海〉をお聞かせしたら、アンコールされまして、〈鶺鴒(せきれい)〉をやりました。本当に熱心で、耳を澄まして聞くという言葉がぴったりするほどでした。帰りにお言葉をうかがったんですが、『この前来たときと違って、いまの日本はヨーロッパの文化ばかり入って悲しい。でも、ここで純粋な日本文化に接することができた」とおっしゃってくださいました』」(後略)
・「24日、左京区御陵の下町龍安寺へ。
(中略)百二坪の庭園がなんといっても著名。三方は杮葺(こけらぶ)きの土塀、白砂に七、五、三と十五の石を配しており、海と鳥の象徴という。蔵六庵という草庵風の質朴な茶室に座った。
チャプリンは、お茶をだす娘の一挙手一投足をみて、
『優雅だ。そう思わないか、バレエだ』(中略)
と感嘆、妻におもわず話しかけた」
・「それから西陣へ。
五、六世紀ごろ、渡来人によって養蚕と機織りがもたらされた。応仁の乱(1467)のときに、細川勝元の東の陣にたいして、山名宗全の構えたこの地が西陣の起源。この跡地に座が生まれ、西陣織が起こった。(後略)」
・「『あなたが日本にいらしたことを存じております。日本のテレビの視聴者になにかおっしゃることはありますか?』
と黒柳がたずねると、そのせつな、チャプリンは顔面が紅潮して、なみだが浮かんできた。そして、黒柳の手をにぎったまま、言った。
『日本のことは忘れない! 歌舞伎は素晴らしいものだった。ぼくが皆さんを愛していることを伝えてください。ありがとう。ほんとうにありがとう』(後略)」
・「チャプリンとかれの作品は、20世紀を代表する人物と作品として、これからの世紀にきざみこまれていくことはまちがいない。日本人はチャプリンの映画を見続けてきた。チャプリンもまた日本と日本人を見てきた。
桜の季節に日本を訪れる機会はついになかったが、チャプリンの八十八年の生涯のうち、日本滞在は34日と15時間10分。日本について考えた日々は、はるかにそれを超えていたはずである」
本文以外に「チャプリン シドニー 1932年5月14日 神戸港にて」「ゴダードの母親 ゴダード チャプリン 1936年3月6日 横浜にて」「チャプリン、日本最後の日 1961年7月26日 羽田空港にて」という1ページ丸々使った写真も掲載されています。文句無しにオススメの本です。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)