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『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモーロウ』その2

2016-09-20 07:27:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
・「偶然の一致が奇蹟を生んだ。(中略)約束の日、約束の時間にレイ(・チャールズ)はギョム・テル・スタジオに姿を現した。抱擁を交わして、いくつかの思い出を語り合うと、私たちはすぐさま仕事にとりかかった。一分も無駄にはできなかった」
・「私が初めて監督した映画に、レイ・チャールズからの思いがけない贈りものが添えられたのだ」
・「1989年2月、『六月の五日間』はフランスのスクリーンを飾った。真冬に春の映画である。批評はまずまず好意的だったが、配給会社が乗り気にならなかったため、興行成績はあまり振るわなかった。しかしながら、フランスに続いてアメリカでも公開されると、熱心な議論の的になった。多くの観客が、私の物語のなかに自分の過去の断片を見つけ出してくれたのだ」
・「私の胸骨には生まれつき陥没があった。三歳になったとき、母は数人の専門医師の診断を仰いだが、そのうちの一人が私のいる前で恐ろしい死の判決を下したのをよく憶えている。『お可哀そうに、奥さま、お子さんは長くは生きられませんよ!』」
・「しかし母マルセルは、北の海岸ベルクの冷たい気候のなかで骨を専門に治療する療養センターがあることを調べあげた。(中略)それは(中略)楽しいヴァカンスだった」
・「やがて、私はアルバイトの単発仕事を引き受けるようになった。たとえば当時、郊外の映画館では本編の前に短編映画や予告編、ニュース映画の上映や、アトラクションがあった。よく行われたのが、過去の古ぼけた名声を背負った赤鼻の叙情シャンソン歌手の舞台だった。そうした歌手にも伴奏が必要なのだ。当時、私は十九歳だった」
・「叔父ジャックは捕虜になっていたドイツから帰還すると、1945年にレイモンを継いでポップ・オーケストラを立ち上げた。(中略)楽団のテーマ曲は友人のアンリ・ブールテールが作曲した〈パリの花 Fleur de Paris〉で、まぎれもないパリ解放の賛歌だった。当然の成り行きで、私は叔父のために初めて編曲することになる」
・「戦後処理によってレイモンのイメージは傷ついたとはいえ、活躍の場がすべて失われてしまったわけではない。彼はフランス・デッカ社の音楽ディレクターの仕事についていた。(中略)父は当時デッカに所属していたエディット・ピアフのための二曲のオーケストラ編曲を私に書かせ、ブリュッセルでのレコーディングでは指揮もさせてくれた。またレイモンのおかげで、わたしは初めて映画界と接触することができた」
・「私は映画に夢中になった。まもなく父は自分が依頼された映画音楽の仕事に私を引き入れるようになった。それはオーケストラ用の編曲だったり、挿入音楽の作曲だったりした。(中略)レイモンの仕事はつねに緊急、大至急。午前二時に予期せぬ電話が鳴るのだった。『もしもし、ミシェルかい? 最悪なんだよ。明日の朝九時に録音するんだが、それまでにあと一、二曲書かなきゃならないんだ。すぐこっちに来てくれ!』」
・「この1952年のツアーは私の活動の第一歩となった。それはまた二十歳の夏でもあった。車での毎日の旅は仲間意識を強くさせる。私は公演の司会を務めていたジャニーヌという魅惑的な若い女性と親しくなった。彼女はやがて私の最初の娘ドミニクの母親となる」
・「カネッティから、フィリップス所属のアーティストのために編曲を書き、レコーディングで指揮をしないかと誘われたとき、私は服を着たままプールに飛び込むような気がした。私の仕事はシンプルだった。多くの場合、ポップス作曲家の楽譜は、メロディにハーモニーが付いているだけだった。それを指定のサイズにふくらませるのが編曲者である。それは、服を歌手のサイズに合わせて調整する、オートクチュールのような仕事だった。私は、フランスのポピュラー音楽界でもっとも素晴らしい世代が同じひとつのレコード会社に集結しているという幸運に恵まれた」
・「私の報酬については彼(カネッティ)は厳密な計算法を編み出した。オーケストラの編成が大きくなればなるほど、一曲の編曲料は高くなった」
・「50年代、わたしが大いに幸運だったのは、二つの大きな革命と呼応していたことだ。SPからハイファイのLPレコードへの移行、そして数年後のステレオの出現である。私はこれらの革新的技術の恩恵を受けると同時にそれを推進する役目も果たした」
・「ニューヨークのコロンビアの担当者たちは『アイ・ラヴ・パリ I Love Paris』のテープを受け取るなり夢中になり、アルバムは大宣伝をともなって発売された」
・「一年にLP一枚のペースで、私は仮想の世界旅行に出発した。それぞれの国に捧げるテーマを持つ33回転レコードを毎年作ったのである」
・「『アイ・ラヴ・パリ』の人気は長い間私についてまわった」(また明日へ続きます……)

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