今日の朝日新聞の社会面に、「『五輪の花』体操で金七つ チャスラフスカさん死去 74歳」と題された記事が掲載されていました。ここでその全文を引用させていただきたいと思います。
「1964年東京五輪の女子体操で三つの金メダルに輝き、『五輪の花』『東京の恋人』と呼ばれて日本でも親しまれた旧チェコスロバキア出身のベラ・チャスラフスカさんが30日、亡くなった。74歳だった。(中略)
42年、プラハ出身。東京五輪では個人総合、跳馬、平均台で金メダルを獲得。68年メキシコ五輪でも個人総合で2連覇を達成するなど四つの金メダルに輝いた。3度出場した五輪で合わせて11個のメダルを獲得した。
優雅な演技で日本を含め、世界中のファンを魅了したが、母国の民主化運動、68年の『プラハの春』を支持する『2千語宣言』に署名したため、迫害を受けた。89年の民主化で名誉を取り戻した後は、大統領顧問やチェコ五輪委員会会長も務めた。
だが、息子が元夫を死なせてしまう事件をきっかけにうつ病を患い、90年代終わりごろには表舞台から姿を消した。10年以上にわたる闘病生活を乗り越えると、日本にもたびたび来日。11年には東日本大震災の被災地も訪れた。
昨春、膵臓がんで10時間に及ぶ手術を受けた。その後も化学治療を続けていたが、今年6月、肝臓にがんが見つかり、医師から余命が短いことを宣告されていた。(金島淑華、ウィーン=喜田尚)」
また「評伝 アドレスに『桜』日本愛した」と題される文章も掲載されていました。そちらも転載させていただくと、
「チャスラフスカさんに最後に会ったのは2カ月前のことだった。プラハのカフェで2年半ぶりに再会した彼女は、20キロ以上もやせていた。それでも、温かい笑顔とはきはきとした語り口調は変わらなかった。
だから、残された命が短いと聞かされても信じられなかった。2020年東京五輪の開催が決まった時には自国のことのように喜んでいた。病を乗り越え、きっと見にくるだろうと思った。だが、彼女が続けたのは『東京五輪は雲の上から日本の皆さんに手を振りますね』という言葉だった。
演技に魅了された日本人が彼女を愛したように、彼女も日本を愛していた。パソコンのメールアドレスは『sakura1964@……』。うつ病と闘っている間、日本からの取材は受けなかった。後に『薬の副作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくなかった』と明かした。
64年東京五輪代表で彼女と親交のあった中村多仁子さん(73)は『ベラにとって東京五輪は特別だった。選手として、女性として、最も輝いていた時期ですから』と思いやった。
苦難の多い人生だったが、信念は曲げなかった。
『プラハの春』の母国がソ連軍の侵攻を受けた直後のメキシコ五輪では、ソ連の選手が金メダルを授与されている間、顔を背けて抗議した。『2千語宣言』への署名で迫害を受け、職を失っても、反体制の立場を覆さなかった。
最後に訪ねた時も、街を歩けばサインを求められる有名人だった。それでも、『恥ずべきことだから、』と派手な生活はしなかった。講演やイベントの出演料を要求することもなく、国から与えられた一軒家を人に貸して、六畳ほどの部屋一つのアパートに住み、家賃収入と年金で暮らしていた。数々のメダルはベッドの下の箱の中だった。
最後の最後まで、信念を貫いた人生だった。(金島淑華)」
ベラ・チャスラフスカさん、忘れてはならない名前の一つであるようです。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
「1964年東京五輪の女子体操で三つの金メダルに輝き、『五輪の花』『東京の恋人』と呼ばれて日本でも親しまれた旧チェコスロバキア出身のベラ・チャスラフスカさんが30日、亡くなった。74歳だった。(中略)
42年、プラハ出身。東京五輪では個人総合、跳馬、平均台で金メダルを獲得。68年メキシコ五輪でも個人総合で2連覇を達成するなど四つの金メダルに輝いた。3度出場した五輪で合わせて11個のメダルを獲得した。
優雅な演技で日本を含め、世界中のファンを魅了したが、母国の民主化運動、68年の『プラハの春』を支持する『2千語宣言』に署名したため、迫害を受けた。89年の民主化で名誉を取り戻した後は、大統領顧問やチェコ五輪委員会会長も務めた。
だが、息子が元夫を死なせてしまう事件をきっかけにうつ病を患い、90年代終わりごろには表舞台から姿を消した。10年以上にわたる闘病生活を乗り越えると、日本にもたびたび来日。11年には東日本大震災の被災地も訪れた。
昨春、膵臓がんで10時間に及ぶ手術を受けた。その後も化学治療を続けていたが、今年6月、肝臓にがんが見つかり、医師から余命が短いことを宣告されていた。(金島淑華、ウィーン=喜田尚)」
また「評伝 アドレスに『桜』日本愛した」と題される文章も掲載されていました。そちらも転載させていただくと、
「チャスラフスカさんに最後に会ったのは2カ月前のことだった。プラハのカフェで2年半ぶりに再会した彼女は、20キロ以上もやせていた。それでも、温かい笑顔とはきはきとした語り口調は変わらなかった。
だから、残された命が短いと聞かされても信じられなかった。2020年東京五輪の開催が決まった時には自国のことのように喜んでいた。病を乗り越え、きっと見にくるだろうと思った。だが、彼女が続けたのは『東京五輪は雲の上から日本の皆さんに手を振りますね』という言葉だった。
演技に魅了された日本人が彼女を愛したように、彼女も日本を愛していた。パソコンのメールアドレスは『sakura1964@……』。うつ病と闘っている間、日本からの取材は受けなかった。後に『薬の副作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくなかった』と明かした。
64年東京五輪代表で彼女と親交のあった中村多仁子さん(73)は『ベラにとって東京五輪は特別だった。選手として、女性として、最も輝いていた時期ですから』と思いやった。
苦難の多い人生だったが、信念は曲げなかった。
『プラハの春』の母国がソ連軍の侵攻を受けた直後のメキシコ五輪では、ソ連の選手が金メダルを授与されている間、顔を背けて抗議した。『2千語宣言』への署名で迫害を受け、職を失っても、反体制の立場を覆さなかった。
最後に訪ねた時も、街を歩けばサインを求められる有名人だった。それでも、『恥ずべきことだから、』と派手な生活はしなかった。講演やイベントの出演料を要求することもなく、国から与えられた一軒家を人に貸して、六畳ほどの部屋一つのアパートに住み、家賃収入と年金で暮らしていた。数々のメダルはベッドの下の箱の中だった。
最後の最後まで、信念を貫いた人生だった。(金島淑華)」
ベラ・チャスラフスカさん、忘れてはならない名前の一つであるようです。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)